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デリカシーのないパートナーにウンザリしているあなたへ

この投稿は、ある意味で自分自身に対するものでもあるのですが、デリカシーのないパートナーに辟易してるという方は多いのではないでしょうか。

うちの夫も「なんでそういうことを平然と(むしろ楽しそうに)言えるの?」と思うほど、デリカシーがありません。笑

結婚して20年になりますが、「この人、デリカシーがないな」と気づいたのは結婚してからのこと。交際中は、全くそんなことはなく、素振りさえなかったので、気づきもせず。まぁ、気づいていたら、結婚していなかったでしょうけれど。そんなふうに、結婚してからでしかわからないこともあります。

それはさておき、デリカシーのない人は、どうしてあれほどまでに他人に対して無遠慮に無神経な言葉をかけられるのか。その要因には、生育環境、人間関係、社会生活、心の問題……などが挙げられるのではないかと思います。

デリカシーが育たない生育環境

デリカシーがない人というのは、他人の感情(心)に無頓着です。それは、無頓着でいられた環境に身を置いてきたことの証ともいえます。

たいてい私たちは、子どもの頃には良いも悪いもわからずに、思ったことをそのまま口にしていました。それも、自分の知っている範囲の言葉で。

その言葉をどこで学んだものであれ、場に相応しくなかったり、相手を傷つけるものであったり、自分を貶めたりするようなものであれば、注意を受けます。相手が親であることもあれば、保育園や幼稚園、あるいは学校の先生、友だちなど、身の回りにいる誰かから教えられます。

「そんなことを言ったら傷つくよ」
「そんなことを言われたら悲しいよ」

そういう経験を繰り返して、私たちは、他者に対してどんな言葉を使えばいいのかを学んでいきます。時には、自分自身の心を傷めたりしながら。そうして、やがて他者に配慮した物言いができるようになるわけです。

ところが、デリカシーのない人は、そういった経験が極端に少なかったり、経験しても学ばなかったりして、他者に対する配慮や遠慮がわからないまま成長している人です。

子ども時代に注意を受ける機会がなかったり、注意を受けても注意の意図がわからないままになっていたり。そうした経験の積み重ねの末、デリカシーというものが何なのか、それ自体がわからなくなっているのです。

デリカシーが育たない人間関係

他者への思いやりを学んでいないため、デリカシーのない人の周りには、デリカシーのない人が集まりやすい傾向があります。

良い意味では、裏表のない正直な人ばかりが揃うわけですが、誰もが相手の言動に鈍感なため、それが当たり前の世界となって、やがて違う世界に飛び出したときに『デリカシーのない人』になってしまうのです。

それまで善しとされてきたことが、違うコミュニティでは悪と捉えられるため、居心地が悪くなって、結局また同じようなタイプの人たちで集まってしまうようになります。これが繰り返されると、遠慮や配慮といったものからどんどん遠ざかってしまうため、デリカシーのなさに無自覚になり、デリカシーのない自分を肯定してしまうようになります。

デリカシーが育たない社会生活

子どもの頃や学生時代はまだ、お互いに言いたいことを言えたり、家族や近しい人から忠告を受けやすい環境です。しかし、一度社会に出れば、親のように友人のように親身になって注意を促してくれる人は、ほぼいません。

働き出せば、相手への配慮は社会人としてできて当然と捉えられているため、デリカシーのない人だと思われれば、周りからも疎まれることも出てきます。入社して間もないような若い人であれば、先輩や上司から注意される機会はあっても、それは仕事上必要な注意に留まることも多く、デリカシーのない人が「自分にはデリカシーがないのか」と気づけるほどの効力を発揮しないこともあります。

そうやって社歴や、社会人としての経験年数を重ねていくうちに、デリカシーのなさを注意される機会はどんどん失われていき、やがて若い人たちから面倒な先輩、一言余計な上司といった目で見られるようになるのです。

