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対象化と笑い、喜劇と悲劇のねじれについて —単一の社会的弱者という権威的強者—

 “I used to think that my life was a tragedy, but now I realize, it's a comedy.”(俺の人生は悲劇だ。いや違う、喜劇だ。)

 これは映画『ジョーカー』(2019)の終盤において、主人公のアーサー・フレックが残す台詞である。このフレーズは作中でも映像が引用されている喜劇王、チャーリー・チャップリンによる言葉(=“Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.”(人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇である。))を彷彿とさせる。 
 チャップリンの言葉をたどってみよう。このフレーズでは、人生におけるある一地点や短い期間をクローズアップ、そして人生全体における時間をロングショットという比喩で表している。「今ではいい思い出だ」という言葉もまた、今になって思えば過去の辛い出来事や苦い経験とも距離をとり、振り返ることができる、つまり自分の人生を客観視できるようになっているということを表現したい時によく用いられるフレーズだ。
 しかし、『ジョーカー』の中でアーサーが放つフレーズにおいて、悲劇から言い換えられた「喜劇」というこの言葉は、そのようなポジティヴな意味を含む客観性の獲得を示唆しているだろうか? もちろんそうではない。それは彼自身の台詞によって否定される。アーサーはコメディ系トーク番組の司会者であるマレー・フランクリンに向かって、喜劇とは主観的なものであり、善悪という判断もまた主観的なものなのだと言い放つ。ここで彼が「喜劇」と「善悪」についての判断を併置しているということに注意を向けよう。
 喜劇とは、社会風刺を描きつつも滑稽な演技やシナリオなどを通じて、観客の笑いを誘うような演劇ジャンルのことである。そこには観客による「笑い」という反応的な身振りが欠かせない。しかし「笑い」とはそもそも、ポジティヴな意味を本質としてもつ反応ではない。対象を笑うには、その対象を客観的に眺める視点を備えていることが前提となる。その視点は、自己と対象に距離を設けることで可能となるものであり、ときに対象に対する侮辱を含むこともあれば、少なくとも矮小化する態度が多かれ少なかれ含まれているものだ。これはある種の「あるあるネタ」のような芸で笑いが起こる時も同様だ。そこでは一見すると、観客が芸人の披露するネタに共感していることが笑いを催す原因になっているように見える。しかし事態はむしろ逆であり、観客自身がよく行ってしまう行動や、癖のような行為も含めて対象化すると同時に矮小化されることで、観客が笑えるものになっているのだ。
 つまり、その対象を笑えるか笑えないかという判断は、対象が自分にどれだけ似ているのかという判断を含んでいる。そこであまりにも対象が自分に似すぎている場合は(矮小化されていない場合は)主観的な共感のみが起こり、対象を笑うことができない。共感できるかどうかという判断。それは、ある行いや思想などが善であるか悪であるかという判断と重なるところだ。主観的な判断に基づくとすれば、共感できるものは善、共感できないものは悪とみなされるだろう。そしてその論理のもとでは、対象を笑うことができないということは善の判断へと、対象を笑うことができるということは、悪の判断へと接続される(表参照)。だとすれば、アーサーにとっての「喜劇」とは何であり、人を「笑わせる」とは一体どういうことなのだろうか?

対象化と笑い、喜劇と悲劇のねじれについて?—単一の社会的弱者という権威的強者—


 ここで「笑い」についてのとある分析を参照してみよう。19〜20世紀にかけて活躍したフランスの哲学者アンリ・ベルクソンは、1900年に文字通り『笑い』という名を冠した一冊の喜劇論を著している。「笑いとは何を意味するか」という問いかけの一文によって始まるこの著作では、滑稽さがどのようにして生み出され、それをどのように人間が認識するのかという分析が試みられている。ここで分析の具体的な例証として示されているのは主にモリエールの喜劇作品であるため、彼による一つのモリエール喜劇論としても読めるものとなっている。
 さて当書では、ベルクソンが人間のおかしみの法則について述べる部分が何箇所もある。冒頭付近で述べている、身振りおよび運動のおかしみについての法則を一つ、引用しよう。

