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970/1096【質問回答】悪口をやめたい/嘆く母に「まずは自分が幸せになってほしい」と伝えたい…他

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で970日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です

970日目。ここまで家事をせずに暮らしていると、たまにやったときにとても楽しい。家事は本来楽しいのだ。この楽しさに、家事が心からやりたくてやるようになってからようやく気がついた。

自分はまったくもって未熟者だから、この年になってから他の人がすでに知っていることを知るということが多い。実はコツコツと積み重ねることは楽しい。実は地味な作業は楽しい。実は継続は楽しい。目立たない、地味な、自分の名も知られることのない貢献こそが、実は心の底からの温かな喜びをくれる。一瞬だけ仏様の顔を拝んでも良いような気がして、この世の全部に懺悔したくなるほど幸せなときというのは、自分などどこにもいない時だ。

紛れもない真実として、わたしは塵と同等の、いなくても問題などない、なんの価値もない存在だ。この真実を両手を広げて歓迎し、そこに寛いでいられることは人間の最大の幸せのひとつである。

今日も地道にこの投稿を書くのが幸せ。こんな変な投稿を読んでおられるとても変わったあなたに感謝。どうもありがとうね。

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今日は質問回答です。3つのご質問にお答えします。

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悪口をやめるチャレンジって、自分の変化がとても面白いので、是非試してみてください。

面白いとは言っても、まずひとつ確認しておいてほしいことがあります。それは、癖になっていることというのは、やはりどうしても、ちょっと意識してグッと我慢をするとか気を引き締めて方向転換する時期を持たなくては抜けられないということ。

なので、はじめはいっちょ気合を入れて、「絶対に悪口を言わない。誰が言っていても乗らない」と心に誓って、よっしゃやってみよう!と楽しく挑戦すると良いですよ。意識してやめていなくてはならないのは、ほんの初めのうちだけで、習慣化すると当たり前になってしまいます。

いちばんその助けになるのが「悪口を言っているのが、いかに自分に良くないことなのか」を徹底して意識することです。わたしたちの潜在意識にとって、『他人』と『自分』に区別はないので、あまり悪口を楽しんでしまうと、悪口を言っている相手と同じように自分を扱ってしまうのです。

と言っても、悪口ってなんぞやというところを考えてみるのも大切だと思います。わたしは、たとえば「あの人はサイコパスだね」「あの人は今とても貧しいね」「あの人は食べ物の好き嫌いが激しいね」などと言っても、それが事実なのであればこれ単体では悪口ではないと考えています。
そのあとに「だからこんなふうに協力できるね」という話をすることもできますもんね。

それから、本人に向かって言えることなのであれば、陰口でもない。
「君はサイコパス気質だからなあ」と言って互いに笑い合えるのであれば、なんでもないことなのですね。それから、たとえば「あの人の言っていることは良くないことだと思う」と誰かのことを他者に言ったとしても、本人にもおなじように言っているのであれば悪口ではありませんよ。

悪口というのは、「あの人はサイコパスだね。気持ちが悪い」「あの人は今とても貧しいね。能無しなのよ」「あの人は食べ物の好き嫌い激しいね。育ちが悪そう」などと、事実を勝手に悪く評価したり、事実ではない勝手な悪い想像を添えて言うことなのですよね。

これは、やめてみると二度と言いたくなくなります。
なぜなら、事実でもなんでもないことに対して、自分の勝手な悪い評価を人に見せていることになるからです。わたしにはその事実がこんなに悪く見えます~と披露しているわけですね。

つまり「わたしというフィルターを通すと、ものごとがこんなに悪いこととして解釈されま~す」「わたしのフィルターがこんなにも汚れていま~す」とご披露しているということ。

これは一度理解してやめると、もう次からは言うのが恥ずかしくなってしまいます。悪口を言う人をそんなふうに見る人はたくさんいるので、どこで見られているかわからないと考えると、もう今から恥ずかしいですよね。

というわけで、自分由来の悪い評価や悪い想像を言わなくなるのが本当に悪口をやめるということです。こうしてなにが悪口なのかをハッキリと理解してから取り組むと良いと思います。言っていいこととダメなことが区別できて、非常に悪口をやめやすく、スッキリしますよ。

ちなみに、わたしたちがいちばん悪口を言いやすい相手は誰でしょうか。そうです、「自分自身」です。

自分自身について、「自分で言うぶんにはいいけど、人から言われたら嫌だと感じる」ことがあるのならば、それを自分でも言わないのが良いですね。

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『ありのままに自分を観る』ということと、
『その自分に感想を持つ』ということとは、

まったく別の作業です。感想の内容そのものが、その前に自分で自分をありのままに観られていたどうかを判断するための材料にはならないのですね。

多くの人が、ありのままに観るということと、自分のすべてを好きになることが、同じことだと思っています。でもそう考えなくてよいのです。

「夫さんに冷たい」ということについて、あなた自身は本当はどう思っているのでしょうね。「だってしょうがないよ」というのは、あなたの本心ではないように思います。

なぜかというと、「だってしょうがないよ。と思ってしまうならは、本当に自分を観たことにはならないのではないか」という疑問があなた自身の心に湧いているからです。その違和感は、どこから来るのでしょうか。

「だってしょうがないよ」と思っている自分を観てみるとどうですか。また、「これはありのままを観たとは言えないのではないか」と思っている自分を観てみると、どうでしょうか。なぜあなたはそう感じたのでしょう。

外側に正解はないのです。だから、あなたがそれを観てみて、そこであなたが感じたことを、大事にしてみてくださいね。どうかそうした意識の探求を、深刻にならずに面白がってやってみて。常に、遊び心とともに。

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質問者さまのお母さまに言っている言葉、それをそっくりそのままあなた自身に言ってあげてください。弟さんがどうであろうとも、お母さまがどうであろうとも、それを気にせずに自分の幸せだけを見ていられるかどうかを、あなたが自分自身に問うてみてください。それがすべてだと思います。

弟さんやお母さまの人生が幸せかどうかを、あなたが決めなくてよいのですよね。弟さんのことを、お母さまは好きなだけ嘆く自由があるのです。そのお母さまが幸せかどうかは、お母さまにしかわかりません。

そして、どう考えるもお母さまご本人にお任せしておいて大丈夫です。それは、神さまがお母さんだけにお任せしたことだからです。

そんな弟さんやお母さまを見ながらも、さて、あなたはあなたの人生をどんなふうに感じていますか。それ一点に絞って、考えてみてくださいね。すると、あなたに良い気付きがやってきてくれますよ。どうぞお楽しみに。

さて、今日はここまで。
それではまた、明日ね。


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)