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カナちゃんと小さい窓

文・ハネサエ.(OTONAMIE)

ひきこもり支援センターへの取材に同行させてもらったとき、担当職員の方が「ひきこもりと聞くと内向的で人と話すのが苦手な人、と思われがちなんですがそんなことはちっともなくて、」と話してくれた。さらに、ひきこもり状態にある人の中には不登校から始まる人も多く云々、と話は続いた。
不登校と聞くと少しだけ身近に感じるのは、私がかつて不登校児の家庭教師をしていたせいかもしれない。
2002年から2004年の間、私は不登校の中学生の家庭教師をしていた。
確かに彼女は、内向的でもなく、話すのが苦手でもなかった。
彼女はただ、聡明で、少しわがままで、少しませたところがある、普通のちっぽけな中学生だった。

*

「私、サエちゃんの前にふたりクビにしてんねん」

カナちゃんはいたずらっぽく笑ってそう言った。

私がカナちゃんの家庭教師をしていたのは、カナちゃんが中学2年生から中学を卒業するまでの約2年間で、カナちゃんはその間まともに通学をすることなく、気ままに日々を過ごしていた。

「学校行きなよ」と何度か言ったような気がするけれど、カナちゃんにその気がからきしないことは明らかで、それはほとんど大人がやる天気の話みたいなものだった。
私たちの根柢の共通認識は「今のところ今のままでいい」だった。
カナちゃんは教えたことはなんでもすぐに覚えたので、教科書は難なく理解できた。私が担当していた文系教科は週に2回の授業だけだったけれど、それらのテストの点数が平均点を下回るようなことは一度もなかった。

もちろん、出席日数が見込めないので、内申点というハンデは背負っていたし、本来中学生が経験するべきいろんなことを彼女がすっ飛ばしてしまっているという事実はあったけれど、あの頃のカナちゃんに、中学校はものすごくかけ離れた場所に思えたのだ。
あの部屋と、昼夜が逆転した暮らしと、控えめに引かれたアイラインが、あの頃のカナちゃんにあまりにもしっくりと馴染んでいて、今、彼女は彼女に必要な時間を生きている。そんなふうにしか見えなかった。

いつだったか、暇を持て余すカナちゃんに江國香織の短編集「すいかの匂い」を貸してあげた。何度読んでも返す気配がないので、「あげるよ」と言うと、カナちゃんは「やったあ」と言って素直に受け取った。実際、「すいかの匂いは」カナちゃんによく似合っていて、私よりもカナちゃんが持っていた方がいいような気がしたのだ。
ある日、勉強机を見ると「すいかの匂い」の隣に「つめたいよるに」が並んでいて、江國香織は合わせて2冊になっていた。

*

カナちゃんが中3になった夏休み、カナちゃんは一時的にはっきりと不貞腐れていて、私が訪問しても出てこないことが時々あった。
団地のドアの前や、電気の消えたダイニングルームでいつ起きるか分からないカナちゃんを待っていたあの真っ平な時間のことを、今でも時々思い出す。

ある夏の昼下がり、日当たりの悪いリビングに差し込む、か弱い光が心地よくて、ダイニングテーブルに突っ伏して私も少しだけ眠った。

カナちゃんは自室のベッドでまるで永遠みたいに眠り続けていて、時々、廊下の奥からカナちゃんの弟と弟の友達が出入りする声が聞こえていた。
昼がいつまでも続くような気がした。穏やかで静かな時間だった。

あの頃、私は就職氷河期の洗礼を真正面から受けるような就職活動に疲れて、一度すべてを白紙にしようと思っていた。

こんなにどこにも受け入れてもらえない自分を差し出すことになんの意味があるのだろう。こんな丸腰の自分が就職活動をしているのがそもそもの間違いなんじゃないだろうか。

そんな焦燥感から逃げ出したくて、掛け持ちしていたコンビニやクリーニング店のアルバイトのシフトを増やし、さらには短期アルバイトまで始めて予定を詰め込めるだけ詰め込んでいた。暇ができたら就職活動のことをまた考えないといけないような気がして、逃げるように予定を入れた。

そんなふうに自分が就職活動から逃げていたせいかもしれない。
カナちゃんがカギを開けてくれなくても、布団から出てきてくれなくても、腹が立ったことは一度もない。カナちゃんを待つ空白の時間はまるで、世界に舌を出す共犯者のような、不思議な心地よさだった。

カナちゃんはどれだけそっぽを向いても、けっきょく最後まで私をクビにはしなかった。

*

翌年の春、カナちゃんは高校に合格して、笑顔で卒業式に出席した。
場違いな服装で、カナちゃんの保護者の代わりに卒業式に参列した私は、使い捨てカメラで胸に花をつけたカナちゃんの写真を撮った。

私は今でも、カナちゃんにとって、ほとんど自室で過ごしたあの2年間は必要な時間だったのだと思っている。人より少し、「今じゃない」と「ここじゃない」を敏感に察知したカナちゃんは、きちんと次の「今」を見つけて、逞しく羽ばたいていった。

*

社会は疲れる。スーツを着た人を見るたび「おお、大人のひとだ」と思うし、名刺を差し出すたびに正しい名刺交換のマナーが分からなくて動揺する。「頂戴します」と言うたびに、お尻がむず痒い。

子どもたちだってそうだ。毎日、同じ時間に起きて、重い荷物を持って暑かろうが寒かろうが歩いて学校へ行って、帰宅したら山のような宿題をする。心ないことを言われたり、理不尽に怒られたりすることもあるだろう。学期末にははっきりと疲れがにじんでいる。

社会はちっとも楽じゃない。エネルギーを消費しすぎる。
社会で失ったエネルギーを安全な場所でまた蓄えようとするのはきっと自然なことだ。

カナちゃんが繰り返し読んだあの小説は、もしかしたらカナちゃんがもう一度世界を覗くための小さな窓だったんじゃないかと思うことがある。

そんなこと、ないかもしれないしあるかもしれない。

ただ、カナちゃんが外の世界を見捨てずにいられた景色が、きっとどこかの窓から見えていたのだと思っている。
そこから見える景色を頼りに、ゆっくりエネルギーを蓄えて再び世界と手をつないだんじゃないだろうか。
社会はちっとも楽じゃない。楽じゃないけど、実はそんなに悪くもない。
大きな窓からは余計なものが見えすぎるけれど、小さな窓から小さな世界を覗けば優しい世界が見えることもある。

誰もが、小さな窓を持っているといいなと思う。
世界が色を失ってしまったとき、小さな窓から都合のいい世界を、都合のいい時だけ、見られればいい。
そうしていつか世界が色を取り戻したら、世界と手を繋ぐことができるのかもしれない。

不貞腐れていたカナちゃんは今、結婚して遠い町で働いている。


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