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とある内閣総理大臣の日常

 その総理大臣は、内閣が発足して、暫くすると、国民向けに、談話を発表した。
 「これはピーター・ドラッガーの『経済人の終わり』である」(注96)
 一冊の本を取り上げた。ドラッガーと言えば、経営論で有名だが、この本は異なる。
 「彼のデビュー作にして、政治学の本である。国民の皆さんの推薦図書としたい」
 本当は、ハイエクの『隷属への道』(注97)にしたかったが、あまりに難解過ぎると言われて、過去に実績があるドラッガーの『経済人の終わり』にした。この本は、ウィンストン・チャーチル(注98)が、1940年に、国民の推薦図書に指定した事がある。今回、その模倣だ。
 「かつてこの本で、全体主義と戦った政権があった。今、また読み直す時が来た」
 関連する図書で、ハンナ・アレントの『全体主義の起源』(注99)も上げた。
 「なお電子書籍ではなく、紙媒体で買う者には、図書券を出す」
 反DXも忘れない。国民は経営論には興味があったが、政治学には興味が薄かった。
 その後、この総理大臣は、この国で、聖域となっている禁断の領域に手を付け始めた。
 「放送法を改定する。N〇Kは特殊法人ではなくなる」
 総理大臣の宣戦布告は突然だった。この国では、泣く子も黙る〇H〇と言われ、米軍基地にまで、受信料の徴収に行ったという伝説の団体だが、これは不意打ちだった。
 「もし国営放送を選択するなら、税金で運営しよう。無論、国の指示には従ってもらう。だが民営放送を選択するなら、補助金は一切出さない。他の民営放送と同列に扱う。国営放送であるかのような扱いもしない。NH〇は、国営か民営か旗幟(きし)を明らかにせよ」
 これは爆弾だった。当然、〇HKは猛反発した。自局の番組で攻撃する。
 「……放送法の改悪だ。これでは報道の公平性が損なわれる。公共の破壊だ!」
 N〇Kは識者を集めて、大論陣を張った。だが他の局は特に反応しなかった。
 「民営放送として存続するなら、どう経営して行くかは問わない。自由だ」
 総理大臣の応答は短かった。国民は、受信料の徴収だけ、気にした。結果として、〇H〇は国営放送化し、税金で運営される事になった。国民は、受信料の徴収から解放された。総理の方針は、歳出は歳入を超えないため、予算は少ない。NH〇は大幅に規模を縮小した。
 次に総理大臣は、年金解体を宣言した。この衝撃は大きかった。最大級だったかも知れない。
 「国の年金を清算します。納付も停止します。無論、これまでの納付額に応じて、年金は受給できますが、原則、年金事業は停止です。理由は財源の枯渇です。一体誰が年金を破綻に追い込んだのか、過去に遡って調べます。理由に寄っては、刑事告訴も辞さない」
 誰が年金を破綻させた犯人か、分かっていない。もう故人かもしれない。だが追及する。
 年配者はこれまで通り、年金を受け取り、若者は年金から解放された。途中まで納付した中高年は、年齢が達し次第、納付総額に応じた年金を受け取る。最後の一人が年金を受け取るまでは事業は継続するが、新しい納付はない。債務は国が引き受けるが、これ以上の赤字はない。
 「国民健康保険料の見直しをする。医療に価格競争を導入したい」
 第三弾は国保だった。保険料を従来の半分以下に抑える代わりに、医療費が上がる。結果、国民は不要な診察・受療は避けるようになり、病院の回転率が上がる。病院は患者が来なくなるため、あの手、この手で、他の病院と差を付けて、医療の向上に努めざるを得ない。
 受信料、年金が家計簿から項目ごと消え、保険料が激減した。これだけで実質給与のアップとなった。国民は何も言わなかった。だがマスコミは識者を集めて、総理を攻撃した。
 「総理は何を考えている?この国の社会保障・医療サービスを崩壊させる気か!」
 「……民間に任せる。政府の仕事じゃない」
 総理大臣は、北欧型の社会を蛇蝎(だかつ)の如く嫌っていた。人が働かなくなると言う。