デリカシーが育たない心の問題

デリカシーが育たない問題には、病気によるものと、心の有り様によるものがあります。

病気でデリカシーが育ちにくい人の場合は、まず病気について理解をしてもらえれば、デリカシーのない発言にも寛容に受け止めてもらいやすくなります。また、こうした人の場合、自分でもデリカシーのなさについて悩んでいることも少なくないため、理解者を作ることも、問題への対処法としては最適解の一つとなるでしょう。

一方、心の有り様が問題となっている場合では、その解決は一筋縄ではいきません。心の問題は、これが問題!というように一つだけに留まっていないことが多いからです。

そもそもデリカシーのない人には、裏表がなく、細かいことを気にしない大らかな性格という長所があります。ですが、大らかといっても、限度があります。他者を傷つけても、それにさえ気づいていないような大らかさは、人間関係を育む上で弊害になりかねません。

ですから、デリカシーのない人は、まず配慮とは何かということを知ることが大切になります。それでも、デリカシーのない言動が繰り返される場合、そこにはその人自身が抱える心の問題が隠されています。

そうした人の場合、どれだけ「そういう言い方はやめてほしい」と訴えたところで、あまり効果はありません。デリカシーのない言動は、ある種の自己防衛でもあるからです。

自分に自信がないことを隠すための虚勢

デリカシーのない人を男女で比べた場合、多くの人が思い浮かべるのが女性よりも男性のほうではないでしょうか。

女性は、幼い頃から比較的他者への配慮を促されて育ちます。そのため、よほどわがまま放題に育った人や、病気を抱えている人でない限りは、多少の差はあっても男性に比べて他者への配慮に長けた人が多い傾向にあります。

これが男性の場合、よほど親や近しい人から口酸っぱく言われ、本人自身も痛い目を見ていない限りは、他者への配慮が薄くなりやすいところがあります。その背景には、男性特有ともいってもいいかもしれない、自信やプライドといったものが関係しています。

男性は、女性よりも圧倒的な競争社会にいます。それも小さな頃から。そうした環境が当たり前であればあるほど、「負けられない」「負けたら終わり」のような精神が育まれます。

さらに、本能的にも、男性は自分の種を残したいという考えを持っています。種を残せるのは強いオスという刷り込みがあるため、自信がない自分をついつい隠しがちです。これが虚勢となり、マウントを取るような言動を引き起こしたりします。

自分が一番。高すぎる自己愛

これも自信のなさの現れの一つではあるのですが、何においても自分が一番でなければ気がすまない、あるいは常に自分が優先されていなければ気がすまないという人も、デリカシーのない言動をしがちです。

デリカシーのない言葉で相手を下に見ることによって、自分の優位性を示そうとするからです。そうまでして優位性を示したいのは、自分には誇れるところがないと自分自身で捉えているからかもしれません。

自分に誇りを持っている人は、わざわざ他者を貶めようなどとは考えません。そんなことをせずとも、自分には価値があると思えているからです。しかし、誰かから崇めてもらわなければ自分の価値を認められないような人は、自分を持ち上げてくれる人を無意識のうちに求めます。

誰彼なしにデリカシーのない言動をしている人よりも、相手を選んで発言している人のほうが質が悪いともいえます。

相手をこけ落とすのがやめられない快楽主義

なんともサイコパス味を感じますが、デリカシーのない人の中には、わざとデリカシーのない言動を取っている人もいます。こう言えば、こう返ってくるだろうと計算して行うわけです。

それがコミュニケーションとして相互理解に役立っているのならいいのですが、独りよがりな快楽のためにわざと相手を傷つけるのは、決して良いコミュニケーションとはいえません。

こうしたことを楽しむ人というのは、そもそも他者への関心が全くなく、それどころか、他者を一人の人間として認識すらしていません。自分の玩具の一つのように捉えているのです。つまり「自分が楽しいければ、相手の感情などどうでもいい」という鬼畜です。

