見出し画像

1066/1096 夏の終りの先祖供養

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1066日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。点線以下が本日の話題です

1066日目。とうとうこの日が…!!残り30日となってしまった!!明日からは残り20日台に突入…さよなら、さよなら、さよなら~ああ~もうすぐ外は白い冬…小田和正氏の歌声が脳内に再生されるだなんて、自分はよほど切ないのだなあ…

今こうして自分の書くものを見ていると、なんと元気あふれる文章だろうかと思う。自分にもこんなに元気に地球人をしている時代があったのだなと思う。老後の、死後の、別の状態の自分からは、この時代が懐かしくてたまらない。嬉々として地球人真っ最中だったころの自分の思いが、こうしてデジタルの次元に記録されるのが嬉しい。

ブログを書いているときに、自分が存在していたことを懐かしく思うことが多い。書き記して表現したことというのは、あっという間に過去になる。それを懐かしく思うことは、自分を宇宙で唯一の存在だったことや、生きていた頃を愛する気持ち、不器用ながらに不完全ながらに失敗しながらに一生懸命だったと認める気持ち、少なくとも実際に地球に降り立って生きたことを誇らしく褒め称える気持ちにしてくれる。

だから書いてよかった。表現することの素晴らしさを知られてよかった。ああ自分は生命力を石炭のようにボンボン燃やして生きているんだな。その元気をここにぶつけられてよかった。自分が死んだあとも、生きたことを褒めてあげよう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

日本のお盆も過ぎて少し経って、徐々に気温が落ちてきました。今年もお墓参りができませんでしたが、わたしの先祖はもう散り散りに別の人の一部として生まれ変わっているのでしょう。そう考えると、”わたしの”祖父、”わたしの”祖母、などというものはいないのですね。言うならばわたしの祖父をやっていた意識、わたしの祖母をやっていた意識があって、今はもう物質世界では別の人の家族なのかもしれません。同じ世界に彼らが生きているのだとしたら面白いことです。お互い面識もないだなんてねぇ…

わたしは先祖を本当に大切にすることを考えたら、自分を可愛がって生きるのがいちばんだと思っています。どんな先祖だって、自分の子孫を「痛い目に遭ってほしいなあ」「苦しんでほしいなあ」「不幸になってほしいなあ」「早く死ねばいいなあ」などと思ってはいません。「どうか幸せになってほしい」「健康でいて欲しい」「繁盛して欲しい」「できるだけ楽しく嬉しくいて欲しい」「長生きして欲しい」と思うものです。

だから、先祖の切なる願いを叶えるという意味でも、「ご先祖さま、安心くださいね。ご先祖様の子孫を大事にしますよ」と考えること。そしてまずは自分、それから自分の子孫を大切に可愛がって生きることが真の先祖供養なのですね。きっとどんな先祖だって、喜んでくれるからです。また、こういう考え方を知って意識するだけで、ご利益もあるのですよ。

だから、自分の顔や特徴や性格に対して、ああで嫌だ、こうで醜い、これが不便であれが気に入らない、ダメだ、劣ってる、くだらない、あまり価値がない、つまらない人間だ、などということを言ってはいけません。

でもそう思っちゃうんです、じゃないのです。それじゃ意思が弱すぎるということ。意志の力、大脳新皮質を使うことで、自らやめるのであ~る。その中毒から足を洗うということです。

どうやってやめるのかというと、まずは「あたしゃダメだなあ」という考えを、否定はしないのです。なぜなら、自分で自作自演して否定に反発してしまうから。その否定に反発して「だってダメなんだもん!!」という思いを強めてしまいますよね。だからもちろん否定はせずに、「ダメだという見方もあるよね、でも別の見方もあるよね」という形で同意すること。

「自信がなくなるとついついダメだと思っちゃうよね。でも他の見方もあるよね」これを切り札にするのです。相手は自分とは言えど、違ったものの見方をする自分と尊重し合うこと。自分の一部は「あたしってダメだもん」と言っていて、こちらはそれをやめさせたい。「そんなことないよアモーレ」と伝えたい。

だとしたら、「いろんなものの見方があるよね」という覆しようのない正論で両成敗して自分と仲直りするのですね。自分のことをダメだもんと思っちゃう気持ち、わかる。けれども、それとは違う見方があることを、否定もできないじゃないか…この正論にまずは慣れましょう。慣れたらしめたものです。そこからどんどん加速して感覚は変化します。

