マガジンのカバー画像

かぞくのこと

24
かぞくについて書いているnoteをまとめています。
運営しているクリエイター

記事一覧

目には見えなくなった母の実家

「〇日におばあちゃんちを壊すことにしたよ」 年が明け、実家で過ごす最終日に、母が思い出したように言った。母がおばあちゃんのおなかにいるときから、父と結婚するまでのときを過ごした家。数年前におばあちゃんが亡くなり、ぽっかり空いた家になっても、母は毎日欠かさず訪れ、ずっときれいに保っていた家。けれど、2019年の台風で床上浸水が起こってから、維持が難しくなってしまった家。 いよいよ無くなってしまうんだ、と思ったと同時に、なんでもっと早く言ってくれなかったんだろうと、少し母を憎

好きなものの正体は

自分が好きなものに対して、「どうして好きなのか」をふと考えた。 年々、自然が大好きになってくる。特に木は一番の癒しで、触ったり、香りをかいだりすると幸福感で満たされる。好きがあふれて記事にまでしてしまった。 先日取材した木彫り職人さんからは、木の端くれをいただいて、お風呂に入れたり、机に置いたりして香りを楽しんでいる。 木の香りをおもいっきり吸い込んでいたら、小さい頃のとある思い出がよみがえってきた。それは、実家を増築したときのことだ。 増築したのは小学校1年生の時の

その“存在感”はどこから来るのか

不吉な知らせがあるのかもしれない。そう思えるほど突然に、母が我が家へやってきた。 最後に会ったのはお正月だろう。コロナが流行ってから実家に帰るのをよしていたし、母も「また会えるんだから、今は帰らなくていい」と言っていた。だからこそ、突然「みほの家に行こうかな」と連絡が来て、その3日後にははるばる訪れてきた母から、何か大事なことを告げられるのかもしれないと不安になってしまったのだ。 平日のお昼に突然現れた母。手作りのパンと、家で採れた野菜の入ったバッグを両手に持ち、ついて早

寂しさをまとう「妄想」

「おばあちゃんがね、来てくれたの!」 数年前に実家へ帰って、母から一番に聞いたことばがそれだった。祖母が亡くなってから3,4か月経った頃だったと思う。 実家に帰る数日前、会社帰りに中華屋を営むおじいちゃんと道端で話し込み、おじいちゃんのお店で夜ご飯をごちそうになった。絶え間なく話すおじいちゃんの声に耳を傾けながら、2人分はあるんじゃないかと疑うようなチャーハンをもぐもぐとほおばった。 お店兼自宅でおじいちゃんは、92歳のお姉さんと同居していた。ひょこっと顔を出したお姉さ

あたらしい生活、旅立ちの日

みんなの心を描いたような花曇りの日、私は母にメッセージを送った。 今日は、18歳から勤めた場所を、母が退職した日。部署は変われど一つの場所で、40年以上も働いていた。新卒で入った場所を6年足らずで辞めてしまった私は、これも一つの才能だよなぁと、いつものは向けたことのない尊敬の気持ちがぽこんと生まれた。 * 仕事をしている母は、ずいぶんと楽しそうだった。仕事から帰ってきてごはんのあと片付けをしている間、私は手伝いもせず台所の椅子に座って、「今日〇〇さんがね」と話す母の言葉

冷たい麦茶が飲めなくなって

小さい頃の母はよく、冷たい飲み物を飲むとお腹を壊すと言っていた。冷蔵庫に常備された麦茶を飲むのはいつも決まって兄か私(父はずっと仕事が忙しく、一緒に夜ご飯を食べた記憶があまりない)。家には祖父母もいたが、やはり飲むのは温かいお茶だ。掘りごたつの上にはいつも急須が置かれ、季節を問わずにいつも温かいお茶を飲んでいた。 当時の私は、「冷たいものが飲めない」母が不思議でしょうがなかった。暑いものを食べた時も、お風呂上りの時も、冷たい麦茶を飲むとあんなに気持ちがいいのに。 ゴク、ゴ

生まれてきてくれてありがとう

朝7時、母からメッセージが届いた。「生まれてきてくれてありがとう!」 そういえば去年ももらったなぁと、1年前の誕生日を振り返る。“銀座で寿司が食べたい“と友達に頼んで、連れて行ってもらったが、それ以外のことは正直あまり覚えていない。人の記憶はあいまいなもので、きちんと記録しておかないと容赦なく忘れてしまうものなのだろう。 * 今年はと言うと、日付が変わった0時から本厄にふさわしい悲劇を迎えて歳をとった。1年かけてやってきたサーティワンプロジェクトの最後の記事を、9月25

