【3年鬱体験記】Part 1_はじまり

個人的な記録ではありますが、今苦しい誰かの何かのきっかけになれば。
私の3年間を振り返る。

鬱シリーズの結論からいうと

絶対に大丈夫だと断言する。
最底辺まで行ったら、あとは上昇するしかないんで最後は絶対大丈夫。
めちゃくちゃに苦しい気持ちはわかる。必要な時間は違うかもしれないけど、誰でも同じような経緯を辿って、最後は復活できる。大丈夫になるまで、わたしは大丈夫って言い続けるよ

何故倒れて、どう対処したか

初期の状況と、今振り返るからこそ思う、こうすればよかったなを本記事では進めたい

なぜ人は精神的にダウンするのか?
ポジティブな変化でも心身には負担になる

2020年10月、28歳の時だった。人生で初めて精神的にダウン。
きっかけは複合的だったと思う。

自身の回復のためにメンタルヘルスについて調べる中で知ったのだけど、人生における出来事それぞれもストレス値がある。
ライフイベント法という尺度。

*ホームズの社会的最適応評価尺度
例)配偶者の死 100、離婚 73、結婚 50、転職 36など。
これらのスコアが1年で300を超えると、1年以内に不調をきたす可能性が高いというもの。

https://www.niph.go.jp/journal/data/42-3/199342030005.pdf

この時驚いたのは、たとえ結婚や妊娠といった人生において喜ばしいと思われる事象であっても、変化である以上ストレッサーになるということ。

ダウンしたとき、私のスコアは500に迫っていた笑
今苦しい人も、あらゆる変化に直面して、頑張りすぎて対応できなくなってるだけじゃない?って思うだけでも少しラクにならない?倒れて当然の状況だったわ〜って自分を認めてあげてほしい。

しかもこの研究は1950年代のアメリカのものなので、現代日本ならではのイベントもあると思うし、本来はスコアはもう少し高くなったりするんじゃないかな。

ストレス耐性は人による、できる範囲でがんばったらいい。自分がどこまで耐えられるものなのか理解を深めるきっかけになるから、倒れたって良いことでしかなくない?ということで、大丈夫なんですよ

>最も強い者が生き残るのではなく、 最も賢い者が生き延びるのでもない。 唯一、生き残るのは変化できる者である。 チャールズ・ダーウィン

って名言があるように、変化に対応できるってめっちゃすごいことなんよねえ ほんでこれからは自分ができる範囲で変化に対応するわけだから、どうやったって生き残れる、最強。

当時の主なストレッサーと思いつく要因。

・転職(業界違う、担当業界も違う、商材も違う、働き方も違う
・年収の大幅アップ(これだけ頂いているのならば成果を出さねばとプレッシャー
・結婚(ぶっちゃけ本当は違和感あったけど28歳のお年頃・・・踏みとどまれなかった
・引越し(一人暮らしから同居へ、横浜から東京へ
・コロナ禍(予定されていた業務が変更になったり、業務上での楽しみにしていた予定もなくなる


私のよくない性格、ひとりで抱え過ぎる、できないと言えない、やり抜くまで頑張る、とド根性精神の生き方


メンタルヘルスへの無知・無関心。割と真っ直ぐなレールに乗っていて、悩んだことなんてなかった

うまく言語化できないが、半年ほど歯車が噛み合わない感覚にもやもやしていた。

最初の症状。

ある日気づいたら何の気力も湧かなかった。起きたくない。お風呂も入りたくない。人と同居してたんで根性で入ってたが。笑
食いしん坊なのでごはんはもりもり食べてた。笑
まずは、とにかく起き上がれなくなった。オンライン会議に出ても右から左へ抜けていき、何の言葉も理解できない!え?まじ。
パソコンも触れなくなっていく。
あらゆる心身機能がシャットダウンして、寝続けてしまった。

1週間続いた時に、なにかがおかしい、とふと思った。
何もできなくなったと、人生の恩師に相談した。指示を仰いで、精神科の受診を決断。

この時もやっぱり私の良くないクセが、しっかりモノだと思われたさ故に最初に相談した相手が当時のパートナーではないという。でもこれまた記事一本書けるくらい語りたいことがある・・笑

