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優しさとはなにか、漂流の果てに

シャワーを浴びている時に限ってなにか思いついたりするものである。


1. 優しさとは何か

5年前から、「優しい」ってどういうことなのか度々悩んできた。

以前は優しいという言葉に違和感を持っていて、

優しさ=コントロール

という印象を抱いていた。

あの人優しいねと言われている人はどうにもニコニコとなでなでとこちらをやんわりコントロールしてくる気がする。

と思っていたのだが、

それはただの世話焼きだな・・・


最新の思いつき(シャワー時)によると、

優しさ=想像力

という結果が出た。

なあんだ、何も目新しくないような。

そりゃそうなのだ。

これは最近話をしている人との会話の中やその人の思いに影響を受けていると思うが、

わたしが密かにいつかなりたいと思っている

「あらゆる生き辛さに対してのアライ」

にもすごくつながっていると思うので、

非常にシンパシーを得たのであった。

他者のことやあらゆる状況を想像できる能力こそが

「優しさ」であると思う。

「かもしれない運転」ができる人、そしてその「かもしれない」を受け止めることができる人、

たくさんの「かもしれない」を想像したうえで判断して行動できれば

思った通りでなくても想像の範疇であったり、

そういう「かもしれない」もあったか、と受け入れられたり、

想像と寛容さが優しい人にはあると思った。

人当たりが穏やかとかニコニコしているとかではない。

真の優しさ、いざという時の優しさである。


バスの中で就労支援施設に通所している途中の知的障害のある方と乗り合わせたことがあった。

(その方の通所先の施設にわたしも見学に行くところだったのでわかったことだが。)

その方が何か困っているわけではなさそうだし、いつも通りなのだろうけど、

ふと、「わたしは今 優しいだろうか」と思ってしまった。

別に何をすることもないのだ。エゴだと思う。

でもたまたまその方の状況を想像できた。

だから心ない態度は取りたくない。

何か困る状況が起きたら動けるようでいたい。

というふんわりとした緊張があった。

自分を守るために人に冷たい態度を取ってしまうことがある。

素っ気なくしてしまったり、無視したり、見えていないフリをするような。

それは好意的に関わると気疲れしてしまうかも、何か厄介事が起きるかも、嫌なこと言われたりされたりするかもという不安から自分を守るためなんだけど、

そこで少しでも想像をして、天秤にかけたい。

天秤の精度も上げたい。

自分を守ることもすごく大切で、手持ちの安心は多い方が穏やかでいられると思う。

穏やかでいるために幅広く想像する。

人に優しくするには自分も同等に優しくしなければいけない。

同等、なのがポイントです。

こちらが多少血を流せばいいと思ってもいたけど、

それをやってしまうと、他の人にも血を流させることになりかねない。

血は流さずいこう・・・。

その塩梅は今後の課題だと思っている。


もう一つ、最近Twitterで「LGBTカップル」という単語を見かけた。

見かけただけで全然深く掘って見ていないので、どうこういうのもよくないんだけど、

なんて変な言葉・・・!

と思ってしまい、引っかかっていた。

この言葉を考えた人は優しくない人だと思う。

圧倒的想像力不足。

カップルというなら2人のことを示す必要がある。

なぜなら片方のことしか言われないのはもう片方が対等なパートナーとして見られていないようで悲しいからだ。

LGBTカップルという状況がどういう状況を指すのか、造語者(?)は多分考えてないので考えてみる。

双方がレズビアン、双方がゲイという状況がまずあるだろう。

双方がバイセクシャルという状況もあるだろう。

レズビアンとバイセクシャル、ゲイとバイセクシャルもあるだろう。

MtF・レズビアン(と言うのかも状況や意思によると思うが・・・) と シスジェンダー・レズビアン という状況も出てくるだろうし、

ではLGBTに当てはまる人とLGBTには当てはまらない人(この言い方もなんかとげがある感じする・・・)のカップルは?

LGBTカップルって呼んじゃうの?名乗っちゃうの?

