インド人のピアノ #1

ホームの明かりが遠ざかる。
車両が暗闇へ溶けていく。

地下で鉄の塊が何人もの人を運んでいるというのに、暗闇からホームへ、また暗闇へとテンポ良く体を滑り込ませていく姿はどこか軽々しい。
 
塩が水に溶ける時、水は塩を構成しているものをバラバラに引き剥がしてしまうらしい。
今までみんなが手を繋いで、「塩」という一つのものとして存在してきたはずなのに、あの透明な液体にふわりと体を包まれた瞬間、その手は容易に振りほどかされ、一定の距離以上、近寄ることさえ許されない。
残酷な話だ。

もしこの車両だけが次の駅に辿りつくことなく、塩が水に溶けるみたいに、暗闇に跡形もなく消えてしまったら、わたしたちはどうなるのだろう。

そんなことをよく考える。ついさっき一緒に乗り込んだ人たちは皆、すでに手元に収まっている小さな画面に釘付けだ。車体の一部が欠け始めようが、自分の前に座っている人がいなくなろうが、きっと気づかない。

「15時54分、両国・大門方面へ向かう都営大江戸線の、8両目の乗客」という薄っぺらいレッテルが貼られていること以外、わたしたちを結合させるものなんて何もないのだ。そんな今にも放してしまえそうな手で結ばれている関係は案外心地よくて、今わたしが求めているものだったりする。

定位置にしているのは、最後尾の車両、2番目のドアの前。理由は改札に一番近いから。1、2分の差ではあるが、侮れない。前日に調べておいた電車の一本後にしか乗れないことがほとんどなわたしにとって、この数分は非常に重要である。何しろ、改札を通ってから地上に出るまでがまた、とても長いのだ。

大江戸線が東京で一番深い地下鉄だとわたしに教えてくれたのは、誰だっただろうか。

思い出せそうで思い出せない誰かを想っていると、「次は、蔵前、蔵前」とアナウンスが流れた。ホームの隣にゆっくりと体を揃えた車両から、足を踏み出す。蛍光灯の白色が目に飛び込んできて、慌てて目線を足元に下げた。

大丈夫。わたしは暗闇に、溶けなかったみたいだ。 

 。。。

都営大江戸線の蔵前駅から3分ほど歩いたところに、わたしのバイト先はある。

ニット帽のお兄さんがちょっとカッコいいコーヒースタンドの前を通って、よく外で柴犬が退屈そうに待たされているコインランドリーを右に曲がり、色とりどりの椅子とソファーがずらり並ぶインテリアショップの隣。

この辺りのエリアが「東京のブルックリン」と呼ばれていることは最近知った。近くに川が通っていて、アンティークなカフェと地元の職人による小ぢんまりとした雑貨屋が立ち並び、騒がしすぎない、だけど都心へのアクセスは良い。そんなところが似ているらしい。

ブルックリンに行ったことがないから、たまに雑誌や映画から切り取った景色の中を自分に歩かせてみるけど、駅を出てバイト先に到着するまでの3分間も続かなくて諦める。道路まで充分に揚げ物の匂いを漂わせている弁当屋の前が、なかなか突破できない関門だ。

しかし、等身大なのか潤色なのかわたしにはよく分からないこの代名詞を、どうやら街の人々はすごく気に入っているようだった。インテリアショップの一際目立つところに置いてある水色のソファの横に「ブルックリンのローカルブランドから直輸入」と張り紙がされているのが、今日も窓ガラス越しに読める。この張り紙を前面に押し出している間は「東京のブルックリン」にはなれないんじゃないかと思ったけど、それはいつか自分でブルックリンを見てから決めることにした。

その隣が、ホステル『Danro』。

ここを作る時に、オーナーのヨウさんが「宿泊客がみんなで煖炉を囲んで談笑できる交流スペースを作りたい」と言い張ったけれど、設計者に予算的にも広さ的にも厳しいですとあっさり却下されてしまったので、せめてもの思いで名前をつけたそうだ。アルバイトの採用面接の時にこの話を聞いて「未練がましいです」と笑ってしまったわたしを、気に入って即日に採用の連絡をくれたのも彼だった。

ドアを開けると、受付カウンターの中で作業をしていたヨウさんが顔をあげて、わたしと壁に掛かっている時計を交互に見た。

「あ。今日は間に合ってる」

耳元で『今日も鏡で笑顔の練習、うまく笑わないと』と歌い出したaikoを止めるために、コートのポケットから携帯を出すと、15時58分。

「あ。ほんとだ。って、珍しいみたいに言わないでくださいよー!」

「だって、こないだで何回目」

「はい。いつもいつもすみませんっ!」

8時から16時の早番がヨウさん。16時から23時の遅番がわたし。一応そういう時間の区切りになっているが、早くついてしまった時は受付横のカフェスペースで暇つぶしをするし、16時に間に合わなかったからといって全てが終わるわけでもない。
働き始めた頃は流石に気をつけていたが、2ヶ月目となる今月になってからは、ヨウさんとのLINEを開くと、なるほど確かに。「すみません。5分遅れます」という文が目立つ。

数学は嫌いじゃないけど、なぜか昔から時間の逆算だけは苦手だ。

「反省してないでしょ」

「あ。ばれました?」

高校生の時、人生で初めてのアルバイトをした飲食店では、何時であろうが初めの挨拶は「おはようございます」休憩は「いただきます」帰ってきたら「ありがとうございました」相手が疲れているか知らなくても「お疲れ様です」だった。意味は考えない。そういうルールだから。人生初めての上司であるバイトリーダーにそうマニュアルブックを渡されて、大人の世界に存在するルールの多さに絶望した。

「504の土田さん、1泊延泊希望だって。取っといて」

「またですか?まとめて言ってくれたらいいのに」

土田さんは、私が働き始めた直後から、もう3週間以上泊まっている男性のお客さんだ。チェックアウト日までまとめて予約すればいいのに、毎日昼くらいに受付に来て「1泊延長お願いします」を繰り返す。

「明日何が起こるかは誰にもわからないからね。じゃあまた」

ヨウさんは2児のパパと言われても驚かないような見た目なのに、この世に存在する大人のルールを、ふわりと躱して生きてきたみたいだ。自分のことをあまり話さないし、削れる限りの無駄を削ぎ落すように喋るのに、何故か冷たさは与えない。

ドアの外に停めてある自転車に乗って帰っていくヨウさんが見えなくなって、開きっぱなしになっていたパソコンの予約管理表をちらりと確認する。今日のチェックインは5組。ラッキー、少なめだ。

カフェスペースに3組ほどいる外国人の宿泊客が話す声が、店内のBGMに混ざって耳に心地よい。まだ与えられて間もないこの居場所に、わたしは深く、埋もれていた。 


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