見出し画像

主戦場を見て 

ずっと見てみたかった「主戦場」をやっと見た。まだ言葉にはならない部分もありつつ、感想を書いていこうと思う。


証言に一貫性がないという主張

右派の人たちがよく言う「元慰安婦の人たちの証言に一貫性がない」と言う主張。その主張を通してなされる議論は「だから慰安婦は性奴隷でもなんでもない」「問題ではない」というものである。

そもそも問いたいのは”証言に一貫性など存在するのか”ということである。証言者は人間であり、さらに何年も前の経験を遡って話している以上、新しい情報が出たり、数字が曖昧になってしまっていることはある意味仕方がないのではないかと思う。

そして忘れてはいけないのは自分が受けた身体的、精神的苦痛を証言として言語化しなければならない当事者たちの苦悩である。
それらにリスペクトもしないで一貫性を求めるのはどうなのか。

また証言に一貫性がないことと慰安婦が問題にならないことは違う。被害者側の欠陥を見つけては攻撃するような姿勢に違和感しかなかった。

証言の一貫性の有無に関わらず、当時の日本軍による組織的性犯罪が公然と行われ、国際法、慣習法違反であることは明白な以上、それを問題視しない態度は取れないだろう。

反対することで見えなくなってしまう議論

私は映画の中で印象的だったのは韓国(だけに限らずアジアにおける)家父長制も大きく関係しているということである。慰安婦になろうとした女性の中には家族を支えるという文脈で慰安婦にならざるをえない人もいた。

しかし、こうした側面の貴重な議論は、日本政府の責任を問う議論の中でなし崩しになってしまう。

反対側が議論をより強固にするために日本政府の責任を問う形で議論を進めているようにも見えた。被害者側である韓国の内部でどんなに問題の本質を掴もうとする議論が生まれようとそれらは「日本政府の責任問題」という別の論点を主張することで見えないものとなってしまうのだと思った。

「歴史」の「真実」を「追求」するとは?

真実など歴史には存在しない。
真実を究明することなど歴史家でも不可能な作業である。
しかし、いわゆる修正主義者、否定論者たちはありもしない歴史の「真実」を追い求めようとする。歴史自体解釈で成り立つというのに。

映画の中では、皮肉にも右派の主張の後に歴史学者たちによって資料の解説がなされる。武井彩佳さんの『歴史修正主義』という本の冒頭にあった修正主義者たちの歴史の見方がここに現れているように感じた。

自分の見たいものだけを見る。
自分の信じたいものだけを見る。
自分の正しいと思うことだけを正しいと主張する。

彼らたちは自分の見ている歴史の側面が多くある中の一つであることに気づいていない。しかもそれが「絶対」だと信じる。

彼らを見ていると歴史学という学問に対する冒涜ではないか?と感じたくもなる。

行われる感覚の議論

慰安婦は性奴隷ではない。という主張の中で出てきた「奴隷」の定義。

「奴隷に自由はありますか?奴隷は多額の報酬をもらえるか?」

奴隷が彼らの中においてどのように定義されているのかが全く見えなかった。映画の中では奴隷とは身体的拘束があることだけが奴隷ではないことなど国際法上「奴隷」とされる状態に関する解説がなされている。

上記の発言は彼ら(修正主義者たち)の中に存在する「奴隷のイメージとは違うから奴隷ではない」と言ってるようにしか聞こえなかった。

”美しい国、日本”

よく年配の方から言われることがある。「それは違うんだ」「日本は正しいことをしてきた」「日本は美しい国なんだよ」

当事者の証言を聞こうともせず、歴史の一次資料を確認したわけでもない。それなのに論理が捻じ曲がっているような主張をただただ信じてそれを正義のように語る。そして何より若者が歴史を解釈しようとする余地まで埋めてしまうことに私はただただ恐怖を感じる。

美しいとは一体何か。

彼らが「日本は美しい」と語るとき、それは純粋潔白な国であることを主張しているように聞こえる。
そしてけがわらしい歴史を持つことは「美しくない」としている。

でもそれは本当なのか?

戦争の時代の非人道的な行為をなかったかのようにすること、または正当化することは本当に「美しい」のか?

彼らの言う「美しい」という表現がどういう意味を指すのか聞いてみたいと思う。

「あったかどうかわからない歴史を恥じて謝罪する必要はない」

そう言われるかもしれない。今の時代を生きる私たちが過去の歴史があったかどうかなんてそもそもわからない。しかも慰安婦問題自体、証人がいることを考えればゼロから作り出された歴史ではない。

映画を見始めて脱力した。
いかに難しい問題か。体力を必要とするか。

私たち、戦争の時代の先の「未来」を生きる私たちに必要なのは「歴史の事象に対する誠実な姿勢」ではないかと思う。
学んでも学んでも知らないことは多い。自分は常に「無知」であることを自覚できるかどうか。そういう学問や学ぶことに対する真摯な姿勢も必要だと思う。私もそんな人間でありたいな、と思う。

学費に使わせていただきます!