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育児における父親の意識について思うこと

うちの元夫は、育児に積極的ではなかった。

離婚の一番の原因はそこではないのだが、離婚した今、育児負担の体感は離婚前と比べて特に増えていない。むしろ夫に意識を向ける必要がなくなった分、子どもに集中できて楽とすら思う。
もっとも、彼も日々風呂に入れたり休日に出掛けるために車を出したりはしてくれていたので、本人からしたら「育児参加していた」という気持ちだったようである。

では何が私と元夫の意識の断絶を生んでいたのか。
私の求めていたもの、ネット上で見かける母親たちの愚痴、或いは私の周囲で上手く共同作業ができている夫婦の実例などを参考に、子育てに関わる父親に(もちろん母親にも)必要と思う意識について少し考えてみた。

主に母親が子どもの世話をし、父親は日中仕事に出ていて子どもと関わる時間が比較的短いという家庭を想定した話である。これを読んで当たり前過ぎる内容だと感じる方はきっと既によい父親なのでそのままでいてください。


1・作業の全貌を把握する

育児はとにかく細々としたやることが多い。
例えば「風呂に入れる」という作業を考えてみる。
もちろんただ風呂場で入浴させればよいというものではない。まず、風呂上がりの着替えやスキンケアの準備。出てきた時に寒くない室温か確認。子どもの服を脱がせてようやく風呂場へ。洗って湯に浸からせて出して、そうしたら、すぐ拭いて保湿して服を着せて髪を乾かす。もちろんじっとしている人形ではなく泣く赤ん坊だったり動き回る幼児だったりを相手にしながら、だ。
「子どもを風呂に入れる」とは、この一連の作業とその片付けまで含めてようやく完結するものなのである。
この認識がないままだと、「風呂場で子どもの体を洗って湯に浸からせて出す」だけをやって、自分はゆっくり湯船に浸かってから出てきて「毎日子どもを風呂に入れている」「風呂に入れるのはそんなに大変じゃない」なんて自信満々に言ってしまう父親が爆誕する。
残りの作業は誰がやったのか?という話である。

子どもの面倒を見るというのは、実に多くの作業の連続だ。
当然、家事も並行して行わなければならないので、更に作業量は多くなる。父親は「今日飲み会だから」の一言で子どもの世話の一切を休めるかも知れないが、母親の方は出かけるなら事前に子どもを見てもらえるか日程を調整し当日の子どもの身支度を整え夫に必要な指示を出し何ならご飯まで用意して出ていかなければならなかったりする。家を出る前からへとへとだ。もちろん帰ってきたら溜まった家事が待っている。
そこにたかが数時間相手をしていただけの人から「子どもの面倒を見てやったんだから感謝しろ」なんて態度で来られたら、何とも言えない気持ちになることは想像に難くないだろう。

育児における作業の全貌をきちんと把握した上での分業。そしてお互いの作業への感謝。(それにはもちろん、働いて稼いでくることも含めて)
夫婦での子育てが上手くいっている人はこの辺りがちゃんとできている印象がある。

2・子どものことを知ろうとする

子どものこと、どのくらい知っていますか?

「現在の身長・体重」「好き嫌い」「着ている服や履いている靴のサイズ」「おむつのメーカーやサイズ」「平熱」などの基本情報。「着替えがどこにあるのか」「食べる量はどのくらいか」「登園に必要な支度は何か」「起床・就寝時間の目安」など生活に必要な情報。体調を崩せばその経過や処方された薬のことなども把握しておかなければならない。
それらは毎日世話をしている母親には当たり前にわかっていることなのだが、子どもと触れ合う時間が少ない父親の場合は自分から知ろうとしなければ知ることができない。知らなければ、細かく指示をしてもらわないと何もできないということになる。

自分の子どもに興味を持って知ろうとする。
当たり前のようだが、出来ていない人は結構いるように思う。元夫はほとんど知らなかった。おそらく、自分が知らないことを気にしてすらいなかった。

3・受け身ではなく一緒に「考える」

子育てではもちろんやるべきことが多々あるのだが、実のところ一番疲れるのは常にたくさんの判断を求められるという点ではないかと思う。

子どもの服装、健康状態、安全、毎日の予定。健康診断や予防接種、節目節目の大きな行事などのスケジュール管理。離乳食やトイトレ等の進め方に園選び、洋服や備品の管理・買い足し。少し考えただけでいくらでも出てくるが、家事や自分のことと並行して(というかほとんどの場合子どもの方を優先して)常に様々なことに気を配り、判断し、行動していく必要がある。
これは本当に大変なことだ。
そして、何より、どんな時に叱り、どんな時に褒め、何を大切にして子どもを育てるのかという教育方針。子育てに正解はない。正解はないが出来る限り我が子にとって良い環境を作ってあげたいという思いで、日々親たちはたくさんのことを考えているのではないかと思う。少なくとも私はそうだ。

