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【短編小説】春風のコンビニ


「いらっしゃいませ!」
 さわやかな朝の店内に、美沙子の明るい声が響く。
 
 ここは町外れのコンビニ。
美沙子は9ヶ月の大きなお腹を抱え、化粧品の棚に新製品を並べていた。

「あ!」
 
 腰をかがめた瞬間、美沙子は小さく声をあげた。そしてゆったり微笑むと

「大丈夫! ママ無理しないよ」
 
 そう言って、はちきれそうなお腹の中で元気に動き回る赤ちゃんを、そっと両手で撫でてやった。

(いい天気!)
 
 フウッと背筋を伸ばし、美沙子は窓の外に目を向けた。
 時折の強い春風に、歩道に出してある”ビッグおにぎり”ののぼりが、バタバタと音を立ててはためいている。
 店の横には大きな桜の木があり、枝の先にある固いつぼみが、ほんの少しずつふくらみ始めているようだ。

(この桜が咲いた頃に、私、おかあさんになるんだ)
 
そう思うと自然に笑みがこぼれる。

「よし!」
 
 美沙子は両腕に気合を入れて、また手際よく新色の口紅を並べ始めた。

 その時。

「ねえ、ねえ、あいつまた来てるわよ」
 
 パート仲間の智子が、美沙子の耳元でささやいた。

「あいつ…?」

 美沙子が背伸びをして、そっと棚越しにうかがうと、窓際の雑誌のコーナーに、黒いロングコートをまとい、ツバがぐるりとついた黒い帽子を深めにかぶった、背の高い老齢の男が見えた。
 真っ白なあごひげを蓄えたその男は、もうかなりの年らしく、頬や目の下の深いしわにそって大きなたるみが幾重にもあった。

(あ、あのひと…!)

 3か月くらい前のことだった。
男は今日とまったく同じ格好で、店に入ってきた。
 始めのうちは、ただの通りすがりのお客様だと、特に気にはとめなかった美沙子だった。
ところがその男は、棚の上の商品をしげしげと見まわしながら、何を買うでもなく30分近く店内をうろついているのだ。
 しかもさらに不思議なことには、美沙子と目を合わせるたび、いかにも恥ずかしそうに目を細めて微笑むのだった。

「やだー。きっと美沙子さんに気があるのよ」  

 智子は眉をしかめて男を睨んだ。
けれど、なぜか美沙子は少しもいやな気がしなかった。まるでどこかで会ったことのあるような、なつかしささえ感じてしまうのだ。
 もしかしたら本当に知り合いなのかもしれないと、さりげなく近づいて尋ねようとしたのだが、男は慌ててコートの襟に顔をうずめ、スッと美沙子から離れていった。
 いよいよ怪しんだ智子が、美沙子に控え室にしばらくいるように勧め、代わりに店長を連れて出てきた時には、男の姿はもう店内から消えていたのだった。

 

「また笑ってるわよ。気持ちわる! どうする? 店長いないし、警察呼ぼうか?」
 
 智子は声を潜め、丸い肩を怒らせた。

「そんな、大丈夫だって。べつに悪い人じゃないと思うよ」

「うーん、まあねえ。たしかに何をするわけでもないからね。でもいい、美沙子さん。笑い返したりなんかしちゃダメだよ。絶対調子に乗るからね!」
 
 それにしても、あの見ず知らずのお年寄りの笑顔に、どうして自分はこんなにもほんわりと暖かい気持ちになるのだろう。

(ほんとにいったい誰なんだろう…)
 
 風がひとしきり窓ガラスをたたき、美沙子が外に目をやると、入り口近くに出してあるフラワースタンドから、一番端の花束が飛ばされていくのが見えた。

「うわあ、大変!」
 
 大きなお腹を抱え、美沙子はあわてて外に飛び出した。
 駐車場の端まで滑っていったカーネーションの花束を拾い上げ、折れていないか確認する。

「よかったあ、大丈夫みたい」
 
 セロファンを整えてスタンドに深く差し込むと、美沙子はふうっと息を吐き、張ったお腹に手を当てた。
 青空の下、風は電線をビュウビュウ鳴らし、美沙子の束ねた髪も後ろに強く引っ張られる。 顔を上げると鼻から大量の風が入り込み、呼吸するのが難しいくらいだ。

