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     俺はソクラテス

 1998年6月上旬、その旅行者はフランスにいた。パリにいた。
 その日、ストラスブールからパリ東駅に到着し、地下鉄でシテ島に行き、ノートルダム寺院を見ようと考えていた。この時はまだ、寺院は火災で焼け落ちていなかった。
 パリメトロ4号線に乗り、薄汚れた座席に座った。乗客はそこそこいたが、座れないという程ではない。この時はまだ、4号線は自動運転化の話さえなかった。
 旅行者は、岸壁が剝き出しになった地下洞窟のような通路が、パリの地下鉄にある事に驚いていた。工事の必要がないので、そのまま使っている感じだった。日本では在り得ない。
 またジャンダルムリ(国家憲兵隊)が、実弾入りの小銃を抱えて、地下鉄の通路を小隊で整然と行進しながら、治安維持する姿を見て、ここは警察国家なのかとさえ思った。
 ニューヨークよりはましな程度の治安なのかもしれない。98年はユーゴスラヴィア内戦で、大量の難民がパリ市内に入っていた。これはまだ世界が平和だった頃の話だ。
 東駅から一つ目のシャトー・ド駅で、車両の扉が開くと、黒人の青年が乗り込んできた。
 「Mes chers compatriotes!Je suis Socrates!Alors……」
 (親愛なる我が同朋たちよ!俺はソクラテス!では……)
 その黒人の青年は、ソクラテスと名乗り、フランス語で何か演説していた。地下鉄の乗客たちは相手にせず、そのまま過ごしていた。頭のおかしい人と思ったのかもしれない。
 「Why do you call yourself Socrates?」(なぜソクラテスと名乗る?)
 その旅行者は思わず尋ねてしまった。悪い癖だ。この時はまだフランス語が話せなかった。
 その黒人の青年は、こちらに振り返ると、おもむろに隣の座席に座った。
 「Because I'm Socrates.」(俺がソクラテスだからだ)
 こちらに合わせて英語に切り替えた。それから先の会話は全て英語だった。
 「ソクラテスってあのソクラテスか?古代ギリシャの哲学者であるところの……」
 路線図を見ると、シテ島まで6駅あった。10分強の会話になりそうだった。
 「古代じゃない。俺は現代のソクラテスだ」
 その黒人の青年は、大きく手を広げた。どこかユーモラスだった。
 「その現代のソクラテスは地下鉄で何をしている?」
 「市民たちと対話している。哲学している」
 どうやら、ソクラテスごっこをしているようだった。欧米では、キリストを名乗って救世主ごっこする人たちが時々いるが、それのソクラテス・バージョンのようだった。
 これはレアかもしれない。
 帰国したら、弟子を引き連れて猟官運動をやる孔子ごっこでもやるべきか。
 「市民たちと対話するとどうなるんだ?」
 「対話する事が目的だ。市民たちと対話しなければいけない」
 対話のための対話というものは、果たして意味があるのか?ただのお喋りではないのか?
 「いつも何の話をしている?ソクラテスはどの対話にもテーマがあった」
 ソクラテス自身は著作を残していないが、その弟子たちは言行録や対話禄を残している。
 「じゃあ、テーマを決めよう。何がいい?」
 その黒いソクラテスは尋ねた。
 「……魂についてはどうだ?」
 その旅行者は答えた。ソクラテスと言えば、やっぱり魂の存在証明だろう。
 「いいだろう。魂の何から話す?」
 「……そもそも魂は存在するのか?」
 旅行者が尋ねると、黒いソクラテスは考えた。
 「その話はまた今度にしよう。正直、俺の手に余る」
 その黒人の青年は両手を挙げた。黒いソクラテスは正直だった!
 「じゃあ、何の話をする?」
 メトロは走り、会話は進まない。黒いソクラテスは考えた。
 「地球温暖化問題について話そう」
 「……いいだろう」
 その旅行者は言った。合意しやすい話題を選んだつもりだろうが、そうは行かない。
 「地球は温暖化している。このまま行くと大変だ。そうだろう?兄弟」
 「別に温暖化などしていない。気のせいだ」
 旅行者がそう答えると、その黒人の青年は目を見開いた。
 「なぜだ?地球温暖化は明らかじゃないか!」
 その旅行者は、地球の自転と公転、および太陽光線の地球に対する入射確度、そして照射時間と照射面積の増減から、極地における氷河の生成消滅を論じた。
 「つまり、どういう事だ?」
 その黒人の青年は、旅行者の説明に圧倒されていた。
 「要するに、気候変動は周期的に繰り返される。これは惑星科学、地球科学の問題だ」
 「……そこに人間の活動は入らないのか?」
 「温室化ガスの話なら、むしろ二酸化炭素が増えた方が、地球の緑にとっていい」