 「人間のからだの態度、身振り、そして運動は、単なる機械をおもわせる程度に正比例して笑いを誘うものである。」

 ここでベルクソンが記している、機械を連想させるような身体のあり方は、他に「自動現象」、「こわばり」、「生の機械化」、「放心」、「非社交性」などといった言葉によって何度も文中で言い換えられている。「非社交性」以外の語に関しては、意図あるいは意識を欠いた状態としての身体のあり方、すなわち心の有り様と身体の有り様の不一致が起きているという状態を指し示しているように思われる。「非社交性」というフレーズについては後で触れることとして、先にこの心と身体のずれという状態について考えてみよう。
 『ジョーカー』におけるアーサーは、幼い頃に育ての母親の交際相手から受けた虐待によってできた脳障害が原因で、過度なストレス状態に置かれると意図せず笑い出してしまうという疾患を抱えている。いわばその笑いは意識に反した笑いなのだ。例えばバスの車内で前に座っていた黒人系の子どもを変顔で笑わせていたところ、その母親から構わないでくれと叱責されるシーンの直後。あるいは地下鉄の車両内で、三人のビジネスマンが執拗に若い女性に絡むが、その男たちが無視され続けるシーンの直後。この時、アーサー自身の心中はむしろ笑ってはならないと緊張しているはずだ。その心の状態の反動として、あの誇張的とも言っていいほどの笑いが彼の反応として表出される。
 だが作中では、アーサーによる笑いの種類は一通りではない。そのように意思に反した反動的な笑いがある一方で、ピエロ業の仲間である小人症の人間を他の仲間と笑うシーンや、コメディアンたちがショーを行うバーで、漫談を見ながらメモをとるシーンなどにおいては、別の論理によって笑う反応が生み出されているように思われる。それは周りにいる多数派の人間と感情を共有することを目的とした偽りの笑いである。この時のアーサーは、過度なストレス状態に置かれている時とは異なり、その笑いを自ら抑えようとはしない。だが本心から衝動的に笑っているわけではないために、勢いよく笑ったと思えば急にぱたりと真顔に戻るのだ。つまりこれらのシーンにおいて、彼は笑っている他人に共感しているわけではないのにも関わらず、共感したいと願っている
 ここで先ほどの表をもう一度振り返りながら、バーにおけるシーンを考えてみよう。アーサーはまず対象=コメディアンの芸を他の観客と同じタイミングで本心から笑うことができない。しかしそのとき、彼はコメディアンに共感しているとも言えない。むしろ観客とは別の仕方でコメディアンを対象化し、自分の話芸の参考にしようとしているのだが、その試みは後に自分が舞台に立つシーンで観客を笑わせることができずに失敗している。すなわち彼はまず、コメディアンの芸を自然と客観的に矮小化する観客たち、笑っている観客たちに共感しようとしている。本来は、個々の観客(=自己)とコメディアン(=対象)との距離の設定によって笑いという反応が生まれるにも関わらず、アーサーはその距離設定がうまくできないために、そうした偽りの笑いという「身振り」だけを装ってしまう。
 しかしこの身振りは、小人症の仲間に対しては少し異なる様相を見せている。初めはアーサーに銃を渡した別の仲間に同調するようなふりをして、一緒に小人症の彼を笑っていたのだが、後のシーンでは逆に銃を渡してきた仲間を殺し、助けを求める小人症の彼のことは逃している。そこには確かにアーサーの主観的な共感があるように見える。小人症の仲間もまた、アーサーと同じく社会的な弱者であるからだ。この時、表に示したような論理の連関(主観的な共感=対象を笑えないこと=善的判断)は繋がるように見える。
 ここで再びベルクソンの分析を引用しよう。ベルクソンは、滑稽なものが人間に特有なものであると述べる。それは「社会に対する人間の或る特殊な不適応を表示するもの」であるという。ここで言われている「特殊な不適応」とは、多数派の人間とは異なる性格を持つこと、異なる振る舞いを示すことなどと言い換えることができるだろう。それらの特徴を示す人々は社会的少数派であり弱者とみなされる傾向にある。