でも話せる人が一人でもいて本当によかった。だから、私のこと知らん人でも苦しかったら声をかけてほしい。
誰にでもいいからSOSを出せるだけでめっちゃ偉いよ。

初めての精神科

初めての精神科までは足取りが重かった。
少し家から離れた病院のHPを見つけた。なんとなく会社や元夫にバレなそうなところを無意識的に選んだのだと思う。

予約の電話も声が震えた。
「どういった症状ですか?」・・・
そもそも精神的な症状ってなんだ?ってほどに私はメンタルヘルスに理解がなかった。絞り出して、仕事に行けないと。しぬほど恥ずかしかった。
朝7時に出社して、23時、時には0時過ぎるまで仕事にかじりついてた私が、「できない」と言うことが本当に悔しかった。

いざ診察に入ると、初めて声をあげて泣いてしまった。まぁ〜、まともに話せなかった。うわぁ〜。その時点で、先生がカルテに筆を走らせるのが見えた。そんな書くほど私おかしいのか!!!と思ったのを覚えてる。

下りた診断は、適応障害。
適応障害・・・ある特定の状況や出来事(転勤、配転、新しい人間関係など)が、その人にとっての主観的な苦悩(とてもつらく耐えがたい感じ)を生み、そのために気分や行動面に症状が現れるもの

きっかけが明確なので、原因を取り除けば回復できる見込みがあるというのは一つの希望だった。

最初の心理状況

ひたすら自分を責めていた。
まずは仕事を休むことから、休職の申請をした。休むことに最初は強い強い抵抗感があった。
なんでこんなこともできないのか。仕事してない自分はダメだ。みんなできてるのに私だけできない。平日の昼間に外出することも苦しい。みんな働いている時間なのに、なにをほっつき歩いてるのか・・

同時に、配偶者のアルコール問題にも悩んでいた。毎日寝る間際にひどく絡まれるも、彼にその記憶がないということに気づくまで3ヶ月かかっていた。穏やかに寝付ける日々じゃなかったことも負担だったと思う。

あと誰にも連絡できなかったね。親にも言えなかった。友達とも音信不通になっちゃっていた。誰にも知られたくなかった。後述するけど、1年半は誰にも打ち明けられなかった。

責める、眠れない、弱音を吐けない。内にこもり続けていた。
当時の写真見ても、不安感もりもりで生気が感じられない。この私が!となるほどに。笑

ダメな自分も認め始める。

最初の小さな一歩はカウンセラーをしている友人に打ち明けたこと。たしか4ヶ月くらい経った頃。覚えていることは、「ちゃんと一回壊れたじゃん!」「自分で自分にひどい言葉を投げかけなくていいよ」と言ってもらえたこと。

今までの私は、何でもできると思ってた。完璧主義だったかもしれない。その私が、できないことに直面して、できないと言えない自分を壊せてることがえらいんだよって言われて、目から鱗だった。

今となっては大事だと思うことは、カウンセリングと精神科の違い。

私の解釈では、精神科は通常の日常生活を送る上での障壁を相談するための機関。
たとえば、眠れない、不安感が強い、感情の波が大きくまともに活動できない、など。結局これらも脳からの信号がおかしくなってるという話なので、そこを調整するための薬は普通に頼っていいと思う。大丈夫になったら少しずつやめればいい、薬を飲むことは恥ずかしくない。

カウンセリングは、自分の認知や、感情と向き合うために活用したい。
正直、カウンセリングも良し悪しがあった。ただ話を聞いてうなずくだけの何の突破口も見えん人もいた。けれど、話すなかで気持ちに気づいたり、整理できたりして、最終的にカウンセラーなしで、いや、自分でこう考えた方が合理的だわとか復活の方向性を見出すきっかけにはなったので全部に感謝はしている。

精神科・心療内科でつらい気持ちを理解してもらいたい!ていうのはあんま期待せん方がいいかな、と個人的には思います。

あと一つ目の病院で教えてもらえなかったこと恨んでるんだけどww、医療費1割になるから申請した方がよい。
自立支援医療(精神通院医療)という公的支援。自己負担1割になるので絶対活用してほしい。

まとめ:まずはじめは、SOSを、出せる人に出そう。それでおk。

パート2へ続く。

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