砂時計
窓から侵入してくる空気は、とろりとした甘い雨の匂いがする
ヒロは、ピアノの譜面台に肘をついて、タバコの煙をゆっくり吐いた。
私は素肌にTシャツだけを身につけて、膝を抱えてベッドの上からヒロを見つめる。彼の横顔は、あまりにも研ぎすまされていているから、迂闊に触ることはできない。
目を伏せた時、長い睫毛の下にできる影。笑う時にできる目尻の皺。まぶしそうに私を見つめるまなざし。タバコを持つ細く長い指。広い背中。力強い腕。ひとつひとつの筋肉も、足の指も、爪も、肌の匂いも、彼のすべてが、私を体温を2°も3°も上げる。焦燥感で身動きがとれなくなりそうだ。
ひんやりとしたキメの細かい冷たい大理石のような肌が大好きだから、もう一度、冷たいシーツの上で、ヒロと抱き合って、彼の肌に指を這わせたくなる。
『たぶん、今日が最後なんだ。』
ヒロと私の砂時計。
約束された時間は、あと少し。
私は、息を詰めて、最後の砂つぶが落ちきってしまう時間を心の中で計算する。
目を伏せた時、長い睫毛の下にできる影。笑う時にできる目尻の皺。まぶしそうに私を見つめるまなざし。タバコを持つ細く長い指。広い背中。力強い腕。ひとつひとつの筋肉も、足の指も、爪も、肌の匂いも、彼のすべてを自分だけのものにしてしまいたい。
絶え間なく降り続いていた雨は、止んだ。西日が一筋、部屋に入り込んでくる。
私は、来週、別の男との結婚する。式場も、新居も、新婚旅行のチケットも、すべてが順調に整い、私と婚約者は幸せのまっただ中にいる。
それなのに、、、。
ヒロが、結婚を引き止めてくれたなら、私は、型にはまった幸せを全て捨て去ることができる。ヒロのためなら、親や友人や仕事だってどうでもいいものに思える。ヒロの一言が欲しい。結婚してくれなんて言葉、期待しない。ただ、ただ一緒にいられるだけでいい。もう一度、砂時計をひっくり返して二人の時間をはじめ直そうって、それだけでいい。
私の結婚にひそかに胸をなで下ろしているのは、間違いなくヒロだ。争うことなく、私が離れて行くことをヒロが望んでいる。
「ふふふ。」
私は、ヒロから目を逸らしてそっと微笑む。
私の漏らした声に気が付いたヒロは、私を振り返って優しく笑う。何か言いかけて、躊躇いがちに口を開く。
「俺、これからリハーサルがあるんだ。」
ヒロは一言つぶやいた。
ヒロのその言葉が本当なのか嘘なのか、もうどうだっていい。
狡くて、時には残酷で、私の気持ちも心も、平気で弄び、利用する男。その上、争うことなく私がそっと立ち去ることを願っている男。
私は、ベッドのマットレスの下から本物のナイフを取り出す。ピカピカに光るナイフをどうしてベッドの下に隠していたのか、その理由、今なら分かる。
いいよ、やってしまおうよ。どうせヒロは自分のものにはならない男なんだ。最後の一瞬だけでも自分だけのものにしてしまおう。彼の命を手にしても、すぐに神様が、彼を私のもとから連れ去ってしまうけどね。神様に盗られてしまうなら諦めもつくし。
私に背を向け、シャツとジーンズを身につけるヒロ。そのシャツとジーンズは、私と一緒に原宿の古着屋で買ったんだ。私は静かに立ち上がり、その背中に向かって一歩足を進める。肝臓を刺してしまえばいい。私の婚約者が教えてくれた。婚約者は外科医だから、どの辺を刺せば致命傷を与えられるか得意そうに教えてくれた。太ももの大動脈でもいいらしいけど、正面から向かったらヒロにナイフを取り上げられてしまうだろう。
私に刺されたらヒロは驚いて声をあげるだろうか。
砂時計の最後の砂がゆっくりと落ちていく。砂の落ちる速さに合わせて、ナイフを持った私はヒロの背中にまたもう一歩、近づく。
「新婚旅行から帰ったらさ、また連絡してくれる?」
ヒロが背中を向けたまま言った。
『えっ?』
終わりにしないの?
「私が結婚しても、まだ会ってくれるの?」
私は咄嗟にナイフを背中に隠して、怯えた声をあげる。
「お前、終わらせたいの? お前が、終わらせたいなら、諦めるけど。」
振り返ったヒロに向かって、私は、頭を横にふる。
柔らかい動きで、ヒロは、私に近づく。こわばっている私の肩に優しく両手を掛けて、私の唇にふんわりとキスをする。
「じゃ、行くから。旅行、楽しんで来いよ。そうだ、免税店で、シャネルのブルー、買ってきて。」
にっこりと笑って、ヒロは、部屋を後にした。
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