「噺家は高座で謎を語る〜落語推理譚」

あらすじ


 刑事である檜垣諒は深夜の高速バスで高校時代の同級生と偶然再会する。和服姿の彼は今は噺家=落語家・明淡亭斜六をやっているのだという。
 二人が会話していると突如銃を持った男がバスジャックを行った。男は「自分の仲間が他にもこの車内にいる」と宣言。それが誰だかわからなければ手を出すことができない。
 恐怖で泣き出す子供。怒ってそれに銃を突きつける犯人。そんな中、斜六が突然車内で落語を語り出す。
 恐怖に泣く子供も笑い出すほどの見事な語りと共に、彼は諒に仲間を見つける方法まで落語で伝えてしまう。諒はそれを見抜き犯人を確保。バスジャック事件は解決する。刑事と噺家、奇妙なバディの誕生した瞬間だった。

本文

「えー、おおぜいのお運び……とは言いがたいですね、残念ながら。それに皆さん、落語を見よう噺を聞いてやろうって空気じゃない。当たり前と言えば当たり前ですな。あたしだってこんなところで落語やったことなんてないですよ。

 なにしろここは高速道路をひた走るバスの中。ガタガタガタガタ揺れて尻が痛いったらない。その上バスジャック犯さんが隣でこわ~い顔で睨んでます。勘弁していただきたいですね、ほんと……。

 文句を言ったって始めちまったもんは仕方ない。とりあえずお決まりで名乗らせていただきますと、あたしは明淡亭斜六と申します。明るい、淡い、料亭の亭で「めいたんてい」、斜めに六つと書きまして「しゃろく」。名前だけでも覚えて帰っていただければと……まあ、今日のお客様は一生忘れようったって忘れられないこと請け合いでしょうがね。

 さて、こんなときでもあたしら噺家ができることといえば、バカバカしい噺をバカバカしく話すだけなんでございまして、そんな気にはなれないかもしれませんが、一席お付き合いを願っておきます。ある長屋に若い衆が集まりまして、特にやることもなくバカっ話をしております。そこへ駆け込んできたのが――」

         ○

まくら1

 窓の外を夜景が通り過ぎていく。
 それと重なるように、疲れた自分の顔が映り、檜垣諒(ひがき・りょう)はため息混じりに窓から顔を背けた。
 久しぶりにもらった休暇を自主返上して、名古屋まで出張って成果はなし。今年の春から追い続けている半グレメンバーの新たな手がかりはいっさい増えなかった。
 ギリギリまで粘ろうとして、結局粘りすぎて新幹線を逃し、日付が変わってから高速バスで帰る羽目になってしまった。
(阿澄さんに笑われるな……)
 相棒でもある先輩刑事の笑い顔が今から目に浮かぶ。
 笑われるだけならまだいいが、このままでは明日の仕事に支障が出る。少し寝ておいたほうがいいだろう。
 そう思い、諒はシートを倒すレバーに手を伸ばす。
「あれ、お前、檜垣か?」
 と、そこで声をかけられた。
 通路を挟んだ隣の席からだ。ついさっき温泉街近くの高速バス停留所で乗り込んできた男である。
 こんな夜中に、と言うのと、諒と同じ三十歳くらいなのに和服姿というのとで少し目を惹いたが、それだけだった。
 その和服の男が話しかけてきた。しかも諒の名前を知っている。
「えっと、誰ですか?」
 やや警戒して問う諒に、男は苦笑して答える。
「沢渡だよ、沢渡竜也。高校のとき同じクラス」
 名乗った苗字と顔が合わさって急速に記憶を蘇らせた。
 沢渡竜也(さわたり・たつや)。高校三年生のときの同級生だ。諒とはほとんど絡みがなかったが、よく憶えている。
 諒は当時から警察官を志望していたが、大学には進学するつもりで、受験勉強をコツコツやっていた。
 一方沢渡はアイドルになるとかで、すでにどこだかの芸能事務所に所属しており、卒業と同時にデビューすることが決まっていた。
 住む世界が違う、と当時から諒は思っていた。
 クラスメイトが芸能人になるというのだから最初は少し気になった。テレビでデビュー曲を歌う姿を見て意味もなく嬉しくなり、大学で話のネタにしたこともあった。しかしすぐに学生生活と警察官になるための試験対策に押し流され、彼のことは意識から消えていった。
「……悪い。もしかして人違いか?」
 申し訳なさそうに言われて、諒は自分が考え込んでいたことに気づく。
「あ、いや、合ってるよ、うん」
 慌てて頷く。
「ずいぶん雰囲気が違ったから。アイドルの仕事帰り……なの?」
 探るように問う。
 整った顔立ちは相変わらずで、アイドルを続けていると言われても不思議はない。
 しかしアイドルが一人で高速バスで移動というのは違和感があるし、和服を着ているのも妙な気がした。
 諒の懸念どおり、沢渡は苦笑しながら言ってくる。
「あー、仕事帰りは合ってるけど、いまはアイドルやってねーんだ」
 やっぱりか、と納得すると同時に諒は気まずさを覚えた。
 アイドルなんて人気になれるのはごく一部だろうし、長く続けることも難しいはずだ。目の前の元同級生も、華々しくデビューしたはいいものの、なかなか芽が出なかったのだろう。そして後が続かず引退することになった――。
 気まずい。そんな相手にどんな言葉をかければいいのか、諒は思いつかない。そういうところがお前は頭が固い、だから聞き込みが下手なんだと、先輩刑事の声が脳内再生される。
「えっと、いまは何してるの?」
 なんとかそれだけ問う諒に、元アイドルは和服の襟をつまんで見せながら言ってくる。
「噺家だ」
「ハナシカ」
 聞きなれない言葉。片言の英語みたいな発音で繰り返してしまった。
「落語家だよ、落語家。毎度バカバカしいお噺を一席ってやつだ」
「あ、あー」
 ようやく理解が及んで頷くものの、諒はまだピンときていなかった。アイドル以上に馴染みのない職種だった。
 落語といえばおじさんが座布団に座って語る古臭い笑い話くらいのイメージしかない。ぼんやりとタイトルを知ってるものはいくつかあるが、どんな話なのか正確には知らないし、ましてや直接見たり聞いたりしたことなど一度もない。
 落語家、という人種ならテレビで見たことがある。日曜日の夜にやっている番組でお題に答えて、座布団を取ったり取られたりしている人たちだ。でもあれは落語ではないだろう。
 あの番組に出ている人たちも落語を話すのだろうけど、どこに行けばそれを見られるのかすら檜垣は知らない。
 なんにしろ、年配の人の趣味で、自分とは関係ないものだ。
 そんな落語と目の前の元同級生が結びつかない。
「信じらんねえって顔してるな。今だってそこの温泉街のホテルで一席やってきたとこだぜ」
「へえ」
 そういえば地方の旅館なんかはお笑い芸人が呼ばれてショーをやっているイメージがある。落語家も同じような感じで仕事をしているのか。
「え、でも、こんな遅くまで?」
 諒はそのことに気づいて驚きの声をあげる。
 さっき沢渡がバスに乗り込んできたときには一時を回っていた。移動を考えても、けっこうな時間まで落語をやっていたことになる。客が来るのだろうか。
「ああ、いや、そのあと主催者に誘われて二、三時間呑んでたんだけどな。あれ、四時間くらいだったかな?」
 なんだ、と諒は息をつく。とたんに彼への興味が失われていくのを感じた。
 自分は休日を返上して朝から晩まで歩き回ってへとへとだというのに、目の前の男は座布団の上でバカ話をしてから酒を飲んでいたという。
 噺家などと言ったって、どうせアイドルで食えなくなったから仕方なくやっているのだろう。
 目の前の男の生き方まで勝手に想像して腹立たしくなってくる。
 諒はさっさとこの会話を打ち切りたくなってきた。元々、大して交流のあった同級生ではない。積もる話なんてないのだ。
「ところでお前は? 確か警官になったんだよな」
 沢渡がこちらの話を振ってきた。ちょうどいい。
 そうなんだ、今日は一日中出張捜査してクタクタで、明日も仕事だから仮眠したいんだ。そう答えてさっさとシートを倒して寝てしまおう。今からでもまだ四時間は寝られる。
 そう思ったが、残念ながらその機会は、次の瞬間響き渡った怒声によって永久に失われてしまった。

