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ビタービタースイートビター

うだつの上がらない日々、家でも一人、職場でも一人、社会的にも一人。ひとりぼっちの延長線に生活が偶然あるような閉ざされた春、遂にわたしはマッチングアプリをインストールした。おしゃべりロボットを買う財力はなくて、犬や猫のいのちを預かるほどの懐はなくて、植物を育てるのは何だか味気なくて、やっぱり私は人間だから、人間と会話をしてみたいと思った。

「いちばん出会える」と口コミで評判のマッチングアプリは、「ヤリモクが多い」「危ない」と酷評もされていた。何事にもリスクはつきもの、どちらにせよ今の自分は生きているか死んでいるかも見分けがつかないのだから、それならいっそのこと知らない世界へ飛び込むのもありだろう。

スワイプ、スワイプ、スワイプ、数回スワイプして、呆気なくマッチングした。呆気なく会うことが決まって、呆気なく三日後の18時半には居酒屋のカウンターで生ビールを乾杯していた。

出会った相手は、イチ、といった。とても「普通そう」な男性だった。おしゃべりでも物静かでもない男性で、特にヤリモクってわけでもなさそうで、前髪が分厚いマッシュでもなくて、何となく日焼けした何となく手脚の長い、あまり豪快な笑い方をしない人だった。待ち合わせでイチが指定してきた居酒屋は年季の入ったカウンターしかないこぢんまりとした店で、おでんが美味しかった。イチはおでんの具の中でちくわぶが一番好きだと言って私にもそれをすすめた。ちくわぶって初めて食べた、と正直に打ち明けると、へえそうなんだ、意外といけるでしょ?と少し笑っていた。こんな美味しい食べ物知らなかったなんて人生半分損してたね!なんて言わないところが好きだなと思った。その店のアルコールは生ビールとレモンサワーしかなかった。わたしとイチは、生ビールとレモンサワーを一杯ずつ飲み、互いのことをぽつぽつと話した。気付けば20時半を回っていた。このご時世でね、うちも時短営業してるんですよ、と居酒屋の主人が申し訳なさそうにわたしたちを見送った。

少し冷えた夜に放り出されたわたしたちは、ひたすら街を歩いた。今日初めて会った人に話すことなんて何もない気がしたけれど、何故だかまだ話し足りなかった。久しぶりの人間と人間の何でもない会話に心が弾んでいた。自分を見て話をしてくれる人間に飢えていた。きっとイチも同じだった。カラオケでも入る?イチの提案にわたしは乗った。

二人分のメロンソーダをドリンクバーで並々と注ぎ、煙草臭い部屋に入った。せっかくカラオケに来たんだし何か歌うかと言ってイチがデンモクを触り始める。最近の曲ってほとんど分からないな、とわたしが呟くと、イチは笑った。俺らタメだから多分今からバチバチに青春思い出して楽しいよ、ナナも94lineだろ?って。94lineなんて言ったことないよ、KPOPも少女時代とかKARAしか分かんない、と言ってわたしは思わず笑ってしまったけれど、その流れでイチがいれた『ミスター』と『Gee』はダンス付きで二人で盛り上がってしまった。

純恋歌、ハナミズキ、CHE.R.RY、三日月、粉雪、青春アミーゴ、青いベンチ...わたしたちは猿みたいに歌い踊り狂った。同い年とカラオケに行くのがこんなに楽しいものだとは知らなかった。イチが歌うもの全てがわたしの青春の歌だった。わたしが歌うものも、全てイチの青春の歌だったに違いない。高校の時に仲の良かった6人グループでよくカラオケに行ったことを思い出した。誰が何を歌っていたか、ドリンクバーで何を飲んでいたか、思い出が鮮明によみがえってきた。誰かが失恋をした時には必ず皆でHYを歌って慰め、間奏で元彼への恨みつらみや未練をマイク越しにつらつらと語るみたいな超イタイことも沢山した。

