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退職からの3か月を振り返ってみた①

みなさまこんにちは、mihokoです。


2021.3.31、3年続けた仕事をやめました。

この3年間は、自分の中でも頑張ったぞ!と思える期間でしたが、最後の1年はコロナ禍で本領発揮できるような仕事はほとんどできませんでしたし、異動してきた上司にパワハラをされ、心身ともに病んでいたので、とりあえずは3か月、じっくり自分を整えようと思っていました。

実際には仕事をしているときより忙しい3か月となりましたので、振り返ってみたいと思います。


4月

4/1,4/2はだらだらする。ひたすら寝ました。

4/3は夫のおじが病院から退院。介護タクシーで寝たきりのまま退院。もう余命は1か月程度と聞かされる。2月に入院したときからさらに衰弱し、反応も薄い。食欲はなく、完全に寝たきりなので、自宅での介護、そして看取りが近いことを悟る。「好きなものを食べさせてあげてください」と往診の医師からの指示。ほんとうにお別れが近い。悔いが残らないように側にいてあげよう。

4/4、2月から老健に入所していたおばが一時帰宅。コロナ禍のため、特例中の特例。余命の短いおじと対面させてあげたいという願いが叶いました。帰ってきたところを動画にとっておきました。おばがおじの最期を知りたいと思ったときに見せてあげたいと思います。おばが施設に帰るときにおじが「気を付けて帰りや」といったことばに泣きそうになりました。実際、これがおじとおばの今生の別れとなりました。

4/8は、一年遅れの娘の大学入学式。着物姿も久しぶり。大学キャンパスで、友人と談笑する娘を遠くから眺め、成長を感じました。帰宅後は某メディアの取材。着物姿に記者さんもびっくりされていた( ´∀` )

4/9 娘と細見美術館へ。介護の合間を縫ってのこのような時間は本当に贅沢。吉岡幸雄さんの功績を伝える展覧会。娘の更紗さんは私と同年代。もっと頑張らないといけないと思う。

8日に買ってきた朝堀り筍をたけのこご飯にして、おじに食べてもらう。たけのこが好物だったようで喜んでたくさん食べてくれた。やはり旬のものはおいしいはずだ。2か月の入院生活では食べられなかったお寿司やカレー、おでんなど毎日少しずつ食べたいものを食べさせてあげられた。

4/10 おじが退院してきて落ち着いたので、3号をつれて、京都御所までお散歩。ちょうど一般公開中なので、中をみて桜の写真を撮ってきた。きれいな青紅葉や桜の写真を帰宅後おじに見てもらうと、とてもきれいだと喜んでくれた。

4/11 京都駅の美術館「えき」で開催中のデヴィッド・ボウイが来ていた京都、鋤田正義写真展へ。このまま京都国立博物館へ行こうかと思ったがとてもパワーが出ない。京都タワー麓のスタバですこし休憩して帰宅。私が不在のときにおじの知人が訪ねてきてくれたようで、おじと会ってもらえてよかった。

4/12 午後から司法書士さんに成年後見のことなど相談にいき、そのまま京都家裁へ成年後見申立てセットをもらいに行く。家裁で後見に関するビデオを見ている間、おじが苦しみを訴え救急搬送されたとだんなから連絡。病院にいってもしょうがないと思ったが、このとき行っておけばよかったと後悔。この日、お昼ごろに、おじがいちごを食べたいといって食べさせてあげた。とてもおいしそうに食べてくれた。実質的に家で食べた最後のものがいちごになってしまった。

4/13 成年後見の申立て書類の作成や準備を開始。切手を買いに行き、区役所に戸籍関係の書類を取りに行く。一週間くらいで出せればと思って頑張っていたが、結果的には1か月後となりました。。


4/15 おじの容態も落ち着き、来週退院できそうとの連絡。また帰ってきてできそうなことが何かを考える。

4/16 夜9時ごろ、おじの病院から連絡。酸素濃度が高くならず、今夜がヤマだという。コロナ禍で入院中は面会ができなかったが、危なそうなら、また夜中に連絡するとのこと。だんなと覚悟を決める。

4/17 夜中、1時ごろにおじの入院先から連絡。いよいよ危ないとのこと。私はclubhouseで話していて起きていたので、だんなと病院へ移動。このまま夜明けまで付き添って回復の見込みはなさそうだ。最期まで一緒にいてあげよう。バイタルや数値がどんどん下がっていく。3時間後にはとうとうおじが旅立つ。何度も涙がこぼれてきた。おばのことが心配で、自分の病気やしんどさを乗り越えて介護をしてきたおじ。辛くてもおばが心配だから頑張ってきたのに自分が先に逝ってしまうなんて。とても後悔してもしきれない、悔やまれる気持ちばかりだっただろう。おばのことは、私たちが面倒をみるから、大丈夫だから、しんどかったね、辛かったね、、最期のことばを振り絞ってそう伝えた。

