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ネガティブな感情は感じきって手放す

ネガティブな感情を感じきる

ネガティブな感情は感じきって手放すといいよ、と心のことを学び始めた時に周りにいた人たちが言っていました。

わたしは40代終わりにさしかかるまで、感情に振り回されないことがよいと信じ込んでいました。なので怒りを抑えることなく爆発させる人や、すぐ泣く人は人として未熟なんだな、って普通に思っていて。

でも、いろいろなところで心のことを学びはじめ、自分の苦しさの源がこの考えにあったと知り、感情の中に本来の自分が存在していることを実感し、そこからあらゆることのものの見方、とらえ方、価値観などが変わりました。

感情を無視して生きている人は一見ポジティブです。前へ前へ、未来へ未来へ、希望、大丈夫!って。

そしてネガティブが嫌いです。怖いです。近づきたくないと思っています。なんだか足を少しでもネガティブに着けたら、そのままネガティブの底なし沼に引きずり込まれそうな、そうなったらこのままの快活な自分でいられなくなるような、気がするからです。

でも、ネガティブな感情を感じることを避けているかぎり、本当の自分の半分しか感じることができていないこともわかる。だから、勇気を奮って自分のネガティブな感情に向き合っていく、それが自分に対してオープンになる一歩となります。

ネガティブな感情を感じることを自分に許すようになると、今度は耽溺してしまうフェーズに入りました。

これは本当の自分のままで生きる、と決めて歩き出したという証拠でもあります。ポジティブな仮面でネガティブな部分を隠してきたので、その仮面をとって本来の自分と向き合っているということです。

とはいえネガティブにい続けるのは、その状態が現実に反映されていくので、やはり苦しいです。感情が豊かになり、いままでいかに世界をポジティブにかたよってみてきたかが分かり、人生を与えられることの深淵さを理解するようにはなるのですが、やはりつらいし苦しい。

そういうときに、ネガティブな感情を感じきって手放す、という言葉を聞きました。

この言葉で半分救われ、半分混乱しました。

そっか、今感じていることは間違っていなかったんだ。という安心で救われました。

いっぽう、感じきるってなに?手放すってどうしたら手放せたって言えるの?と疑問がわきました。

「手放す」とは

手放すというのは、その感情とか、それを感じる原因になった出来事とか相手とか、もっというとそういう感情が生まれるもととなった思考とか、その思考が生まれるパターンとか、そのパターンの起源となる出来事とか相手とか、そうしたものに心から感謝し、そしてそれらから卒業していくこと。


でも、この感謝して卒業する、がいまいちピンとこない。

これってめちゃくちゃ感覚のことなので、人によってその感覚をどう言語化するかがぜんぜん違ってきます。どうとらえるかも。


そして正しい方法とかがあるわけでもない。むしろ正しさを追っているかぎり感謝して手放すはできないと思います。

一つ言えるとしたら、とにかくネガティブな感情がやってくるならやってくるに任せ、それを感じることから逃げない。そしてそのネガティブな感情そのものと、それを感じている自分を認める。悲しいね、くやしいね、頭に来るよね、それでいいんだよ、あなたはそう感じているんだねって。

それを逃げずにずっと感じていると、底をつくようにネガティブな感情が蒸発するように消えて変わりに感謝が勝手にあふれてくる。少なくとも私に起きた時はそうでした。

でもって、一度これが起きればすべてのネガティブを手放せるかというと残念ながらそうではなく、また別の場面でまた別の感情はやってくるのです。

最近この手放すについて別の言語化でしっくりきたものがあります。

神にささげる、という言葉です。

感情を神に捧げる

神の部分は宇宙とか源とか、なんでもいいのです。

神=自分なわけですが、じゃあ神である自分はなんのためにこの自我を利用して今生を「私」として生きているのか。

それは体験するため。感情を感じるためです。

神=私にとって感情にネガティブもポジティブもありません。ただ、心が動くことが面白い体験なのです。すべてが思った瞬間に手に入る神として存在する私は感情が動くことがありません。必要なら存在するし不要なら消える。なんのストレスもなければ希望すらない。ただただフラットに平穏に存在している。それが神、真我、宇宙なわけです。

だから感情が波立つよういろいろなしかけとして制限のある三次元が作られ、そこに自我という個として、いわば人生ゲームのコマのようなものとして私たちは生まれてきて、そのゲームで感情というものを味わっている。

神に捧げる、といったとき、「よいもの」を捧げるものだとなんとなく思いませんか?でもあらゆる感情が神の大好物なのです。誰がそれを感じたがっているか、誰がそれを感じるように世界を作っているかというと神です。

だから、わたしたちゲームのコマは、感情をしっかり感じたら大元である主にそれを返せばいい。それが捧げるです。はい、この感情を体験しましたよ、あなたがこれを楽しめるようあなたに返します。この感情は神様、あなたのものです。

私は今とても悲しいです。この悲しいという感情をあなたに捧げます。

これでいい。

これはただし、喜びなどのポジティブな感情すら、捧げるということも含みます。

幸せ、満たされた気持ち、喜び。こうしたものも神様が感じるために設定し、それをわたしたちが感じているのです。都合のよいものだけ手元に残しておくことはできません。

すべてが神様のもの。だからネガティブな感情を捧げるという形で手放せるのです。すべてということは、ポジティブな感情も神様のものなのです。

これをしたからといって、感情を感じなくなるわけではありません。喜びが奪われるわけでもありません。

歓びをもたらすものへの執着がなくなります。それもまた神のもの、捧げるものなのですから。しかも、捧げる相手はどうせ自分なのです。

こんな風に言語化ができたことで、たとえば不安を胸から取り出して光に放つイメージング法なども、同じことを別の言い方、やり方で行っているのだと分かりました。

ネガティブな感情は、そこに手放せるものがある、捧げるものがある、神様=自分とつながる道がある、ということを教えてくれています。

あらゆる出来事が感情を生むための装置であり、感情を通して私たちは神である自分を知っていく。そういう仕組みなのだと思います。



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