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883/1096【想像チャレンジ】あなたが”いる”って、どういうこと?

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で883日。

※この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。

883日目。毎日同じことをするのって、自分の精神をちょうどよく張ってくれて、磨いたり鍛えたりしてくれるものなのだと思う。ルーティンって大切だ。このことをこの年になって知るなんて。毎日投稿をやってみてよかった。やらなきゃ知らなかったかも知れないのだから!!

若い頃のわたしは、いかなるルーティンにも時間を縛られない、自由な人生ばかりに価値があるのだと激しくそう思っていた。けれども当時の自分を、ものすごい不自由だったと思う。それは苦しい考え方だ。

ルーティンがあろうとなかろうと、人の自由は変わらない。そんなことで左右されてしまうものを、自由とは呼ばない。ルーティンを組み込んだだけで「不自由だ!」と言い出す人は、所詮なにをしていたって不自由だ。

1096日が過ぎても、きっと心地の良いさまざまなルーティンを自分で生活に組み込むことができる自由を謳歌したいと思う。わたしにとって、毎日これを書くことで知ることのできた、最も有益なことのうちのひとつだ。

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ううう…漫画・アニメの沼とはげに恐ろしきものよ…自分が入ったら溺れるから決して入るまいと思って悶絶しているとき、その人はもうすでにその沼に浸かっている。

なぜならまず、その「入ったら溺れそうだ」という認識は、それへの魅力を見出してしまっている証拠だから、である。こうしてなにかの対象から自分の身を守ろうと考えたとき、わたしたちは対象の脅威を身を以て自身に証明しているのだ。はあ❤

誰かリヴァイ兵長のAIロボットを創ってくれないだろうか。脳は精密にリヴァイの記憶や思考回路などが組み込まれており、経験によって変化もする。皮膚の素材などはかぎりなく有機物に近い触感となっており、動作は人間のそれと遜色ないものでお願いします!!初期設定で自分のことをどれくらい好きなのかの度合いを選べて、ツンデレ度・強気度・冷徹度・甘さ度などが選べるようにしていただけませんでしょうか!!自分は、自分のことをまったく好まず、冷徹度と強気度をMAXにした超ハードモードの兵長と暮らします!!ああ死ぬほど辛そう!!(ヨダレ)

こう考えると、兵長はなんと遠くて目の前にいる存在だろう。この世界は不思議だな。文章や絵は人の思いがあってこの世に生まれる。そして、それを読んだり見たりした人はそれへの思いを抱くのだ。それはつまり、その文章や絵が人間へのリアルな影響力を持っているということ。だから、人が思いを寄せる対象となるものに、実態のありなしは条件とはならないのだ。

たしかに、恋心や同情などの感情は、人間の細胞を持ったリアルな相手に対するものでも、二次元の相手に対するものでも、小説の中の人物に対してだって、同じだものね。

「実態がないものに実感を持つ」と言えば、わたしは以前、自分の肉体や感覚がなくなり、わたしというものの実態がなくなるという感覚に入ってみることを頻繁にしていた。

めちゃくちゃリアルに想像することをしつこくやりすぎると、それがそもそもわたしたちの感覚のベースになっているのだと知覚して、それがいつもある状態になってしまう(ずっとメガネを探していて、すでにメガネをかけていたのだとわかったようなものです)。

わたしはこれが、自分の覚醒体験につながるとは考えもしないでやっていたのだけれども、今日はそれについて書いてみようと思う。

たとえばわたしがもし事故などによって手足を失い、義手義足を使っているとする。(未来にはきっと、思いのとおりに動かせるものが出てくることだろう)その時点では、わたしはもちろんわたしだ。誰しもわたしのことを、これまでのように「壇珠さん」として扱うことだろう。

これをもし、できる限り自分の肉体を人造のものに置き換えていくと考えてみたらどうだろう。皮膚のほとんどが人造物になったとしても、その存在はまだわたしだ。ガンを患った人のように、胃を切除してもそれはわたしだ。身体中の骨をすべて人造物に置き換えても、それはわたしだ。声帯が人造になったって、眼球が人造の球型の精密なカメラになったって。

