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「ほめて育てる」は使い方をまちがえると こわいと思う

偶然目にした幼児教育の広告を見て、びっくりしたお話をさせてください。

子どもが継続して教材に取り組めるように、色々工夫していますよ、という内容でした。「工夫」というのは端的に言えば、教材が、子どもたちに〈どのように働きかけているか〉ということです。
タブレット教材でしたので、画面に表示されたキャラクターが子どもに話しかけたり、ファンファーレが鳴ったり、画面が大げさに盛り上がったり、などの方法を用いて、子どもたちの気持ちを盛り上げようとする意図が感じられました。

ただ、その盛り上げ方が、過剰だな、と思ったんですよね。
教材に取り組むことを促し、始めたら褒める。
問題に正解したら、1問ごとに逐一褒める。
ある程度の量に達したら、ご褒美と称した演出がある。
とにかく、ずっと「すごい」「すごい」「できたね」「やったね」「すごいね」「きみならできるよ」と言い続けるのです。

これって、〈教材に取り組む〉という子どもの行動を、〈褒める〉という外からの刺激によって促している状態なんですよね。こういう関わりをずっと続けると、褒められないとやる気になれない、という風になるんじゃないかと心配になります。

ご褒美と称した演出によって、「楽しく学習できる」と標榜しているのも、個人的には好きではない。一見とっつきにくそうなことや、最初は興味のわかないものに触れてみるために、ちょっとした楽しい要素を加えることは、必要な工夫だと思います。でも、それは、あくまでも最初の1歩であって欲しい。
例えば、ひらがなを学ぶ楽しさというのは、学ぶことによって、自分の身の回りの文字が読めるようになることとか、似た形のひらがなを発見することとか、お手紙を書いたら相手に伝わることとか、そういうことだと思うのです。
でも、ひらがなを●文字書いたらゲームができるよ、という楽しさを、いつまでもいつまでも提供していては、学びそのものの楽しさ、ということに意識が向かないんじゃないかと、心配です。(保護者の方が、子どもの姿から、学びって楽しいんだね、と気づく機会もなくなりますよね。)

また、問題に間違えた時に、「きみならできるよ!」と励ましてくれるのも、ちょっとこわい。「全部の問題をできるようになることが絶対の善」という目的が根底にあるんですよね。何度繰り返しても、できない問題があるお子さんにとっては、むしろ酷な言い回しだな、と感じます。(昨今は、個人の努力とは関係なく、個別の分野がどうしてもできない、という人もいる、ということが、随分研究されてきました。)

自己肯定感を大事にしている、というような説明もあったのですが、自己肯定感というのは、ただただ「すごい」「すごい」って褒めたら育めるものではないと、私は思うんですよね。何かができるとか、できないとかに関わらず、ありのままの自分を、そのまま受け入れられるところから、自己肯定感は積み上がっていきます。
一方「●●ができるからすごい」という条件付きの肯定は、裏を返せば「●●ができないと、すごくなくなる」ということですよね。こわいなぁと感じます。

「ほめる育児」と言われるようになって、何年も経ちました。「ほめる育児」というのは、「叱る」という大人の強い態度によって、子どもをコントロールするのではなく、子どもの在り様を肯定し認めよう、という想いから始まったのだろうと思うんです。
でも、「ほめる育児」と言う言葉だけが一人歩きして、人によって使い方が多様になってきました。その中でも、大人にとって好ましい行動をした時に子どもを褒めちぎる行為は、「ほめる」という外的な報酬によって子どもをコントロールしているってことなんですよね。手段が違うだけで「外的な刺激によって、子どもをコントロールする」ことは同じなんです。

子どもを褒める時って、褒めている人自身の価値観が色濃く出るもんだと思います。それは仕方のないことです。大人も1人の人間で、個々の感情も価値観もあるから。ただ、褒めることって、子どもにものすごく影響を及ぼすんだ、ということは、知っていたほうがいいかもしれません。

たまたま目にした教材のCMでしたが、「子どもの学習意欲を高める」と称した振る舞いが、あまりにも「外的報酬によって、子どもをコントロールする」という方法だったので、ものすごくびっくりして、ついついこんなに長い文章を書いてしまいました。

今、学びの在り方というのは、大きく変わりつつあります。たった1つの正解を求めるのではなく、人によって答えの違う問いや、いくつもの正解がある問いに向き合うことが求められていると感じます。ただ、一方で、答えのない問いに向き合うために、基礎的な知識、文字、計算など、〈あらかじめ決まっているもの〉は知っておく必要もあります。

バランスを取ることは難しいことだけれど、その両者をどちらも大切にしていくことが、これからの学びには必要なんじゃないかと思うのです。だから、分かりやすい方(=文字や計算など。答えが決まっている。大人たちが経験してきた学びかたと同じ)だけを強調するのって、なんだか、時代の針を巻き戻しているようだな、って感じてしまいました。

答えはないからこそ、子どもたちの学びと育ちに、どんな風に向き合っていくのか、ずっとずっと問い続けたい命題だな、って思います。

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