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1005/1096 正しくなくていいんじゃない、間違っていいんだ。これらは全然同じじゃない

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1005日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です

1005日目。ど疲れさまでい~っす。わたしは今日、ど疲れている。ど疲れ状態で昨日の記事を書き終わったばかりだけれども、明日は秘行のコースを予定しているため、なんとしても日本が夜中の間に書ききってしまわねばならない。というわけで、日本の日付が変わったのでそのまま書いている。

疲れているとなにが問題か。それは、頭が回らないことである。と、ここまで書いてわかった。どうやら頭が痛くて喉が痛いぞ。どうりでおかしいと思った。

疲れというよりも、身体がちょっと調子を崩したようだ。
しかし、書かない、は選ばない。なんとかして書くぞ。

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上までを書いて、そのまま座っている事ができずに横になったら、眠ってしまっていた。気がつけば夜中の2時前。このまま朝を迎えると、そのあとから仕事が詰まっていて、書く時間はない。どうする。

と、そう書いて瞬きをしたらば一瞬で5時半だ。いつの間に眠ったのだろう!!今は眠くて片目しか開かない。まだ疲れている。喉が痛い…

ああ、きっとわたしがこのコンディションで今日のスケジュールを強行すると言えば、多くの人は「休んだほうがいい」と言って止めてくださることだろう。それが”正しい”からである。

わたしたちは、なかなか誰かに対して、そのままでいい、と言ってあげられないものだ。ついつい、正しいアドバイスをしてしまう。わたしたちには、間違ってはいけないという強い洗脳がある。

長く生きるのが正しい、健康が正しい、幸せが正しい、安楽が正しい、というように、絶対的に正しいと思うものがあって、わたしたちはそちらに向かうように促すときにはまったく遠慮というものがない。それがもう、促すことを超えて絶対的なマウントや押し付けになろうとも。

もしかしたらその人は、休むよりも活動するほうが元気になるのかもしれない。あるいはもしかしたらその人は、活動したせいで死ぬのかもしれない。でもそれが、活動しないで長く生きるより幸せだったのかもしれない。

絶対的に正しいことしか見ようとしない人は、こういうことが見えなくなってしまうのである。

長寿でギネスに載ったフランス人女性は毎日毎日チョコレートを食べていたそうだ。砂糖は悪いから、チョコレートには脂があるから、食べないほうがいいと言ってやめさせていたら、そのストレスは彼女の寿命を縮めたのかもしれない。

一説によれば、人間は、食生活に気をつけ、酒やタバコを禁じて、規則正しく生きたとしても、4年程度しか寿命を伸ばせないらしい。アルコールやタバコへの依存は本人も苦しんでいることがあるから、それならばできれば改善するのが良いと思うけれども、それでもわたしはほとんどの場合において、本人の好きにすれば良いと思う。

たとえそれで寿命が縮まろうとも、長く生きるほうが幸せなのだと、誰が断定できようか。そういうことに、もっともっとわたしたちは、「うっせえわ」と思っていいのではないだろうか。親切はありがとう。でもうっせえわ!って時が、誰にでもあると思うのだ。

失恋だってそう、させておけばいいのだ。
したいのだから。泣いていたって、それでいい。
無理に泣きやめさせても、あるいは無理にいい相手を選んでも、それはその人を幸せになんかしない。わたしたちには、幸せがいらない瞬間がある。

夫婦喧嘩だって、させておけばいい。
しなければ気が済まないのだ。わんわんぎゃんぎゃん、やればいい。無理に二人を引き離しても、別の人と同じことをする。憎まれ口を禁じても、仲良くなったりなんかしない。わたしたちには、平穏がいらない瞬間がある。

そういうときのわたしたちは、正しい人間のあり方、良いあり方、健全なあり方、とわたしたちが一般的にイメージしている状態ではない。もちろん失恋なんかしないほうが楽だし、喧嘩なんかしないほうが平和だ。なんだって、楽で平穏な方がいいに決まっている。でも、それでも人間って、そんなふうにはできていないものだと思う。大変で苦しいのも、馬鹿で情けないのも、辛いのに経験したくてたまらない。喧嘩だろうが失恋だろうが、経験しないと気が済まないのだからどうしようもない。

