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『【擬古典落語創作論】落語作家は食えるんですか』ちょっと長めの激励文

「落語作家は食えるんですか」

こんなセンセーショナルなタイトルの本が出版された。正式な書名はアタマに【擬古典落語創作論】という文言が付く。著者は私が勝手に〝同志〟と呼ばせていただいている、落語作家の井上新五郎正隆さんだ。

「(タイトルのような)そんな不躾な質問をする人なんて今どきいるのか?」 と疑問に感じたあなたは、恐らく思慮深く空気の読める方だと思う。そのまますくすく育ってほしい。

しかしながら世の中には実在するのだ、そういう無遠慮な人が。事実私も何度も言われた経験がある(「落語作家」の部分を「漫画家」に置き換えてみてほしい)。とても他人事とは思えないタイトルだ。

「落語作家ではまず食えない。」

井上さんはこの問いに、第1章5行目で即答している。

「食えない。落語作家ではまず食えない。」と。

それで終わってしまっては書籍にならない。
この本は井上さんがご自身で蓄積してきた、擬古典落語を創作するにあたっての心構え、了見を示したものだ。
「これを実践すれば、アナタも今日から擬古典落語作家!」的な安いハウツー本ではない。そんな本があるなら僕が欲しい、と井上さんはきっとおっしゃるだろう。

そんな「食えない」とわかっている創作活動を、なぜ井上さんは続けるのか。
落語が好きだから。落語家さんが好きだから。行きつくところは結局ここなのだと思う。

落語が、落語家さんが好きだから。

誌面からは井上さんの落語に対する真面目さ、熱さ、真摯さが読み取れる。本当に真面目なのだ。こちらが切なくなるくらいに真面目で不器用だ。

「落語がちょっと流行ってるらしいから、新作落語を創作して、どっかの噺家にネタを買ってもらって一発当てたい」みたいな輩とはわけが違う。

熱いばかりではなく、ご自身の主張に理詰めで反論していく冷静さも持ち合わせておられる。
まるで論文のようだ、と初見で感じた。論文は己の意見ばかりを積み上げてはいけない。かならず反論を想定しその答えも用意する。どこかアカデミックでクールな印象も受けた。

落語が大好きで、噺家さんが大好きで。大好きな噺家さんが、自分がこしらえた新作を高座で演ってくれたなら。お客様が笑ってくれたなら。井上さんの望みは、きっとそれだけなのだ。そういう御仁だ。

お金は契約で、責任で、信頼。

「じゃあそれが可能なら、無償でもいいんじゃないの? ボランティアで、アマチュアで満足できるんじゃないの?」と思われるかもしれない。そういう人も実際にいるかもしれない。

私の経験から言うと、有償と無償では頼む方も頼まれる方も、心構えがまったく異なる。

有償の場合、頼む方は「お金を払ってるんだからよいものを作ってほしい。このクリエーターに任せたい」と思うし、頼まれる方も「お金をいただいているのだから、その分はきっちりやらせていただく。よい仕事をしたい」と思う。少なくとも私は思う。

無償ではお互いに「お金払ってないし……まあこんなものかな」とどこかで妥協してしまう。これではよいものはなかなか生まれない(もちろん無償でも「互いの熱量が同等に」高ければよいものはできる……はずだ)。

金銭の授受とは「契約」だ。契約は、各々が己の責務を全うし、互いを信頼すること。ひとつのプロジェクトのためにお互いが責任をもって、信頼しあってコトを進める。金銭はその鎹だ。
だから私は基本的に無償の依頼は受けない。仕事に責任をもち、相手を信頼したいからだ。

落語周辺の創作では専業になれない現実

しかし、落語業界というのは不思議なもので「落語家さん以外にはなかなかお金がいかない(下手をすると落語家さんにもなかなかお金がいかない)」システムが出来上がっている。落語周辺の創作活動をする人間に向かう「お金の流れ」がほとんど存在しない。

落語作家さんの場合、クライアントは落語家さんだ。しかし落語家さん個人では資金に限界がある。(会社やお客様といった、落語家さん以外から原稿料をいただくという視点は非常に興味深い)

井上さんもおっしゃっているが、落語関係で創作活動をしている人たちのほとんどは、別に生業をお持ちだ。落語専門で創作活動をしてご飯を食べている人なんて、ほぼいないと考えて良い。たぶん、できないのだ。言葉を選ばず言うと、落語家さん以外は全員片手間。そういう業界なのだ。

それは私も身をもって実感している。「落語画報」を描いている時、ずーっとこれを描いて暮らせたらなあ、専業にできたらなあ、と思ったことがあった。が、できなかった。アプローチが間違っていたか、足りなかったのかはわからない。しかし本当にお金にならない。専業にはなれないのだ。

専業とか、兼業とか~タカハシの場合

「落語作家で食えるものなら食いたい。」

と井上さんはおっしゃる。わかる。私もそうだった。専業になれば、執筆に集中できる。24時間落語のことだけ考えていられる。堂々と肩書を名乗れるし、原稿料をいただける。そういう暮らしができるものならしてみたい。

しかし現実的に考えると、私は落語専業にはなれないし、ならないと思う(負け犬のナントカもしれないが)。理由はいくつかある。
・体力的な問題→生業として絵を描くには体力が必要。年齢的にしんどい
・経済的な問題→落語を専業にするなら月に何枚描けば暮らせるのか……定期的な収入は確保できるのか……。
・他にも好きなことがいっぱいある
・今の本業(編集記者)が結構好き

上の3つめ、4つめあたりで、あれっと考えた。
「専業になる必要ってあるのかな」と。

最近パラレルワーカーとかマルチワーカーといった、仕事を2つ以上持つ人が増えたという。かく言う私も、平日は本業、休日は依頼をいただき(もちろん原稿料は頂戴している)漫画やイラストを描いている。

兼業が奨励されるこの時代に、専業にこだわる必要は最早ないのではないか。
本業をこなしながら、創作の仕事でもお金をいただき責任をもって務めることも可能ではないか(本業と副業、それぞれにかける時間や労力のバランスがキモだとは思う)。
だいいち、専業作家か兼業作家かの違いで、作品を見る人の反応が変わるだろうか。

専業か兼業かなんて関係ない。
「お金をいただいて創作する」それで十分「プロフェッショナル」だ。

落語家さんだってタレント業や文筆業などを兼ねている人が多いのだ。われわれも兼業だからと臆する必要はいっさいない。むしろマルチプレーヤーとして武器にしてもいいくらいだ。

「落語作家では確かに食いづらいが。」

本の後半は、井上さんがこれまで手掛けてきた擬古典落語の台本が掲載されている。
これを読んだ噺家さんが「俺もこの噺、演ってみたいな」と思ってくれたら良いなと思う。井上さんはいわゆる「あてがき」をされているけれど、落語はたくさんの噺家さんが演ってこそ、後世に残っていくものだから。

同志の「魂の訴え」を読み、私も考えさせられた。

落語作家では食いづらい。そうかもしれない。
でも井上さんにはこれからも堂々と胸を張って、落語作家という肩書で創作を続けてほしい。井上さんの擬古典落語を演ってくれる噺家さんと、笑ってくれるお客様がいる限り、創り続けてほしい。

そして、創作で稼いでほしい。落語創作で稼ぐ道を作って、「ああ、そういや『~食えるんですか』なんてタイトルの本も出したっけなあ、はははっ」と10年後に笑い飛ばしてほしい——などと言ったら、お優しい井上さんはプレッシャーに感じるだろうか。無遠慮な“自称・同志”でスンマセン。

【2022/8/15加筆修正】

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