 この「特殊な不適応」を示す特徴を持つ人物の表象について考えるために、一旦別の映画を参照してみたい。押見修造原作の漫画であり、湯浅弘章が監督を務めた映画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』(2017)は、吃音を持つ主人公である大島志乃が、高校生活を通じて自分の抱える吃音との関わり方と葛藤する青春映画である。本作では吃音という症状を持つ志乃が主人公として描かれる一方で、のちに友人となり音楽ユニットを組むことになる岡崎加代は、ギターが弾けるが音痴であり、中学時代にいじめを受けていた反動からいつも目立ちたがり屋のように振る舞う菊池強は、クラスの中で浮いた存在となっている。これら三人の主要人物たちは、日常生活において各々生きづらさを抱えているという点で、共通項を持つ人物として描かれている。そして主人公の志乃は加代と仲良くなることで徐々に自分に自信をつけていくのではあるが、菊池のユニット加入によって二人の信頼関係は徐々に崩れていく。最終的に志乃の吃音は治ることもなく、その生きづらさを抱えながらも日常生活を続けていかなければならないという現実的な描写で映画は幕を閉じる。
 この映画においては、吃音を抱える志乃は確かに社会的弱者であり、クラスメイトや他の人々に気味悪がられたり笑われたりするのだが、一方で加代や菊池といった他の人物たちもまた同じく生きづらさを抱えている、という点が強調されている。そこでは志乃だけが特別な社会的弱者として描かれているわけではない。三人とも、各々の仕方でどうにかして他人との関係を構築しようとする意思を持っているように描かれているのだ。
 では『ジョーカー』におけるアーサーの場合はどうだろうか? 本作においても明らかな社会的弱者として描かれる人々は存在するのだが(ピエロの仕事をしていたアーサーから看板を奪い、痛めつけるストリートの少年たち、小人症の仲間、カウンセラーの黒人女性など)、彼・彼女らがどのような生きづらさを各々抱えているかという点については、特段焦点が当てられることはない。本作ではあくまで、社会的な弱者であるアーサーが特別な生きづらさを抱える人物として描かれている。観客はその他の社会的弱者の存在にはさほど注意を向けることなく、特にアーサーの視点に従って感情移入させられるだろう。だが当のアーサー自身は、他人とのコミュニケーションを進んで行う姿勢を保つわけではなく、むしろそうした他人と対等でないことを前提にすることで、あらかじめ他人と対話を行うことから距離をおいている。
 先ほどの二つのシーン(バーにおけるシーン、小人症の仲間を笑うシーン)の考察を含め、以上のことを踏まえてみると、アーサーには対象を客観的に矮小化し、距離をとるという態度が、社会的多数派の人々と同じ仕方で「笑い」という身振りに昇華できないという特徴があることがわかる。彼は何よりもまず、他人との距離感をうまく測ることができない。彼は言ってみれば、社会的弱者である以上に「非社交的」なのだ。
 ここで先ほど挙げた「非社交性」という語について考えてみよう。ベルクソンは、人々に笑いを催させるものとは他人の欠点であると認めている。だがその欠点とは不道徳性に基づくものではなく、非社交性に基づくものであるという条件を付している。そうであるがゆえに、笑いは情緒=共感的なものとは相容れないものだ。
 アーサーはその非社交的な性格を一貫させているがゆえに、共感できない他者の殺人を犯したことを正当化し、同時に同じ立場にある社会的弱者たちの代表=シンボルとなる。そこで彼は、もはや社会的多数派の人々への共感を偽装することをやめ、彼自身に共感するよう社会的多数派の人々へと要求する。共感を寄せる主体はこうして、アーサーという一人の非社交的な社会的弱者から、社会的多数者たち、つまり映画の観客である我々の側へと反転することとなる。彼は今や映画の外における現実社会において、共感を寄せられる対象へと変化したのだ。


 しかしこうした観客の反応、つまりアーサーの抱える生きづらさは「私たち自身のものでもある」という共感には注意を払わなければならない。そこでは文字通り観客たちによる「共感」の論理が働いている。もう一度冒頭に示した表を思い出してほしい。アーサーにとっては、自身が社会的多数者を笑い飛ばす存在となる喜劇(=悪的な判断に接続されるもの)が、観客たちにとっては生きづらさに共感を寄せる悲劇(=善的な判断に接続されるもの)となるのだ。そうした判断のねじれが起こっているのは、アーサーには他人との距離を測り、設定していくという、能動的な相互理解に向かう意思が欠如しているからだ。その点こそ、我々観客は最も気を払わなければならないところだ。現実社会において我々は、他者を理解し、共感を求めるという働きかけなしで生きていくのは困難だからだ。その代わりに彼は徹底して非社交的になることで、生きづらさを抱える数多の人々のうちの一人であることを超えて、唯一の社会的弱者となる。アーサーはもはや多数の群衆へと共感を寄せるような、弱さを備えたどこにでもいる主体ではなく、共感を抱かせる権威的な強者というアイコンとして機能することとなるだろう。

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