FtM・性的指向が女性に向かう と ストレート女性 の場合はストレート女性は自分はLGBTカップルの構成員です、と言うの・・・?

カップルの構成員って何だよって感じだけど。

一部でもこれだけいろんな状況があるわけじゃないですか。

画家カップル、とか言っておいてかたほう画家じゃないことある?

2人なんだからさ・・・1人が50%構成しちゃうわけだよ、50%を無視するとか、50%でメインみたいにしちゃうのやばくない?半々なのに?もしかして対等な関係じゃないんですかね・・・ズキズキ・・・

と悶々してしまったのでした。


そういった出来事もあって、

はたとシャワーの洗礼を受けたのでした。

優しさは想像力、優しさは想像力です。



2. 漂流の果てに

大海原に一隻の船で漂っているところを想像して欲しい。

なるべく頼りない船で。ひとりぼっちで。

四方にどこかしら進んでいけば何処かしら岸に辿り着けるであろう。

しかしどこかの岸に寄れば必然的に反対側の岸は遠ざかる。

自分はいったいどの岸に寄るべきなのか、このまま漂うべきなのか。


ずっと偏ることを怖がっていた。

拠り所を決めてしまうと他を排斥してしまうような気がしていた。

美術を選んでもどこか包括的であろうとして、深まることや限定することを避けてきてしまった。

一本筋には慣れないのだ、なかなか・・・

関心は多方面にいつもあり、いろいろやってみたいし、いろいろできるようになってみたい。

いつまでも漂流していたかった。

でもそれも少し変わってきた。

物足りなくなったのだ。

自分の手元には関心だけがあって、実態が何もないような虚しさ。

漂っているだけでは岸の果実は味わえないし、歩く砂の熱も感じられないのだ、と気づいた。

どこかの岸を遠ざけても近づきたい岸があるような気がするし、

違ったと思えばまた出航すればいいのでは?とも思った。

大航海すればいいじゃん、

岸に寄る度に船を補強して、壊れたらまた作ろうよ。

そんな気持ちに最近はなってきた。

最初のポケモンを持たずしては、伝説のポケモンに出会えないんじゃないか。

あと、客観的に考えたら、偏りって大事じゃない・・・?とも思った。

何を良しとして何を悪しとするのか、基準を他者に示すことは信用につながると思った。

こんな偏りを持っています。と示しておけば、

思わせぶりに傷つけてしまったり、傷つけられることも軽減されるのではないか。

だからしっかり偏る方がいいのかも。

今あの岸を目指しています!と言ってみる。

他の船がこういうルートが安全だよとか近いよとか、天候とか教えてくれるかもしれない。

他の岸に行きたい人が間違ってついてきちゃうこともなくなるかもしれない。

でも心の中で、実はあっちも行ってみたいんだけどね、とか

え、なんかそっちの方が性に合ってそうですな、とか

一本筋にはいかないんだよなあ、となっていてもいいと思う。

しょうがないもんね・・・。

しょうがない、とか言えるのも大事よね。すぐ自分を責めるし絶望するもんね。

自信もないし気にしいで落ち込んじゃう我々は

まあいいか、しょうがないよ、みたいな許しが持てるといいのかなとこれまた最近思うようになった。

というか教えてもらった。

これまた優しさですよね。そういうこともあるよと、想像というか、受容する。

自分への優しさ。

はあ難しい・・・。

少し話が逸れたけど、漂流の果てに、ついに船を漕ぐことにしたのです。

あんまりキビキビとは漕げないと思う。

ゆらゆらのぐらぐらです。

多分遅いし・・・。

そういうことも許しつつ、自分が辛くないペースだけはキープして、

自分の行き先をうっかり忘れないように旗でも立てて、

波はなるべく荒立てず、

ゆっくり岸に向かおうかなと思っています。



優しさや偏りのことを本当にずっと悩んでたし考える機会が多かった。

暫定の答えみたいなものが出て嬉しいので、ここに記します。


p.s. 昨日はもう消えたいと思っていたけど、今日いつも通っている道に咲く山茶花を見て、ああまた見られてよかったなと思った。

まだこちら側にいる。



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