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2022年、45歳を書き残す。

2022年も、残すところあと僅か。毎年のことながら、今年も仕事納めもないまま年明けを迎えそう。頼っていただけるのは、とても有り難いこと。今年も感謝の気持ちで年を納めたい。

そんな慌ただしい中ではあるけれど、今年はいろんなことが起き、自分自身にもたくさん変化を感じた年でもあったから、それらを書き残しておきたくて、仕事の合間を縫って筆を進めている。

2022年は、年始から怒涛の日々だった。2021年末に、ある自治体の取材プロジェクトの話が持ち上がり、年明けからそのディレクションを兼ねて参画。

この仕事を始めてから、密かにいつか自治体のお仕事をしたいなと思っていたから、その夢が叶ったともいえる。途中、いろんなトラブルがあったものの、大きなトラブルに発展することもなく、無事にプロジェクトが終了。

怒涛の日々も落ち着くかと思われた矢先のこと。プロジェクトの終わりに重なるように、母の病気が発覚した。いくつかの検査を重ねて、最終的に診断されたのは、肺がんの末期。このときにはすでに「そうだろうな」と予想していたため、驚きは全くなかった。むしろ、これからどうしていくかを冷静に考えていたのを覚えている。

結局、診断されてから約3カ月で母はその人生を終えた。とても静かな幕引きだった。主治医からは苦しむかもしれないと聞いていたから、実際はそれとは真逆だったことにほっとしたものだった。

それからは、一人っ子の大変さを味わいつつ、母の人生の後片付け。葬儀の手配やら、暮らしていたマンションの解約やら。生きていた痕跡が、徐々に徐々に消えていく。冷静にその状況に対応しつつも、やはり寂しいものがあった。

母とはいろいろあったから、亡くなっても大して寂しさを感じないのではと思っていた。けれど、改めて考えてみれば、自分にとっての親はもう母しか残っていなかったと気づいて、自分が真っ暗の中にぽつんと佇んでいるような気持ちになった。

私にはきょうだいがいない。いや、いるにはいるが、事情が少々複雑なので、頼るという頭が端からなかった。家族は、結婚して夫と娘ができたが、母とはまた別のコミュニティという感覚のほうが強い。

母側のコミュニティでいえば、育ての母でもあった祖母は20数年前に他界。子どものころにしばらく一緒に暮らしていた養父もとっくに亡くなっている。実父は、私が幼少期に亡くなっているし、写真で顔を見たことがある程度で、一度も一緒に暮らしたこともなければ、会ったことすらないから、思い出せるものが何もない。近所には母の妹の叔母と従姉が暮らしているが、それもやっぱり違うコミュニティにいる人たちという感覚のほうが強い。

夫も娘も叔母も従姉もいて独りではないはずなのに、どうしてか「自分にはもう誰もいないんだな」と思った。孤独感。それは、今でも時々ふとしたときに感じている。

たぶん、この孤独感は、いずれは抱えるはずだったもの。そう思えば、予想していたより早く自分のもとに来ただけのこと。さすがに45歳にもなれば、親の老いも当たり前のように感じるから、今の状況も納得していないわけじゃない。それは、ちゃんと肚落ちしている。

それでも、やはり思うことはいろいろあるもので、母が遺したものの片付けを進める中で気持ちの整理をしていった。母に対して持っていたさまざまな感情だけでなく、自分の中にあった甘えや依存、執着といったものについても整理せざるをえなかった。

旧友は20歳間近で母親を亡くしてから、かなりの依存体質になった。人への依存と執着。私は45歳という年齢で母親を亡くしたけれど、ようやく少し彼女の本当の寂しさというものを理解できたような気がする。

甘えたいのに甘えられる相手がいない。

私は親に甘えさせてもらった記憶がない。けれど、その存在に甘えていたんだなと、母が亡くなってから気づいた。腹立たしさや憎らしさを感じながらも、《帰れる場所》として無自覚に母親に甘えていたんだと思う。

それがなくなったことで、私は甘える場所、帰る場所がなくなったと感じたんじゃないかと今は思う。だからこそ、自分が唯一心を許せる存在が、ある種、唯一の《帰れる場所》になってしまったような気がした。