「ああ、気持ちいい!」
 
 花粉症の夫には申し訳ないが、美沙子はこの強い春風が大好だった。
冷たい冬を押し出すには、このくらいの力が必要だと思うのだ。
春風は命の輝きを引き連れて、南の空から乗り込んで来る。
 お腹を押さえ、風に向き合ったその時、美沙子の顔がパッと輝いた。

「そうだ! 風太って、すごくいい!」

 人生は何が起こるかわからない。
お腹の中の子は男の子。この子には、多少の辛い出来事など、フウーッとひと息で吹き飛ばし、いつでも微笑んで腕を組む、そんな春風のような、強くて優しい人になってほしい。
風太は美沙子の思いにぴったりな名前だ。
きっと夫も気にいってくれるだろう。そう思うと、美沙子の胸は青空に飛んでいきそうなくらいときめいて、とてもじっとしてはいられない。

「風太、風太、おまえは風太!」
 
 風に乗ってくるくる回り、美沙子は大きなお腹を両手で抱きしめた。

 と、自動ドアが開き、出てきたのはあの男だった。
 男は美沙子を見ると、うれしそうにまた目を細めた。
その笑顔に、おもわず美沙子は弾んだ声で話しかけた。

「この子、名前を風太にしたいんです! たった今思いついたんです!」
 
 しわに覆われた男のまぶたが、みるみる大きく開かれた。
 男の目が自分の大きなお腹に注がれて、美沙子はハッと我に返り、顔を赤くした。

「すみません! なんで私、こんなこと…」
 
 男は灰色がかった瞳を微かに揺らし、今度は美沙子をじっと見つめている。
 どうしてよいものか、美沙子が立ち尽くしていると、男は静かに頭を下げて、枝を大きくしならせる桜の下を抜け、道を渡って行ってしまった。
 美沙子はしばらくその後姿を眺めていたが、張り出したお腹を強い風に叩かれて、急いで店の中に引き返した。

  次の日も、よく晴れた暖かな日だった。
その日は遅番で、お昼過ぎから出勤すればよかったので、美沙子は久し振りに午前中ゆっくりと家事ができた。仕事は今週でやめる予定だ。
 
 風は相変わらず強く、並木の枝を震わせながら歩道をすり抜けていく。
 夫が賛成してくれて、産まれてくる子の名前は風太に決まった。
 美沙子は足を止め、青空を仰いで大きく春風を吸い込んだ。

 コンビニの駐車場に入ったところで、美沙子ははたと足をとめた。
入り口のドアが開き、あの男が店の外に出てきたのだ。
 男はひどく辛そうに顔を歪ませていたが、美沙子に気がつくと、深いしわをホッとゆるませた。
それから急に思いつめたような様子で、こちらに向かって歩いてくる。
美沙子と向き合った男の口元が、なにか言いたそうに震えていた。

「な、なにかご用ですか?」
 
 さすがに少し怖くなった美沙子は、男をキッと睨みつけた。
 強い風がコンクリートの地面をたたくように吹きつける。
その春風に男の黒い帽子が勢いよく舞い上がり、地面に落ちると、そのまま駐車場をころころと横切っていった。
唖然としてその様を眺めている男の横顔に、美沙子は小さくため息をついた。

(私、妊婦なんですけど)

 美沙子は仕方なく帽子を追いかけて、桜の木の下でようやく拾い上げた。

「はい。どうぞ」
 
 美沙子が差し出した帽子に、男が両手を伸ばした。けれど枯れ枝のようなその手は帽子には触れず、帽子を持つ美沙子の右手の上下にそっと重ねられた。
美沙子は、ハッと息を飲んだ。
温かいぬくもりが伝わってくる。
美沙子を見つめる男の目に、みるみる涙があふれ、重ねられた両手はしっかりと美沙子の手を包みこんでいる。
そして男は、絞り出すような微かな声で、こう言ったのだ。

「私は、元気に育ちました。ほんとうに幸せな一生だったのです」
 
 その時だ。美沙子の口から思いがけない言葉がこぼれ出た。

「そう…。ああ、よかった…」
 
 なぜなのかは分からない。不思議なことに美沙子は心からそう思うのだ。

(ああ、よかった…)
 
