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苦しさを癒す、純粋で好きに溢れた表現 -角野隼斗さんのピアノに寄せて-




苦しい日常


10月下旬にさしかかった日、お布団の上、お昼12時。

仕事は休みだけど終わってない仕事があり過ぎて、「休みだけど仕事やらなきゃー」と頭では思ってて、だけど心はパンクしてて、朝8時くらいに目がバチッと開いたというのに脳が起きてくれなくて、私はまだ布団の上に寝そべっていた。

仕事をしなきゃいけないというのに、ただケータイを弄ることしかできないでいる。
LINEを返すのは後回しに、とりあえずあらゆるSNSのタイムラインに流れゆく情報を眺めている。そんなことしかできないでいる。『花束みたいな恋をした』という映画で、イラストを描いたりカルチャーに触れたりすることが好きだった菅田将暉が、就職して激務になってからはケータイゲームしかする気が起きない状態になっていたけれど、まさにそんな感じだ。


角野隼人さんのピアノとの出会いと、10年前のショパンの記憶


TwitterやInstagramをスクロールするのにも飽きてきて、YouTubeを眺めていた。最近なんとなくピアノ系YouTuberの動画を見ており、「人気YouTuberが高校生に扮して路上ライブしたらどのくらい足を止めてもらえるのか?」的な動画をその日もぼんやりと見ていた。

YouTubeにもだんだん飽きてきたなぁと思いつつ、ピアノ系YouTuber同士のコラボ動画なんかを飛ばし飛ばしで見たりしていた。次々に出てくる関連動画の中に、コラボ動画に出ていたYouTuberと同一人物が弾いている、コンサートホールでのショパンの動画が出てきた。

その曲は、高校生の時にウォークマンで繰り返し繰り返し聴いていた、ショパンのピアノコンチェルト第一番だった。



2011年、地元の劇場でピアニストの小山実稚恵さんのコンサートがあり、その時に買ったCDにショパンのピアノコンチェルトが収録されていた。
当時学校で毎週英単語のテストが実施されていたため、「英語のCDを入れて暇さえあれば聴いて覚えなきゃテストについていけない‥‥」的なことを親に伝えて、ウォークマンを買ってもらった。しかし英単語のCDだけで満足するはずもない。周りの皆みたいに流行りの曲なんかを入れたりしたかったが、内実流行りの曲にあまり関心がなかった。幼い時からピアノやバレエを習っていたのでクラシック音楽には馴染みがあった。コンサートでショパンに触発された私は、テンションを上げたい時も、苛立っている時も、つまらない学校生活から目を背けるように、休み時間も耳を塞いでウォークマンのショパンを聴き続けていた。



ショパンのピアノコンチェルトを通しでちゃんと聴くのは高校生以来だった。あの時使っていたウォークマンは、大学に入学した頃に壊れてしまい、今は何処へいってしまったやら。

コラボ動画のYouTuberの彼は角野隼斗さんと言った。(YouTubeでは「かてぃん」名義。)私が知らなかっただけで、ショパンピアノ国際コンクールなどにも出ている既に有名な方だったみたいだ。

あの頃の記憶を呼び起こすと共に、それを塗り替えるかの如く角野さんの演奏に惹き込まれてしまった。

pianissimoの繊細な音色、透明感があってクリアで、且つ情感豊か。かと言ってこれ見よがしでなくコロコロとピアノやオケと戯れて遊んでいるかのようで。相当な努力と、それによって生み出されている技術に裏打ちされている。その裏打ちされた技術を感じさせない域にいる。荒んだ私の心に沁み渡り、心がほぐされていくようだった。何だこの人の演奏は。凄い人を知ってしまったと思った。