とことん経験できるまで、その人はそれを求めてしまう。やってやってやり切って、ああもういいかげんにしようと思えるまで、やってしまう。だから本人にもどうしようもないのだ。でも、こう書いたら乱暴にまとめすぎてしまっていて怒られそうだが、それでいいとわたしは思う。

その経験をしている間じゅうその人は、毎秒毎秒それをやめる方向に、飽きる方向に、やり切って足を洗うゴール地点に、向かっているのだから。だから人は、どんな状態のときだって、あるがままでいい。ベースとして信用して大丈夫だとわたしは思う。

もちろん今の社会ではダメなこともあって、暴力はいけない。暴力を禁じられた人が、そのせいでやりたいようにやれなくて、そのせいでストレスをためて、そのせいで早く死ぬのだとしたら、早く死ぬっきゃない。他者を傷つけることを諦めて自分が死んでおくれやす。気の毒だがそれしかないし、この線引きは必要だとわたしは思う。

正しいアドバイスなんていらない、という人がよくいるが、見ているとその人はそれを正しいと思っているのだろうと感じることがある。そういう人は、もっと自ら実践してみればいいのではないだろうか。”「正しいドバイスなんていらない」という正しいアドバイス”を撒き散らしている暇があったら、自分が正しいと思うことを崩して間違って見せればいいのだと思う。

「正しさなんて不要」ではない。
「間違うことが必要」なのだと思う。

「正しいアドバイスなんていらないのです!」みたいに綺麗にまとまった安全なことを言っていないで、誰かが失恋して泣いているときに「失恋しまくって泣きまくればいいと思う」と、誰かが喧嘩をして怒っていても「あたしゃそれを信頼して応援する」と言えばいいのではないか。間違ったり健全じゃなかったり不健康だったりしてもいいと言えばいいのではないか。てめえにその勇気がねえのに、「正しいアドバイスなんてしません」とか言うな。じゃあなにが必要なのか、自分はどうやるのかを言えばいいのではないか。

苦しんで泣いている人に、”「苦しみを手放しましょう」みたいな正しいアドバイスをしない”だけでいいことした気になって終わらないで、その苦しいあり方に対する心からの信頼をもてばいい。つまらないことにこだわって怒っている人に、”「怒りを手放しましょう」みたいな正しいアドバイスをしない”だけでいいことをした気になって終わらないで、その怒った人を心から信頼してともにあればいいのではないか。

間違っていて大丈夫だと思えない人が、正しくなくていいとか言うな。
それなら正しいほうがマシだぞ。

わたしは、誰かが正しくなくていいと思うだけでなく、間違っていていいと思う。執着していいと思う。むしろそういう人は面白いと思う。
それをその人と一緒に外から観て、慈しんだり可愛がったり笑ったりして遊びたいと思う。そういうときに人は輝いている。そして、執着というのはそれを「遊び」「エンタメ」「笑い」「喜び」「ありがたみ」の対象にしてしまうと、逆に成仏してしまうものなのだ。

今日の秘行初級コースのお茶会でも、みなさんが輝いていた。わたしは嬉しかった。みなさんがめっちゃかっこよかった。かっこいいみなさんと、われらの人生を笑って、地球人を笑って、どこにも正しさなんてないのに、われらの意識の仕組みを笑って過ごした。

お茶会が終わって、わたしは体調の悪さなんてどこかに吹っ飛んでいた。
無理をしてよかった。やっぱり元気になった。今日もいい日だ。

良い方を選ぼうとすると、ときにわたしたちは自分の成長や、本当の声を無視してしまうことがありますね。可愛い自分には、旅をさせる必要もきっとあるのだと思います。頭を使って庇ってばかりいたら、窮屈で仕方ねえや!
やわらか頭で、野生の勘で、たまにはジャンクも食って、寝不足をしてでもいいから、喜びに向かって冒険をするように生きていたいですね。

というわけで今日は、たとえ間違ってもいいから、それより大事なものがあるのかもしれないという柔軟な目をもってみませんかというお誘いのシェアでございました。こんな不良記事ですが、だからこそどなたかと響き合えますように。笑

それではまた、明日ね!

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