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#87 ときどき学校 ときどき自分 

ときどき学校に行くことが多い。いかなくてもいい日がある。常に学校だと日常生活は学校のサブシステムになる。自分の時間がなくなる。自分の時間というのはそもそも自由なんで好きに堕落もできる。堕落が続くとときどき学校にいって多少のシステムの束縛で修正を試みる。この、ときどき、は大学生だと理解しやすい。

結局、その程度のやり方・付き合い方がとても効率が良いのだ。学習でも分散学習のほうが効果があることが分かっている。ときどき、は自分なのだ。

天気のように自分のときどきがあっていい。残念なことに、それが大学までできない。中高生はとくにそう。あんまり自由にするとリスク大きすぎることもある。エリクソンは若い世代のこうした曖昧な状態を、モラトリアムと考えた。

猶予はよいが、さて、将来、執行される内容がいったいなにかわからない時代である。結局自分で対応してください、という単純でなんの解決にもならない結論がある。

昔は20歳で成人になりそして仕事するいという共通認識があった。今はそれも自由である。サルトルは自由の刑といった。そもそも共通しているのは時代をそれぞれ生きているということだけかもしれない。

高校まで学校で制限されていたもののタガががずれるのが大学だ。高校まで自由度はかなり低い。学校外に学ぶ機会の自由をもとめても学校に代替できるほど魅力ある価値を提供するものは少ない。唯一受験の偏差値くらいのものだろう。

ネットで学ぶ機会もある、というのは結構だが、ネットの弱みもある。よくコミュ障というのがそれ。それは自分がすすんでコミュすることの経験がないという証左ではないか?自らをそう呼んで責任回避をする技に長けている表現である。

大学は自分で学ぶところ、と言われる。多くの大学人がそういう。だったら自分でやるしかないのだが時すでに遅し、となる。結果、アルバイトと遊興と単位がテーマになる。でもそれはかなり生産性が低い。将来の投資としてはリスクが大きい。資源の無駄である。

いいかえると、大学までの道のりの過程では、自分で学ぶようにはなってないということである。さらに、大学の教師は教員免許がなく教授法に長けているわけでもない。教えようなんて思っていないかもしれない。講義がつまらない、というのもそこに一因があるかもしれない。一方、中学高校はひたすら教えようとする。ようは需要と供給の関係である。

このことに気づくと、どっかの誰かにとっては、学校が邪魔になってきてもおかしくない。実際不登校が何十万人といる時代になった。その原因帰属をどこに求めてもいいけれど、すくなくとも、学校という制度がどこかで変になっているんだろう。屋上屋を架すような過去の対症療法で事態はますます複雑怪奇になった。おいしくないラーメン屋さんにお客さんはいかない。もちろんいっておくが、児童生徒は健全な賢い消費者ではなく、将来の生産者になる必要がある。

マルクスは似たようなことを言っていた。生産関係が発展するとその生産関係自体が桎梏になる、というようなこと。教育が発展すると教育が桎梏になる。かなり哲学的だけれど、やりすぎはよくない、やっていることがその制度や方法では限界である、ということではないか。

そういう綱渡りのような仕事するのが今の先生であったりする。先生の渡っている綱を誰がが切断したり、綱そのものを消失させたとき、そこにのこるのは消費される教育まがいの似非科学なのだろう。