それからというもの、ほぼ毎日のように角野さんのショパンの動画を再生し続け、他の動画も遡って観るようになった。


ストリートピアノから日常が救われる


所変わって東京・下北沢。現実を放り投げて逃避行に来ていた。駅を降りるとピアノの音が聞こえてきた。ピアノの方向に歩いていくと、それはストリートピアノだった。近くにベンチがあったので、少し座ってしばしピアノを聴いたり、ピアノが止むとイヤホンをして飽きもせず角野さんのショパンを聴いていた。
しばらくすると仕事帰りらしきおばちゃんが荷物を持ってやってきて、ピアノに腰かけた。おばちゃんはおもむろにピアノを弾き始めた。他に観客がいなかったので、私は聴いてますアピールをするのがなんだか気恥ずかしくなり、ピアノに背を向けたままイヤホンを外して聴いていた。とても聴き覚えのある洋楽‥‥しかし曲名が思い出せない。心が温まるような柔らかなタッチで演奏された、とても美しい音色だった。曲名を思い出せないし、特別な瞬間に立ち会っている気がしてこの瞬間を忘れまいと、ピアノにはカメラを向けないまま動画をまわした。
しばらくすると、とぼとぼと、しかし確実にこちらに歩みを進めてくるおばちゃんが来た。彼女はピアノの前で立ち止まり、演奏を真正面から聴いていた。
曲が終焉を迎え、演奏が止んだ。歩いてきたおばちゃんは、演奏していたおばちゃんに向けて拍手をしていた。そして彼女はこう言った。「今日、心がギュっとなる出来事があったから‥‥今の演奏で少し癒されました。素敵な演奏をありがとうございました。」私も静かな感動に包まれていた。演奏にも心を震わせていたし、気持ちを伝えていたおばちゃんの行動にも拍手を送りたかった。現実の社会の中で、心が踏みつぶされそうになっている人が少なからず居て、それでもこの世界の中で癒しを与え合うこともできる。皆生きている。明日からもこの2人のおばちゃんが少しでも心穏やかに生きていて欲しいと思った。

(後から調べて、その曲はCarpentersの『(They Long To Be) Close To You』だとわかった。)


好きが溢れた表現者たち


純粋でまっすぐな心というのは表現に宿る。

私が好きな米沢唯さんのバレエやエッセイも、奥村康祐さんのバレエも、純粋にバレエが好きという気持ちや、他者への愛情、踊る喜び、ひいては生きる喜び、時には悲しみに溢れている。

米沢唯さんはこちらの記事で以下のようにお話しされていた。

私は舞台の上で無意識で踊れることを目指し、リハーサルを重ねます。 (中略) 舞台に立つと、その人の全てが見えてしまいます。丸裸にされ、「あなたは何を考えて生きているのか」と問いかけられるのです。私は、舞台の上で集中し、自分を劈くこと、まるで祈るようにそのことだけ目指して舞台に出ていきます。  

今回、角野さんやストリートピアノのおばちゃんからも近しいものを感じた。純粋に音楽を楽しんでいた。もちろんその背景には苦しみや努力や、はかり知れないものが沢山隠されている。それを乗り越えた先に、ピアノを演奏することが好き・楽しいという根本にある部分や、演奏している瞬間の感受性が、あらゆるものを凌駕して表現から炙り出されていた気がする。

そういう表現に触れた時(特に自分の現状が荒んでいる時)、縛られていた心がほぐされ、柔らかくあたたかなもので溶かされていく。癒される。

少なくとも今、角野さんのピアノに日々助けられている気がする。


※米沢唯さん関連記事はこちら ↓


※奥村康祐さん関連記事はこちら ↓



好き、とは何か。
私にとっての純粋な"好き"は何だろう。止められてもやってしまうもの、子供の頃のように好きで好きでたまらないもの。楽しいこと。
子供の時ですら、「バレエは好きだけど、バレリーナになりたいと言うのは恥ずかしい。なれない可能性の方が高いのだから‥‥」「絵を描いたり何かを創るのは楽しいけど、思うようにできないし、真似しかできないから駄目だ‥‥」みたいに考えて、自分で自分の心に抑制をしてしまっていた。大人になったらもっとわからなくなってしまったなぁ。

わたしは今、純粋で真っ直ぐ楽しんで、好きに溢れた表現がしたい。
そういうふうに生きたい。




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