 その黒人の青年は驚いていた。予想していなかったらしい。
 「恐竜時代を考えてみろ。今より温暖化して、栄えていたじゃないか。みんな大きい」
 その黒人の青年は黙っていた。
 「地球温暖化問題は人類の自意識過剰だ。この星の作用の方が遥かに大きい」
 旅行者がそう締め括ると、黒いソクラテスは納得が行かないという風にしていた。
 「やっぱり魂の話をしよう」
 黒いソクラテスは言った。
 「いいだろう。どこから話す」
 旅行者は受けて立った。メトロが停車する。
 ふと外を見ると、そこはレオミュール=セバストポル駅だった。半分を超えた。
 「そもそも魂は存在するのか?それが問題だ」
 その黒人の青年はこちらを見ると、その旅行者は言った。
 「……死後の世界は存在するのかと言い換えてもよいか?」
 黒いソクラテスは頷いた。
 「より問題が具体的になった。グッドだ」
 死後の世界は、経験論の外側に広がっている。どこが具体的なのか不明だった。
 「先に兄弟の考えを聞かせてくれ」
 その旅行者は、イギリスのツアーで見たゴースト・ウォーズの話をした。
 17世紀の古戦場で年に一回、清教徒革命時の鉄騎隊の戦闘が見える一大パノラマだ。英国の旅行会社がツアーを組むぐらいだから、誰でも見える。過去の映像が見える。鉄騎隊を率いる護国卿の姿を見た者はいないようだが、兵士たちは見える。
 「……それは凄い。だが今の俺達の問題と直接関係ない」
 その黒人の青年は言った。
 「確かにそうかもしれない」
 旅行者は取り上げた例が、あまり適切でない事は認めた。
 あれは何らかの理由で、空間に過去の映像が記録されていて、毎年月日が巡ると、自動的に再生されているだけなのかもしれない。自然現象としての映画か。それとも魂の牢獄か。
 「じゃあ、今度は俺の話を聞いてくれ」
 黒いソクラテスは言った。
 「魂は存在すると俺は思っている」
 旅行者は頷いた。
 「質量保存則だ」
 話が突然、飛躍したが、旅行者は黙って話を聞いた。
 「氷があって、水があって、蒸気がある」
 その黒人の青年は遠くを見た。何だか音楽が聞こえてきそうだった。
 「人間も同じだ。最後は蒸気のような状態になって存在する。それが魂だ」
 そこだけ切り取って見ると、まるで映画のワンシーンみたいだった。
 どこかウィル・スミスに似ていた。この黒人の青年は、夢を見ているのかもしれない。
 「なるほど、形を変えて存在し続けるという訳か」
 旅行者は感心した。そして付け加えた。
 「でもどちらかと言うと、固体・液体・気体だから、物質の三態だな」
 だが物質の三態のように人間が変化するという説は面白い。一定の説得力はある。
 「いや、質量保存則だ。気体だとマシンで計測できるだろう」
 黒いソクラテスは言った。
 「魂はエネルギーなんだ。失われない。だから質量保存則なんだ」
 何となく合っているような、合っていないような話だった。まぁ、どちらでもよい。
 「でもさっきの理屈で言えば、水が天地を循環するように、魂も循環するんじゃないか」
 旅行者は指摘した。すると黒人の青年は頷いた。
 「ああ、魂は天地を循環する。水のように、虹のように」
 「東洋では、そういうのをリーンカーネイションと言うんだ」
 「reincarnation?」
 知らない単語のようだった。転生輪廻。やはり西洋ではあまり馴染みがない概念か。
 「それは分からないが、とにかく太陽が天地を温めて水を循環させる。人間の魂もだ」
 旅行者は、説明として悪くないと思った。見える世界と、見えない世界が対比されている。
 「……太陽は神か」
 「そうだ」
 話が太陽信仰になってしまった。だが我々古代人には相応しい話題かもしれない。
 「……君は日本人か?」
 「いいや、中国人だ」
 その旅行者はそう答えた。
 「どこで降りる?」
 「シテ島だ」
 旅行者がそう答えると、ちょうど地下鉄がシテ島駅に到着した。
 「また会おう」
 黒いソクラテスはそう言った。
 「ああ」
 また会うなんて事があるのだろうかと思いながら、旅行者はそう答えた。
 最後に二人は笑顔で握手した。歴史的な瞬間だったかもしれない。
 駅のホームに降りると、その電車は発進した。黒いソクラテスを乗せて。階段を上りながら、対話を思い返していた。一瞬の出来事だった。もう二度と会わない。二度と話さない。
 それだけに貴重な会話だったかもしれないと思った。

          『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』エピソード16

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