わたしたちは歌い続け、あっという間に予定していた90分が過ぎようとしていた。最後にイチが入れたのはGReeeeNの『愛唄』だった。前奏が流れ出してすぐ、あっこれさ、最初のところに好きな人の名前入れて歌うの流行ったよねって口走ると、イチはニヤッと口角を上げて笑ってみせた。

そして、見事にやりやがった。

「ねえ、大好きなナナへ 笑わないで聞いてくれ 愛してるだなんてクサいけどね」

イチが私の名前を入れて歌い始めた瞬間に、何故か笑えて笑えて笑えて仕方なくなってしまった。イチが一曲歌い終わるまで、わたしはお腹が捩れるくらい、息ができなくなるくらい、涙がポロポロと溢れるくらいに笑って笑って笑って、ひたすら笑った。何故こんなに笑えるのか分からなかった。そうだかつて私も、高校時代の恋人にこうやって歌ってもらったことがあった、十年も前の今日、3月14日のホワイトデー、河川敷を歩きながら当時の彼氏のリュウくんが歌った。ねえ大好きなナナへ、笑わないで聞いてくれ、って。歌っていた。えっ急にどうしたの?とかふざけて笑っていたけれど、とってもとっても幸せだった。バレンタインデーのお返しにって、可愛いクッキーとキラキラのキーホルダーをくれた。あったなあ、そんなこと。

笑い転げる私の隣で歌い終えたイチは、世界が終わるくらい笑ってたな、と私を見て呆れたように言った。だってあまりにもイチがナチュラルに名前入れるから、って言ってわたしはまた笑った。わたしたちはメロンソーダを飲み干して、カラオケを出た。

マッチングアプリで会った二人の何パーセントが最終的にホテルに向かうのだろうか。カラオケの数件先にホテルは見えていた。今日出会ってから今まで、イチは決してヤリモクには見えなかった。私も、ただ人間と話したかったという理由でイチと会った。でも、イチとならホテルに行っても良いかなって思ってしまった。イチは、多分わたしと同じ青春を持ってる、勝手にそう感じ始めてしまっていた。

わたしたちはあまりにもあっさりホテルに入った。先にシャワー浴びて良いよってイチが言ってくれたから、とりあえずシャワーを浴びた。ほかほかの身体でベッドにダイブしたら、何故か疲れがどっと押し寄せてきた。イチと出会ってまだ数時間。それなのに、もう答えが分かっている。わたしはイチと恋をしないだろうし、イチもわたしと恋をする気がない。互いに人間に戻るために相手が必要だったのだ。分かっている。大人になってからどんどん無くしたもの、共通の話題、共通の言語、共通の「ふつう」、共通の流行り、共通の...。社会人になって大人に近づけたような感覚が嬉しかったのは最初の数年だけで、今は自分が何かの基盤から切り離されてしまったような、どんどんひとりぼっちになってしまうような、話の通じる相手が減っていってしまうような、そんな感覚に陥っていた。仲の良かった友達はバラバラになり、それぞれの生活をつくり、結婚したり子どもを産んだり昇進したり転職したり同棲したり動物と暮らしたり、ちゃんと自分の居場所を確立している。わたしはそれを流れて過ぎて行くSNSで傍観している。傍観者。人生の傍観者。わたしの人生の傍観者。このままどんどん一人ぼっちになっていくのが怖かった。なんとかしたかった。でも、閉ざされてゆく街と終わりの見えない自粛ムードの中で、迷い果ててしまった。誰でも良かった。辿り着いたのがここだった。マッチングアプリを息するように入れていた。

もう寝た?
ぼふっ、と、隣にイチがダイブしてきた。ふわっと良い香りの風が揺れる。同じボディソープの香り。
寝てない、考え事してた。
そう答えると、そーか、とイチはゴロンと仰向けになった。ああ、こんなに近くに生きている人間がいるなあと思う。同じ年に生まれて同じ時代を生きてきた人がいる。わたしたちは紛れもなく「同士」だ。