こうしたタイプは、相手が嫌がれば嫌がるほど、快楽を覚えていくので、早急に離れたほうがいいといえます。

愛され不安の確かめ行動

サイコパスなデリカシーなしさんも相当に面倒な相手ですが、こちらも厄介です。自分がパートナーから愛されているか不安を抱えていて、その不安を解消するためにデリカシーのない言動で相手の愛情を図ろうとする試し行動は、不安が解消され尽くすまで際限なく行われるからです。

そもそもとして、愛されていないかもしれないという不安がどこから来ているのか。その根本的な問題に目を向けない限り、この試し行動を繰り返しても、何も解決しません。ところが、自分への自信のなさや、傷つきたくないという自己防衛の気持ちが強くありすぎると、自分の闇を見つめる勇気が持てず、自分の不安を満足させることに躍起になり、本来解決すべきことが置き去られたままになるのです。

デリカシーのない発言を許してもらえるたびに安心感が得られても、根本的解決が図られていないため、何かとすぐに不安が膨らみます。しかも、その不安が自分で作り出しているものなら、無限に湧いてきます。そのたびにパートナーに確かめようとするので、どんどんパートナーが疲弊していくという悪循環に陥ります。その結果、パートナーから愛されなくなる、なんてことも。

愛されたいのに、愛を遠ざけていく。こんな悲しいことはありません。

デリカシーのないパートナーへの対処法

育ちや環境に起因して、無自覚なデリカシーなしさんであれば、時間はかかりますが、何度も「そう言われたら悲しい」「そういう言い方よりも、こう言ってほしい」と伝え続けることで改善は見込めます。

しかし、心の問題に起因してデリカシーなしさんになっている場合は、自分にデリカシーがないと自覚しても改善が見込めないこともあります。

特にサイコパス味の強い人の場合は、スルーすることで多少の改善は見込める可能性はありますが、もともとの気質が『いじめることに快感を覚える』ですから、違う手法に切り替わる可能性は十分に考えられます。

愛され不安によるデリカシーなしさんの場合、ただ単に愛情を注げばいいというものではなく、不安の根本が何かがわからなければ、パートナーが尽くすばかりになってしまいます。これでは、結局試し行動に振り回されるのと同じように、疲れ果ててしまいかねません。

しかし、それでも「嫌なものは嫌」と言い続けなければ、それこそ今度はパートナー自身が自分の感情に鈍くなってしまいます。

傷つけられる言葉をかけられて、ずっと平気でいられる人はいません。もう慣れたからと、傷ついた心を見て見ぬふりをし続けるのもおすすめしません。そうした我慢は、いつかどこかで無理が来ます。

本来、パートナーというのは、支え合う相手です。傷つけるためにいるわけでも、傷つけられるためにいるわけでもありません。

つらいなと少しでも思うなら、誰かに相談してください。それも、できれば、専門的な知識を持つ方のほうがいいでしょう。

自分一人でなんとかしたいと考えているのであれば、それ相応の労力と覚悟が必要です。

必ずしも心の問題の解決に寄り添わなければならないわけでもありません。自分の心が悲鳴を上げているなと思うのなら、距離を取ってもいいのです。結婚されている方であれば、別居をしたり、離婚をしたりしてもいいのです。

あなたの人生は、パートナーのためにだけあるのではありません。自分の幸せとは何かを、まずは追求してください。そのうえで、パートナーの心の問題に寄り添いたいと思うなら、きっと今より素敵な未来が待っているはずです。

もしも、離れることを決意された方がいらしたら、私はこうお伝えしたいです。「罪悪感を覚える必要はない」と。お相手を見捨てるような心持ちになっているのなら、それは違うと思います。

あなたはパートナーであって、親ではないのです。それに、心の問題に向き合うのは、本人の問題です。どれだけ伝えても変わる気がないということは、問題から目を背けているのと同じです。言い換えれば、あなたとのパートナーシップを改善する気がないということでもあるのです。

自分を幸せにできるのは、自分の選択だけです。
どうか、より幸福な未来に踏み出されますように。

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