 次の聖域は、中央銀行デジタル通貨(CBDC)の問題だった。デジタル庁時代から政府による究極のDX化の一手として、偵察総局が取り組んでいる。最近、日本知事会の東京都知事も、関心を示し、先行して、東京都のデジタル通貨、東京(トンキン)を発行している。
 「中央銀行デジタル通貨(CBDC)は止めます。部署は解体」
 総理大臣は言った。解体される部署とは、偵察総局の事だ。書類にハンコが押された。
 「カードの紐づけも停止。運転免許証、保険証は復活します」
 総理大臣は、反DX政策を推進した。役人たちの反発は大きかった。国民は見ている。
 「……なぜ総理は反DXを推進するのですか?」
 ある雑誌のインタビューで、総理大臣はマスコミからそう尋ねられた。
 「社会のDX化は全体主義に繋がるからです。政府が国の全てを管理する夢のようなディストピア社会が到来します。皆さんは何から何まで、政府に管理されたいですか?」
 「……それはシステム化された理想社会の到来では?AI管理は公平で平等ですよ」
 「AI管理?本気で言っているのですか?」
 総理大臣は敢えて、明るく笑い飛ばしてみせた。だがマスコミは言った。
 「……人間の管理は偏向性がありますが、AIなら絶対平等で公平な管理ができます」
 「AIは神ですか?今に、便器の中身まで管理されるような社会が到来しますよ」
 総理大臣は、マスコミのインタビューにそう応じた。中央銀行デジタル通貨(CBDC)は、偵察総局が導入を進めていた。政府が個人の購入履歴を管理できる。購入や売却に応じて、ポイントを付与する。政府が推進するアイテムにはポイントを与え、推進しないものは逆にポイントを奪う。ポイントがゼロになると、当面の間、何も買えなくなる。そういう仕組みだ。
 違法な売買が、完全に取り締まれるという事を述べているが、お金の代わりに、物々交換や、金などコモディティも流通している。抜け道は色々ある。恐らく禁酒法時代の合衆国みたいになって、道徳が高まるどころか、犯罪が増えるだろう。だがグローバリストたちは推進する。
 「大陸も、西側のグローバリストも、考えている事は同じです。私は断固、反対する」
 総理大臣は、過剰なくらい反DXを推進した。社会のアナログ化、昭和への遡行・回帰だ。これには多くの役人やIT事業者が不満を持った。だが次の一撃はさらなる反発を呼んだ。
 「公務員を削減します。日本は小さな政府を目指します」
 新卒の採用を控え、希望退職者を募る。あと警察・自衛隊への転属も推進した。
 「……意味が分からない!総理は日本を潰す気か!」
 閣僚の一人が造反したが、すぐに総理は解任した。だが世間からも説明を求められた。
 「大きな政府は民間の活力を奪う。国民の4人に1人が公務員だった国は破綻した」
 地中海のとある古い国だ。その国は2009年、財政破綻して、世界中に大迷惑をかけた。
 「理想は役人がいない国だが、それは無理だ。だからせめて数は減らす」
 「……公務員の自衛隊の転属とは?これはどういう事ですか?」
 マスコミはそれが訊きたいとばかりに、総理大臣に迫った。
 「海上保安庁、海上自衛隊の隊員不足は深刻だ。希望者がいれば、そちらに行って欲しい」
 総理大臣は、安全保障部門の削減は考えていないと明言した。だが多くの公務員が退職した。
 「NATO連絡事務所は閉鎖とする。日本はNATOに加盟しない」
 これも国民の批判と不安を招いた。日本は西側全般と付き合わないのかと。
 「欧州大戦に日本は関与しません。中立を維持します」
 総理大臣は、日本の永世中立国化を目指しているのでは?と推測する識者もいた。
 「そういう訳ではない。ただ今の状況では、似たような政策を取らざるを得ない」
 総理大臣は、日本を永世中立国にするつもりはなかった。それは将来に対する縛りとなる。
 「舵取りは難しいが、善隣外交を旨としたい」
