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さよなら、カブくん

カブくんが死んでしまった。

長男の小学校で飼われていたカブトムシだ。

立派なツノを持ち、とても長生きだったので、学校では「キング」の異名をとっていたらしい。わが家では、親しみを込めてカブくんと呼んでいた。

息子はクラスの「いきもの係」なので、週末や夏休みなど学校が無人になるときには、ちょくちょくカブくんを家に連れてきた。

カブくんは年寄りなので、昼間はほとんど動かない。

でも、夜明けの時間帯、私が走りに出かけるときに何気なく見ると、活発に動いてカブトムシゼリーを食べたりしていた。

   *

私は虫が苦手だ。

「触ってみなよ、ほら。すごく力が強いんだよ」などと息子にカブくんを差し出されても、「いや、お母さんはいいよ」と1メートルくらい後ずさりしていた。

それでもこの夏、毎週のようにわが家に泊まりにくるカブくんを子どもたちと観察しているうちに、だんだん愛着が湧いてきた。

相変わらず触ることはできないけれど、「おお、カブくん今週も元気だったか。カブトムシホテルへようこそ」と声をかけるくらいには親近感を持っていた。

だけど今週、わが家に帰ってきたカブくんは、明らかに弱っていた。

大好きなゼリーもあまり食べないし、早朝もほとんど動かない。夫と子どもたちが遊びに出かけたあと、とうとうお腹を見せて引っくり返ったまま、起き上がれなくなってしまった。

「引っくり返ったまま、何時間も放っておくと、カブトムシは弱って死んじゃうんだ」といきもの係の息子は言っていた。

カブくんのケースの前に座って、私は生唾を飲み込んだ。

虫は苦手だ。

けれど母たるもの、息子の、息子たちの大切なともだちが死んでしまうのを、黙って眺めているわけにはいかない。

私は覚悟を決めた。

ゲージの蓋を開け、手を伸ばして、えいやっとカブトムシをつかむ。

カブくんは足をもぞもぞと動かした。

よかった。まだ生きている。

何だか泣きたいような気持で、私はカブくんの背中を上にしてそっと土の上に戻した。

それからしばらく経って、様子を見ると、またカブくんはお腹を上にして引っくり返っている。

もう姿勢を維持する体力がないことは明らかだった。

このまま静かに眠らせてあげたほうが、彼にとっては楽なのかもしれない。

でも、息子が帰ってくるまでどうしても生きていてほしいという身勝手で、私は何度でもカブくんを引っくり返した。

   *

それからひと晩、カブくんはがんばって生きた。

けれど翌朝、目が覚めて一番に長男がケースを確認したら、カブくんは静かに動かなくなっていた。

息子は黙って、大粒の涙をぽろぽろこぼした。

私が抱きしめると、彼は声を上げてわあわあ泣いた。

この春、新しい学校に転入したばかりの長男は、いきもの係に立候補して、虫たちの世話をすることで少しずつクラスに馴染み、学校に居場所を築いたふしがあった。

息子にとってカブくんは、1匹の虫であることを超えた、特別な存在だったのだと思う。

一般的なカブトムシの寿命よりもうんと長く生きたカブくんは、幼虫のころから人間に飼われていたから、一度も空を飛んだことがないし、広い世界を見たこともない。心ときめくメスとの出会いも経験していない。

その代わり、子どもたちの歓声と注目、愛情を一身に集めていた。

もの言わぬ彼の人生(カブトムシ生)が幸せなものだったのかどうか、私たちには判断することができない。

虫に愛着を持ったり、その死を悲しんだりするのも、すべて人間の身勝手で、カブくんにとっては迷惑千万、余計な感傷だったかもしれない。

それでも、カブくんが入っているケースの中を一生けんめい掃除したり、ゼリーをあげたり、なきがらを大切に撫でたりする子どもの気持ちが無意味なものだとは、私にはどうしても思えないのだ。

命を大切に思うということ、生き物がいつか死んでしまうということ、そのことによる喜怒哀楽を、カブくんは命をかけて、9歳の息子に教えてくれた。

   *

カブくんが死んでしまった。

金木犀の、むせるような甘い香りが街じゅうに満ちる朝だった。

今年の夏が終わり、そして、また新しい季節がやってくる。






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