死後は慌ただしい。

病院で看護師さんによるお見送りの準備をしていただき、葬儀社への電話連絡、寝台車の手配をすませ、いったん家に戻り、掃除をしておじが寝る場所をつくってから病院へ戻る。葬儀社の方とおじを家に連れて帰ってきて、葬儀の打ち合わせ、準備が続く。夫の両親の指示で当日に通夜、明日告別式となったため慌ただしい!!おばも葬儀の際に施設から1時間だけ外出し参列が許された。老健施設のスタッフのみなさんのご判断は本当にありがたかった。

昼食をとってからしばらく仮眠。夕方には着替えて通夜、家での葬儀は昔、祖父の時に経験したが、家族だけでこじんまりできてよかった。

おじは神仏に信仰があつい人でしたが、亡くなった時、どこのお寺とご縁があるのかわからず、夫の家でお世話になっているお寺に通夜葬儀のおつとめをお願いしました。お墓も子どもがいない家なので、引き続きお寺にお世話になろうと思っています。これは結構わからなくて迷いました、でもご縁があるところにお願いすれば宗派問わず対応してくれるようでよかったです。

葬儀関係でまたこまったのは、お棺の中に納めてあげるものをどう選ぶかでした。私は、最期に食べてもらったいちごを納めました。。あと身の回りにあったものなどを夫の両親が選んでいましたが、通夜葬儀が1日遅らせて余裕があれば、もうちょっと選ぶ時間があったのにと、思いました。

自宅での家族葬という形でしたが、旧知の知人の方だけお参りしていただき、あとは死後にはがきでご縁があった方へ通知させていただきました。

4/18 おじの葬儀の日。午前中は家の用事を済ませながら、午後に葬儀、お見送りをしました。出棺のときは町内の方にもお見送りいただき、本当にお参りしていただけなくて失礼だったかと思うのですが、暖かく見送っていただきました。火葬場から自宅に戻って、初七日のあと、夫の両親と家族だけで食事をして、ひと段落しました。無事にお役目を終えました。

4/19 全身筋肉痛のような疲労感で迎えた朝。おじのいた病院に会計のため伺うと看護師長さんが出てきてくれて入院中の様子などお話ししてくださいました。往診に来てくださっていた先生も、おじの最期を見送ってくださりご挨拶できたのがよかったです。

4/20 ひとりお疲れさま会をアフタヌーンティーにて。ほんと、私仕事をやめて、この終活対応のために全身全霊で頑張りすぎ( ´∀` )でも悔いなくおじを見送りました。まだまだこれからいろいろあるけど何とかなるの精神で。

4/22 おじの死後の手続きで年金事務所へ電話する。まずは本人の基礎年金番号を伝える。年金証書は見つからなかったので、年金支給額決定通知書を見ればOK。年金手帳なども在りかがわかるようなら確保しておくべき。

本人の氏名、生年月日、住所、年金の種類(厚生年金か国民年金か)、配偶者の氏名、生年月日、旧姓を口頭で伝える。

死亡届、未支給年金の請求、遺族厚生年金の請求手続きには、配偶者の戸籍謄本、配偶者のマイナンバー、介護保険証で要介護度、入所施設がわかれば、おばの直筆記載なくても代理で対応可能。手続きする人の本人確認書類は年金事務所へ持参すること。

届けに必要な書類は年金事務所から届くので、記載でき、準備ができるころには訪問日時を予約のうえ、年金事務所へ来所すること。

結構時間がかかったけど、社労士の勉強をしてたので、私は楽勝でした。過去の自分ありがとうw

4/22 なんか世の中騒がしいけどのまなやってられるかということでお出かけ

4/23 二日酔い

4/24 2号の高校で進学説明会。去年と同じ内容だぜ。大丈夫か?高校。。

4/26 断捨離を頑張る。

4/27 ピンクムーンの日。満月を見ると泣ける。

4/28 緊急事態のおかげで、1号は大学の授業がすべてオンラインに。機嫌を取るためにケーキを焼く。

4/30 知り合いの畑で作業のお手伝い。めっちゃ癒される

雑感

仕事をやめてしばらくだらだらできると思っていましたが、このぶっちぎり感です。まったく休めなかったわ^ー^;

おじはじつは余命宣告を1年以上前に受けていて、そのときにエンディングノートも渡していました。でもやっぱり自分で書くのは辛かったと思うし、病状がしんどくなるなかで、大変だったようです。本当に貴重な情報はきちんとまとめてくれていたので、死後の手続きはスムーズにできました。私が区役所や年金事務所はすべて回り、手続きを終えました。

もうめっちゃ長くなったので、5月以降は別の記事で。








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