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[書評] 紫式部と藤原道長

倉本 一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書、2023)

紫式部は実在したと聞いて安心する

〈後世、紫式部と称されることになる女性は、確実に実在した。(中略)藤原実資の記した古記録である『小右記』という一次史料に「藤原為時の女(むすめ)」として登場して、その実在性が確認できる〉と、いきなり本書は始まる。

同様にして、和泉式部は実在したが(藤原道長の『御堂関白記』に江式部として登場)、清少納言は(一次史料に名前が出ないので)実在したかどうかは〈百パーセント確実とは言えない〉という。〈へえ〉ボタン(古い)を押したくなる(実在した紫式部の日記に登場するので、清少納言はおそらく実在しただろう、くらいのところだと)。

では、『小右記』のどこに紫式部は出てくるのかと思って調べると、確かにあった。ただし、名前は書いてなく、〈越後守為時女〉とあるのみである。(下)

『小右記』(10行めに〈越後守為時女〉)

この一次史料は、〈越後守為時女〉の記述のあとに、紫式部が語ったことが漢文で記されているので興味深い(彼女云、後述)。

本書の目的は〈『源氏物語』と『紫式部日記』が道長なくしては成立しなかったことを明らかにする〉ことにある。

いったいどうやってそれを論証するのか。歴史学者(著者は古記録を重視する歴史学者、大河ドラマ「光る君へ」の時代考証担当)のお手並み拝見というところだが、その手法は驚くべきものである。

書くための物理的手段(摂関期の当時、高価だった紙など)を提供した者がいたはずだと推理し、著者に源氏物語を書くよう依頼したその人物こそ道長であるというのである。

それを詳述するのが第7章「『源氏物語』と道長」である。著者はこう述べる。

〈『紫式部日記』には寛弘5年(1008年)11月に彰子の御前で『源氏物語』清書本を作製したことが見えるが、その際、道長から紙、筆、墨、硯が提供されたと記されている〉と。

なるほど、道長がこれらを式部に提供して執筆を依頼したとすれば筋は通る。

しかし、だとすれば、道長の目的は何か、が次に問題となる。

道長の目的について、著者はこう述べる。

〈この物語を一条天皇に見せること、そしてそれを彰子への寵愛につなげるつもりであったことは、言うまでもなかろう〉と。

ということは、つまり、道長はその目的のために紫式部の文才を利用したことになる。

そのことについて、現代人が現代の立場から批判がましいことを言ってみたところで、始まらない。それよりは、この世界最高峰の文学が生まれたことのほうを寿ぐべきなのだろう。

上に挙げた『小右記』に紫式部が出てくる箇所について、本書の第十章「三条天皇の時代へ」の2の中の「紫式部と実資の信頼関係」のところに、『小右記』長和2年(1013年)5月25日条の説明がある(大意)。

[資平が]今朝帰ってきて云ったことには、昨夕、女房——越後守藤原為時の女(むすめ)、この女を介して前々も雑事を啓上させていた——に逢いました。あの女が云ったことには、東宮[敦成親王]の御悩は重いわけではないのですが、やはりまだ尋常というわけではありません上に、熱気がまだ散じられません、また左府(道長)もいささか患う様子があります、ということでした、と。
(読み下し文)
今朝、帰り来たりて云はく、「去ぬる夕、女房に相逢ふ〈越後守為時の女。此の女を以て、前々、雑事を啓せしむるのみ。〉。彼の女、云はく、『東宮の御悩、重きに非ずと雖も、猶ほ未だ尋常に御さざる内、熱気、未だ散じ給はず。亦、左府、聊か患ふ気有り』と」てへり。

上掲の史料には、上欄外に、「東宮御悩 紫式部御病状ヲ語ル」と記してある。あらためて、東宮や道長の近くに居た紫式部が史料に確かに出てくることを見て、安心する。

紫式部が本当に「東宮の御悩、重きに非ずと雖も、猶ほ未だ尋常に御さざる内、熱気、未だ散じ給はず。亦、左府、聊か患ふ気有り」と語ったのかどうかはわからないが、ともかく、そう記録されている。その当時、このような漢文で話したのだろうか。それとも口語で話したのを、漢文で意を書き留めたのだろうか。おそらく後者だろう。

本書によれば、紫式部とはっきりわかるのは『小右記』の長和2年5月25日の記述であるが、その他の箇所で実資とよく連絡を取合っているある女房も、紫式部と考えられるとのことである。興味深い。

道長の三女威子の立后の日(寛仁2年[1018年]10月16日)、道長の邸での祝宴で道長が詠んだ即興の和歌(「この世をば」)が『小右記』に記録されることによって世に残った。漢文の記録である『小右記』に和歌がどうやって載るのかと思って調べたら、本当に和歌のままで載っていたのでびっくりした。(下)

『小右記』(9-10行めに〈此世乎は〉)

本書の著者は、〈この和歌が悪しき政治体制としての摂関政治というイメージを増幅させていたのであるし、天皇を蔑ろにする存在が悪人道長のイメージを定着させてしまったことも事実である。史料というものの面白さと怖さが象徴的に表れた事例である〉と述べるのである。

#書評 #古記録 #倉本一宏 #紫式部 #藤原道長

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