とはいえ、母が亡くなったことについて、私は寂しさを感じつつも未だ泣いたことがない。泣くのを我慢しているわけでもないが、泣きたい気持ちがぐぐっと胸を押し上げても、何かがつかえてそれ以上出てこない、出ていかない。もともと弱さを見せることが苦手ということも関係しているのだろう。

ただ、それも、自分ではここ数年の『手放す』というテーマの中で、ずいぶんと手放れさせてきたつもりでいた。けれど、いざ最後の試練ではないが、究極の場面に来ても泣けなかった。泣いてたまるかではなく、ここでは泣けないという感覚に襲われる。そこでようやく、自分の中で手放しきれていないものに気づいた。

それを自覚して、それでも自分の足で立つことを意識して過ごしていたら、不思議なことが起きた。

スピリチュアルなことにはあまり興味はないが、本当にご縁というものは不思議なものだなと感じた。

私はずっと『人や物事の出逢いは、出逢うべきタイミングで起こるもの』と考えている。それと合わせて『意味のない出逢いはない』とも考えている。だから、誰かや何かとの縁が切れても、それが本当に必要な縁なら、必要になったいつかのタイミングでまた自然と繋がることもあるだろうとも思っている。

それを踏まえても、二度と交わることがないだろうなと思うことはある。そう思っていても、何かの拍子に繋がることは、やはりあるようだ。何十年と連絡を取らず、お互いに居場所も知らず、人づてに何をしているのか聞くことはあっても詳しいことは一切知らず、そんなふうに過ごしていても。無理に探すでもなく、ふとしたときに出逢う。これぞ、縁だなぁと思う。

もしかしたら、相手にとっては望まざる縁だったかもしれない。私にとっても望んでいたかと言われれば微妙なところではあるけれど、それは自分の行いの結果でもあるから、相手のせいでは何一つない。元気で幸せであれば十分、笑って過ごしてくれていたら十分。もしも、この先また何らかのタイミングでご縁が繋がることがあるのなら、それはそれで見えない未来の中で見出せる楽しみの一つになる。

そんな幸運がもしもあったときには、できるなら自立した自分を見せられたら最高、そんなふうに思っていたから、タイミングにもとても驚いた。少しでも時間が早ければ、そうはいかなかっただろうから。困らせるつもりなど全くないのに、困らせていたかもしれない。心の堰をその存在だけで壊せる相手というのは、とても厄介だ(笑)。強い自立心がなければ、途端に子どもに戻ってしまう。それが簡単に想像できてしまうから、「今でよかった」と思ったのが正直なところ。

実際に顔を会わせてはいないけれど、この再びのご縁がお互いに何をもたらすのかはわからない。ただ、感じているのは、いままさに私の自立心や依存心、執着心なるものが試されているんだなということ。

もちろん、それは相手が私に課したものではないのはわかっているし、そんな意地悪ができる人でないのもわかっている。愛情深い人だから、これは潜在意識の私が顕在意識の私に課した試練なのだろうと受け止めている。

「それで、お前は成長したのか?」と(笑)。

そんなわけで、私のこの2022年は、2021年に引き続き『手放す』年でもあり、その集大成のような一年になった。いま、こうして書いていても、まだまだ自分は成長途中だと思えてならない。いつになれば、大人になれるのでしょうか(笑)。

そんな一年だったとも思いつつも、愛を受け取る一年でもあったなとも思う。

母の体調が悪くなり、仕事もままならなくなっても「支え合いですよ」と励ましてくれたビジネスパートナーさんたちの存在。母の病気を知って、わざわざ東京から駆けつけてくれた従兄。訃報を伝えるために連絡した母の長年の友人たちからの励ましの言葉。遠く離れた場所にいても、気にかけてくれていた人の存在。

愛というと陳腐に聞こえるけど、私にとってはまさしく皆さんの愛を感じるものだった。

支えてださった感謝を、少しずつでも返していけたらと思う。たとえそれが直接的な支えにならなかったとしても、愛を贈れる人であれたらと思う。

◇ ◇ ◇

振り返れば、皆さんのおかげで本当に幸せな一年になりました。
本当に、本当にありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。

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