脳以外の身体をすべてアンドロイドにしたとしても、わたしはわたしだ。その身体の素材が金属製であろうと、プラスチック製であろうと、人造の有機物による組織であろうとも。

このとき、わたしをわたし足らしめているものとはなんだろう。

それは、わたしの記憶だろうか?わたしはわたしの記憶に拠ってわたしだと言えるのだろうか。記憶というのはいくらでも入れ替わり忘れてしまい、なんの保証にもならないのではないだろうか。

たとえばわたしが頭を打って記憶をなくしたとしたら、わたしを誰も壇珠さんだと言わなくなるのだろうか。そんなことはないはずだ。わたしはそれでも、それはわたしなのだと思う。

なぜなら、未来の技術で人造の量子コンピュータメモリによって人造脳を作ることに成功したとして、そこにわたしの主観によるこれまでの記憶をメモリに入れ、反応のパターンなどをプログラムに実装し、それを先の人造人体に埋めこんだと考えてみたときに、わたしはそれをわたしだとは思わないからだ。そう認識することが、できないだろうと思う。

その人造脳は、魂を持っていない。その人造人間はもはや、生きてすらいないではないか…!壇珠さん再現ロボットであり、生命体ではないのだ。たとえ本物の脳のように学ぶことができ、成長や変化をすることすらできたとしても、そのプログラムは魂のないものだ…

わたしの肉体を完全に捨ててしまったら、わたしの魂は肉体から離れ、もうわたしはそこにはいないのだと思う。そしてその抜けた魂のほうがわたしで、それが”これが自分だ”と認識しているような気がする。

その魂とはなんだろう。わたしはそれを、””意識””だと思う。

ということは、わたしというのは、いくら変化してもわたしなのだ。
わたしが””魂=意識””と繋がってさえいれば。

逆に言えば、意識と繋がることさえ可能になれば、すべてが人造物でもわたしはそれをわたしだと認識するのだと思う。わたしが壇珠さん再現ロボットなのではなく、壇珠さんの”憑いている”ロボットだ。これならば、わたしだと認められる感じがしないだろうか。

わたしたちは普段、自分の肉体を自分だと思っている。
自分の記憶を自分だと思っている。
自分の反応を、感情を、思いを、自分だと思っている。

でもそれは、いくらでも変化する。影響を受け、老朽化し、加工され、廃れ、消え、忘れられ、跡形もないほどに変化してしまうもの。わたしたちは、なにをもってして自分を自分だと思うのか。そのことを己に問うてみると面白い。

実際にみなさんも、身体のすべてのパーツがアンドロイドになった感じを想像してみて欲しい。さてそのとき、あなたはなにをもってして、あなたをあなただと確信しているだろう。

あなたがあなたの視界を持っていること、だろうか。しかしあなたがもし視覚を失ったとしたら、あなたはあなたをあなただと感じなくなるだろうか。そんなことはないはずだ。目が見えない。わたしは誰?!とはならないはずだ。

さらに、アンドロイドの身体に不具合が起こって嗅覚が機能せず、触感も味覚もなくなったのなら?そのとき、過去のことがうまく思い出せないとしたら?

あなたはその時、なにをもってしてあなたをあなただと感じるのだろう。体感がなくとも、しかしあなたはいる。あなたはそこにいる。さて、一体なにが、あなたにそう認識させているのだろう?

そう、その感じ、それがあなただ。これは、あなたという存在をあなたに認識させている根拠の核を、その幻想から目覚めさせるはずだ。ぜひ、意識の目覚めに興味のある人は、この感じに浸ってみてね。

というわけで今日は、読むだけで自然と自分という存在の認識の仕方に疑問を持って変化する観点のシェアでございました!この記事が、こうしたことが好きな人のところに会いに行けますように。

それではまた、明日ね!!


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