今日楽しかったな。ぽつりと呟くと、イチは俺もと答えた。マッチングアプリでこんな当たることあるんだなって感心した。ほんとそれ、わたしもそう思う。

そのまましばらく沈黙が続いた。緊張感も何もない沈黙。これから何も始まる気配のない沈黙。

ねえ。沈黙を壊したのは、わたしだった。イチさ、今日わたしとしようと思ってないよね?顔だけイチに向けてみる。イチはわたしの目を見てニヤリとした。ナナって物言いがはっきりしてて気持ち良いよな。じゃあさ、もう少し喋って、休憩して、帰ろ。そう言うと、イチの瞳が少しだけ揺れた。そして、言った。先週、元カノが結婚したんだよね。

26にもなれば、歴代元恋人のひとりやふたり、結婚してもおかしくない。イチはちょうど先週、それに直面したらしい。それっていつの時代の元カノ?社会人になってすぐできた彼女、一年半前まで付き合ってた。あー、それは傷深いね。まあ別れた相手だからそうでもないけど、やっぱ気にはなるよね。ね、写真見たい、どんな人?

イチはインスタの画面を私の前に突き出した。ほっそりとして茶色のパーマが良く似合う小柄な美人だった。へえ、イチの好きだった人、こんなに綺麗な人だったんだ。素直な感想が口から漏れた。イチは何も答えなかった。何も答えないからわたしは少しふざけて、ね、この人バージョンの愛唄も歌ったことあるの?と問うと、イチはこの人バージョンは歌ったことないな〜と苦笑いしながらスマホをカチカチやって、歌ったことあるのはこの人バージョン、と、双子を抱き寄せて笑っているショートカットの女性のインスタ写真を見せてきた。え、もうママじゃん。高校時代の同級生だかんな、もう結婚して双子産んでる笑。なんかさー、SNSで元恋人の近況知れちゃうの、地元の同級生あるあるだよね笑。たしかに笑。

イチとわたしは、ひとしきり互いの地元の同級生の話や、良い思い出になってしまった過去の恋人たちの話をした。喋り尽くして二度目の沈黙が訪れそうになった時、イチが言った。ナナ、そろそろ帰ろっか。




3月の夜はまだ冷たい。二人で並んで歩く夜中は程よく冷えて気持ちが良かった。わたしたちはポツポツと他愛もないことを話しながら歩いた。愛でも恋でも友情でもない、この夜がもう少し続けばいいのになと思った。

別れ際、手を振りながらイチがちゃんと笑った。俺、なんか人間に戻った感じする、と言って。わたしは頷いて手を振ることしか出来なかった。




家に帰ってわたしはすぐにマッチングアプリをアンインストールした。イチとは連絡先の交換すらしなかった。イチを忘れる必要があった。過去にとらわれすぎては進めないと再確認したから。わたしはまだまだ人間に戻ることができる。わたしにはまだまだこの時代を生き抜く力がある。


一ヶ月前、誰にも何も手渡さなかったバレンタインデーを過ごした。そして今日、誰にも何も返してもらうことのないホワイトデーが終わった。

与えないと返ってこない、届けないと届かない、伝えないと反応がない。生きるってそういうものなのだ。ここ最近、誰かと一対一のやりとりに飢えていた。ずっと一人芝居で一人相撲で、誰と目を合わせて話せば良いのかわからなかった。大事にされたかった。一人の人間と認めて欲しかった。誰かに会いたかった。腹の底から笑いたかった。イチと会って少しだけ思い出した。わたしは一人じゃなくて、近くには人間がちゃんといて、助けを求めれば何人かに一人くらいは手を差し伸べてくれるんだと。

イチが私の名前を入れて歌ってくれた『愛唄』はとても歪なかたちをしていた。イチと違うかたちで出会えていたらどうだったのだろう。わたしがわたしを取り戻したら、わたしが完全に人間に戻れたら、もう一度イチに会ってみたいな、なんて都合の良いことを考えるくらいはバチも当たらないでしょう。





ゆっくりしていってね