秋ナスは嫁に食わすな

実家の食卓に出てきたナスが、永遠に食べ続けられそうなほどおいしかった。 油のいらない特別なフライパンを使って、めんつゆで焼いたらしい。味が程よくしみこみ、口当たりがなめらかで、思わず「これおいしいね」と母に話しかけた。すると母から、不思議な言葉が返ってきた。 「『秋ナスは嫁に食わすな』って言うくらいだからね」 嫁に食わすな? どういうこと? と母に聞いてみると「秋ナスはおいしいから、気に入らない嫁には食べさせないってことだよ」とのこと。嫁姑問題について、私の母はかなり

パパの電話を待ちながら

Yシャツ姿の男の人が、電車の中で本を読んでいた。タイトルは、「パパの電話を待ちながら」。仕事で夜の遅いパパが、毎晩21時に電話して娘に話した物語を綴る、イタリアの童話集らしい。 男性の左手薬指には指輪もあるから、きっと子どもがいるのだろう。彼も同じように、子どもたちに読んだ童話を伝えるのかなと想像したら、混雑した車内でもなんだかちょっとほっこりした気持ちになった。 小さい頃の父親との記憶はほとんどない。仕事が忙しく、私が起きてる時に帰ってくることは本当にまれだった。土日の

本当は言いたくない「いつまでも元気で、長生きしてね」

「こればっかりは順番だからねぇ」と、祖母の体調が悪くなる度に、母がよくつぶやいていた。私はことあるごとに、祖母に向かって「長生きしてね」や「元気に過ごしてね」と話し、神社やお寺に行けば母の好きな鈴のお守りと、祖母のために健康長寿のお守りを買っていった。もう何年も前の話だ。 先週、母の還暦祝いを兼ねて安曇野の穂高養生園へ旅行に出かけた。一緒に旅行するのは10年ぶり。大人になると何年経っても変わらないように思えるけれど、10年は人を変化させるのに十分な時間。皺も増えれば体力も落

今にいながら過去を生きること

「私が小さいころ、おばあちゃんと手を繋いでこの道を歩いたよ」 運転する母が思い出話を始めた。私は助手席で相槌を打つ。後ろには父が乗っている。私たちは今、母の実家近くにある深沢小さな美術館へ向かっている。 美術館への通り道は、母にとって思い出が散らばった場所らしい。幼い時に通っていた祖母の職場、習字教室、そして新婚時代に住んだ小さなアパート。 * 思い出話を聞いているうちに、車はどんどん細い道を進んでいった。着いた場所は草木が生い茂った森の中。シンデレラの小人の家のよ

老いは気づかないうちに

毎日はゆっくり、知らないうちに少しずつ変わっていく。 久しぶりに祖母の手を握った。最後に握ったのはいつだろうかと考えた。おそらく私の物心つかない頃だったと思う。 大学卒業まで一緒に住んでいた祖母だが、少し難しい性格をしていたので言葉を選んで話す必要があった。とはいえそこまで話しかけられることも無いので、毎日顔を合わせても話さない日がしばしば。離れて住むようになりようやく、少しずつ言葉数が増えてきた。 足が悪く、杖をついても歩くのが難しい祖母。片手に杖、片手に私の手を

強要される常識の対処法について考えた

相手は変わらないのなら、笑って終わりにしてしまおう。 「常識」が自分の中で固まってしまっている人と話すときは、どうも会話がかみ合わない。「ふつうはこうでしょ」「みんなこう言ってるよ」と、私の考えとは違った、そして私の周りにはあまり見かけない"ふつう"や"みんな"を振りかざして、その人の考えを押し付けられてしまう。「私はこう思うよ」が受け入れてもらえないから、会話がどうどうめぐりしてしまう。 何度話し合っても考えは変わらず、押し付けられる常識に辟易した。どうしたら世の中に色

“家族”を模索中

時々、「家族のやり直し」をしているような気分になる。 口数の少ない私の家族はコミュニケーションの取り方が独特だったと、最近になってやっと気が付いた。両親にあまり相談することはなかったし、自分から話かけてた記憶もあまりない。私はいつも聞き役が多いし、聞かれてもあまり話さない、なんだかおとなしい子どもだったような気がする。 * ここ1か月はずっとモヤモヤしながら生活している。例外なく今日もモヤモヤ抱えながら家に帰ってきたら、4つ年上の同居人がご飯を食べていた。「今日は遅いね