 だが総理大臣は、津波前の最後のG20で、シン・枢軸国疑惑を起してしまった。たまたま椅子の座り心地が悪かったので、総理大臣は椅子に深く座っていた。そこに大陸の国家主席と北方の大国の大統領が左右に座って、話し掛けてきたため、マスコミに激写された。
 その写真は世界に出回った。日本の総理大臣が、地獄の帝王のように、椅子に座っていると言われた。左右には話題の独裁者が二人。第三次世界大戦のシン・枢軸国と言われた。総理大臣は不満だった。別に彼らに接近する意図はない。だが写真の構図で決めつけられた。
 「……やはりこの男は、日本の敵だ。日本を滅ぼす」
 右も左も関係なく、総理大臣を批判する者が増えた。殺害予告も増えた。遊説は取りやめたが、それでも移動中に火炎瓶攻撃を受ける事は、少なくなかった。国賊と呼ばれた。
 やむを得ず、総理大臣は外に出る時、マスクをして、サングラスを掛けた。都内は富士山の降灰も続いている。不自然な姿ではなかった。むしろ、今の時勢に合っていた。
 今日は、引退した元議員の挨拶に行く。この人物がいなければ、今の自分はない。総理になってから初めての挨拶だ。報告も兼ねて、病床をお見舞いする。だが意外な話を聞いた。
 「……君の元妻に気を付けろ。マスコミに情報をリークしている。スキャンダルだ」
 元議員の娘が、総理大臣の元妻だ。離婚してから会っていない。今何をしているのか?
 「それはそもそも止められるものですか?」
 放って置くつもりだった。マスコミは喰いつくだろう。だが今更何を話すのか?
 「……警告はしたぞ」
 話はそれで終わった。今更元妻の話が出て来た処で、何も状況は変わらない。悪いのは向こうだ。向こうが不倫して、こちらに裁判を仕掛けて来た。なぜかこちらが敗けたが、それはもういい。自宅近くの公園を歩いていると、去年オヤジ狩りしてきた若者たちに出会った。
 総理大臣は、敢えてマスクとサングラスを外して、敢然と顔を見せた。物陰から見守っていたSPたちが動いたが、左慈道士に制止された。オヤジ狩りしてきた若者たちは、相手が元サラリーマンと分かったようだが、同時に目の前の人物が、総理大臣である事にも気が付いた。
 「今日も股を潜るか?」
 総理大臣が尋ねると、オヤジ狩りしてきた若者たちは、慌てて首を横に振った。
 「そうか。ちゃんと働けよ」
 総理大臣はそう言って立ち去った。オヤジ狩りしてきた若者たちは茫然と見送った。左慈道士はSPたちに微笑むと、姿を消した。
総理大臣は独り、公園を歩いている。池が見えて来た。ベンチがあって、柳の木があった。そうだ。去年、ここで運命の出会いがあった。ヒロインだ。
 「……出世したようだね」
 柳の木の下に、老婆が立っていた。やはり白いビニール袋を提げている。
 「ああ、お陰様でな」
 総理大臣があの時と同じようにベンチに座ると、老婆がテイクアウトの牛丼を取り出した。
 「……食べるかい?」
 「ああ、ありがたく頂こう」
 総理大臣は割り箸を割った。親子ぐらい年齢が離れている。最後にお茶を一杯貰った。
 「……驕る事なく前に進むんだよ。神様、仏様はいつだって見ているからね」
 老婆は金色の光に包まれて、天に昇って行った。いつしか若い女の姿をしていた。
 「ありがとう。観世音菩薩」

注96 『The End of Economic Man』1939 Peter Drucker US
注97 『The Road to Serfdom』1944 Friedrich August von Hayek Österreich
注98 Sir Winston Leonard Spencer Churchill(1874~1965) England
注99 『The Origins of Totalitarianism』1951 Hannah Arendt US

            『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺001

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