元夫はよく「言ってくれたらやるのに」「手伝ってほしいなら言って」と口にしていた。本人的には優しさのつもりだったらしい。
だが、私が求めていたのは指示すればやってくれる下っ端作業員ではない。我が子に必要なことを一緒に考えて実行してくれる共同運営者である。

我が子を育てる上での方針を共有し、報連相を大事にし、その上で自主的に行動をしてほしい。わからないことは都度聞いてくれたらいいから、待っていないで自分から何ができるか考えてほしい。

しかし、私がそうして仕事に例えて話すと元夫は決まってこう言った。
「家でまで仕事しているみたいに過ごしたくない」
「そんなに色々考えなくていいでしょ」
我が子の人生がかかった子育てという一大事業を前にして、何をふざけたことを言っているのか。
私はいつも憤っていたような気がする。

4・大事なのは当事者意識

私の中で印象に残っているエピソードとして、こんなものがある。

元夫は、離婚するまで一度も我が子の爪切りをしようとしてくれなかった。理由は「怖いから」である。私がやってと頼んでも、怖いからできない、と言って断り続けた。
私だって、生まれたての赤子の小さい小さい爪を切るなんて、怖くて仕方なかった。何なら小学生になった今だってちょっと怖い。だが、だからといって「やらない」なんて選択肢は私にはなかった。
爪を切らなかったら困るのは我が子だ。伸びてくれば自分を引っ搔いてしまうこともあるし、爪が折れてしまうのも危ない。怖いけど必要に迫られてどうにかやっているうちに、少しずつ慣れてきたのだ。
そんな当たり前のことが、元夫にはとうとう最後までわかってもらえなかったのである。「やらない」が選べるのは、自分が育児の当事者であるという意識が欠如しているからだと私は思う。

「やらなくてもいい」選択肢なんて存在しないのが育児だ。もし両親が揃って「やらない」を選択してしまったら、それは育児放棄に他ならない。やりたくないことも、怖いことも、わからないことも、やるしかないのだ。そうしてやっていくうちに、わかるようになってくる。やらなければいつまでだって「わからないから出来ない」ままである。

母親は子どもを産んだ瞬間から24時間営業だ。朝晩関係なく乳をやり、おむつを替え、赤子が泣けばいつでも対応することを余儀なくされる。
でも、本来、父親にできないことは「母乳を直接あげる」だけである。それ以外、全てのことは夫婦は同じスタートラインにいるはずなのだ。
母親だって何もかも初めてなんだから。


最後に

離婚前の私が夫に言いたかったこと、少しずつ言ってはいたけど理解してもらえなかったことたちを供養も兼ねてまとめてみた。あくまで私の主観が中心であるので全ての母親がこう思っているという訳では決してないが、これまで挙げてきたことを理解してくれるだけでも母親側の負担はぐんと減るのではないかと思う。特に精神面。
何よりきっと、夫婦仲も家族仲も良くなるだろう。
ぜひ、心の片隅に置いておいてもらえたら嬉しい。

色々と偉そうに書いたが、私だって何もかも理想通りに出来ているわけではない。どちらかというと元来面倒くさがりでいい加減な性格である。うまくいかなかったと反省する日もたくさんある。
だが、子育ては実直に真面目にやるしかないと思っている。一人の人間の人生を、僅かな一時だけでもこの手に委ねられているのだから。

そして、元夫のことを散々に書いたので「それなら子どもなんか作らなければよかったのに」と思った方もいたと思う。わからなくもない。でも、「まだ子どもはいい。育てる自信がない」と言い続けていた結婚当初の私に、「どうしても子どもがほしい」「一緒に頑張って育てよう」と繰り返し説得をしてきたのは元夫の方なのである。
だから私も腹を括った。育てるからには頑張ろうと決めた。
なのにその結果がこれなのだから、私には未だにちょっと意味がわからない。

まあでも、生まれた我が子を見たらもうただただ可愛くて世界一愛おしくなってしまったので産んだことに一切の後悔はないのは紛れもない事実である。それだけは今も変わらない。子どもが生まれて、大変なことはもちろん多いが、もらった幸せも山ほどある。
私は我が子を心から愛しているし、子育ては楽しい。そして楽しみたいと思っている。その方がきっと、我が子も楽しく過ごしてくれるはずだから。

明日もがんばろう。

よろしければお願いします。