するとどうなるのかというと、ダメな自分をダメだと思わなくなるのではないのです。悲報でもあり朗報でもありますが、そこはあまり、変わりません。ダメなところがあるままだし、ダメだなあと思う。でも、だからってなんなのさ。大したことじゃぁないねぇ。いいところもあるのに、そこを見ないのはフェアじゃないねぇ。となってくるのです。ある意味で、ふてぶてしくなるのです。ここがポイントですよね。

まずわたしを例に取ってみると、わたしゃそりゃあもう本当にダメなのです。もうね、血液型がダメ型と言いますか、なぜか生まれつきキチッとカキッとしていません。四歳ころに気づいたときにはすでにダメ型でした。ゆるい、鈍い、ぼんやり、テキトー、忘れがち、伸びがち、延びがち、ボケ、そして間抜けです。くそう。そのせいで、できないことがありまくりです。そして、それが今も良くなったりはしていません。生まれつきなので、変わりません。地球人の多くはもともとの性格を持っていて、それは変わらないものです。宿命というやつですね。

それは天から預かったものなので、変わらないのです。つまり、それ自体に文句を言っていても仕方がないということ。そこは、諦めるしかないのです。そして、それにうまく対応して、それをケアして、そこを楽しんで、そこにありがたみを見い出して、丁寧に生きていくということ。これが自分であることの使命だと言えます。

でも、ここまでの薄らボケを担当できる自分もすごいと思うのです。一人でお茶を湧かせないし、電車にもまともに乗れないというかなりギリギリのラインを攻めていますが、それにすら感謝して人生を謳歌できそうなタフな魂だから、わたしはこの人物になったのです。

わたしはとにかく薄らボケなので、キチキチっとできません。やろうとすると、原子力発電所6つ分くらいのエネルギーが必要です。やろうとすれば少しはできますが、そうすると長所を活かすための力すらも短所潰しに使う羽目になります。

そういうとき、たとえば自分の良い点…集中力を使えるところや、手先の器用さや、勇気なども使えなくなります。生活から楽しみがなくなって、やりたいことも思いつかないし、やる気がそもそもないし、なんか毎日疲れているし、人と仲良くするのも大変になってきてしまいます。それから、短所潰しのために短所が出てしまわないかばかり監視してしまって、ダメ出しばかりが増えて、精神的にも元気がなくなって、悲観しやすくなってしまいます。これは、やりすぎると鬱になるやつ、です。

だから、薄らボケは人間社会ではもちろんれっきとしたダメなところですし、それはそのままですが、そこのところをあまり気にしないで好きなことを頑張ったほうが成果が出ます。

薄らボケに適応して生きるしかないので、わたしは周囲にも「薄らボケで申し訳ない」と謝っておいたり、ボケ発動に対応して最低限のところは思い出せるようにリマインダーを使ったり、キチンとできる人を尊敬したり、力をお借りしたり、別の形でお返ししたり、自分にもできることを楽しんだりしていますが、このほうがずっといいのですね。短所潰しにエネルギーを取られないので、クリエイティブなことをしたり、良いところを使うことができます。

今になって思えば、日記を三日と続けられなかったことも、短所潰しに悪戦苦闘して失敗ばかりしていたからだと思います。それが苦しくて大変すぎました。だから、日記に使う心の元気の余裕が残っていなかったと言えます。

なにしろ、この性格特徴をもって生きるのがわたしの使命です。身長も変えられない、生まれつきの体質も変えられない、生まれつきの性格も変えられない、この人物であることも変えられない。だけれども、それに不平不満悪態をついて生きるのか、それを尊重して愛して生きるのかということだけは、わたしたちの自由意志で選べることです。

わたしはこうして、先祖からもらった身体である壇珠さんを、自分なりに全力でなんとか大事にケアして生きることを、ご先祖様への愛のこもった供養だと思っています。おお~い、じさま、ばさま~!!じさまとばさまの孫のこと、俺がんばって大事にスてるど~!!ちゃんと可愛がるがら、心配スねで好ぎにやってけれ~!!

先祖代々脈々と続いてきたこの生命のリレーは、バトンを受け取って今を生きるわたしたちが現在の走者です。死してバトンを譲るまで、自分をいたわって、愛情を持って世話をして生きていきたいものですね。今年も良い夏でした。秋が楽しみですね!!

というわけで今日は、夏の終わりにご先祖さまへの思いを綴ってみました。
それではまた、明日ね。


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)