 切なさが美沙子の胸を駆け上がり、涙が溢れ頬を伝う。
 男はそっと美沙子の手を放し、帽子を受け取った。
それから深々と頭を下げると、美沙子に背を向けて、春風にコートの裾をあおられながら通りに消えていったのだった。



「交わした言葉はそれだけですね」

「ああ。そうだ」

「体力の消耗が激しいのはそのせいでしょう。わが社のシステムはご信頼に値するものではありますが、メニュー以外の事をされてはこちらも責任は負いかねますよ。ただでさえあなたのようにご高齢の方には、3タイムズが限界なのですからね。しかしそれでもご安心ください。2時間ほどで回復されるでしょう」
 
 緩やかな風が枝葉を鳴らし、鳥の声が梢を渡る。老人は木漏れ日が揺れる木立の中にいた。

「森がお好きですね。まあ緑は心が安らぎますが、たまには珊瑚礁の楽園でも散策されてはいかがですか。もう幻の海です」
 
 どこからともなく話しかけてくる若い男の声が途切れると、少しして、木立を抜けて女がやってきた。
 森の中に置かれたリクライニングベッドの背がゆっくりと持ち上がる。
老人は薄く目を開けた。
女は注射器で老人の腕になにかの液体を流し込み、少し屈んで、老人を気づかうように話しかけた。

「コンビニエンスストア前のシーンに切り替えますか? 定点なのでどれも同じようなものですが」

「ああ」
 
 老人はゆっくりと女に顔を向けた。

「そうだな。桜が見たい。駐車場の端に桜の木があった。咲いた頃にしてくれないか? 私が行った一か月後くらいだろうか。きっと満開になっているはずだ。できるかな」

「ええ、お任せください。当時の映像からおこした3DCGは、一年分ございますから」
 
 女は森の奥に向かって声をかけた。老人には呪文のようにしか聞こえない専門用語と数字の羅列。
 いきなり森が消え、目の前に青空とコンビニが現れた。予想通り、駐車場にある桜は満開で、老人はほおっとため息をついた。
散り始めた花びらがベッドに横たわる老人の手元にも舞い落ちて、つかもうとすると消えてしまう。

 2100年に入り画像の生成はさらに進んだ。メタバース上では、当たり前に過去の好きな時間、場所への時間旅行ができ、開発されたデバイスは、ほぼすべての家庭に普及した。
 2120年、NR社は世界に先駆けて、実体験としての時間旅行を提供するサービスを開始。
とはいえ、一般人にはまだまだ容易には手の届かない宇宙旅行より、さらに高額な旅だった。それでも、築いたすべての資産を放り込んで、過去の時に身を置きたいと思う人間は少なくない。
コンビニの駐車場に置かれたベッドで満開の桜を仰ぎ見る老人も、その一人だった。

 老人はバーチャルの空間に咲く桜の向こう、コンビニの入り口に目を移す。

「この時は、もうあそこにはいないのかもしれないな。あなたはこの桜を楽しむことができたのだろうか」

 老人はぽつりとつぶやいた。

「それで、どんな方でした?」
 
 老人はふふっと笑い声を漏らした。-

「思ったとおり。明るくて元気な人だったよ。風の中でクルクル踊ってね」

「まあ、かわいらしい」

「聞いているとは思うが、母は私を産むとすぐに亡くなった。父が言っていたんだ。この子を頼むと父の手を握りしめ、最後まで私のことを案じながら逝ってしまったのだとね」
 
 老人は深く息を吐き、それから女を見上げて微笑んだ。

「長生きはするものだ。いい旅をさせてもらった…」

 老人はベッドのフットボードに映し出された自分の名前に目をやった。

「桐橋 風太」
 
 読み上げて、老人は突然両手で顔を覆い、肩を震わせた。

「ああ。この名前は、まさにあの時母がつけてくれたものだったんだ」

 

「いらっしゃいませ!」
 
 今朝も店内に明るい声が響いている。レジに立つ美沙子は、ふと外に目をやった。

(あのひと、また来るかな)
 
 もう一度会いたい。今度はちゃんと話をしたい。美沙子は大きなお腹を優しくさすり、窓の外のよく晴れた空を見上げた。

 ここは町外れのコンビニ。春風に背中を押され、いろいろな人が訪れる。

「ありがとうございました! またお越しくださいませ!」

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