         ○

まくら2

 少し前から気になってはいた。
 最前列に近い席で乗客同士が話をしていた。パーカーのフードを頭に被った男と、スーツを着たサラリーマン風の男だ。
 サラリーマンが通路を挟んで隣に座るパーカーの男に話しかけた。ちょうど、さっき沢渡が諒に話しかけてきたのと同じような感じである。
 旅行の連れではないようだし、諒と沢渡のように偶然会った知り合いというわけでもなさそうだった。
 サラリーマンのほうからパーカーの男に話しかけている様子だ。パーカーの男はそれに面倒くさそうに対応しているが、サラリーマンは話しかけるのをやめない。それも、なにかを見咎めて注意しているような――。

「全員動くんじゃねえ!」

 パーカーの男は突然立ち上がると腕を振り上げた。
 その手には黒光りする重厚な物体――拳銃が握られている。
 諒はとっさに腰を浮かせた。染みついた刑事の本能だ。通路を一気に突っ切ってパーカー男の腕に打撃を与え拳銃を落とす。
 ……と、そこまで考えたが、実行することはできなかった。
「なにしてるんだ。そんなおもちゃ、早くしまえと言っているだろう!」
 サラリーマンが怒鳴りながら立ち上がり、通路に身を乗り出す。どうやら彼はパーカー男が持っていたそれを見咎め、話しかけていたらしい。
 これではサラリーマンが邪魔で、パーカー男のところまでたどり着けない。
(どうする?)
 今日は休暇扱い。拳銃はおろか、刑事の身分を示すものはなにも持っていない。諒は少し腕が立つだけの一般人と変わらない状態だ。
「おもちゃじゃねえよ!」
 パーカー男がサラリーマンに怒鳴り返した次の瞬間――。

 轟音が響き渡った。

 耳が壊れたように、世界が静寂に満たされる。
 パーカー男が持つ拳銃の銃口から煙が立ち上っていた。バスの天井には穴が空いている。
「ひ、ひいい!」
 サラリーマンがひっくり返るように自分の座席に戻った。
「本物だ。わかったな。動くんじゃねえよ」
 パーカー男はやや上擦った声で言った。彼自身も銃を撃つことなど想定していなかったのかもしれない。
 彼はすぐに腕を下ろして銃口をサラリーマンに向けながら、運転席の方へ告げる。
「運転手、余計なことはするなよ。通報ボタンなんか押すな。外の表示をSOSに切り替えるのもやめろ。もしなにか対策したことがわかったら乗客を殺す。このまま走り続けろ」
 運転手がどう答えたかは諒からはわからなかったが、バスは速度を落とすことなく走り続ける。
 サラリーマンが座って通路が開いた。今ならパーカー男のところまで走れる。危険だが、犠牲者が出る前になんとかしなければ。
 諒は今度こそ駆け出そうとしたが、パーカー男の言葉に動きを止める。
「いいか! ここにはもう一人、俺の仲間がいる。おかしなことをしたらそいつも銃をぶっ放すかもしれない。よけいなことは考えずおとなしくしてな」
 仲間? 諒は車内を見回す。誰がそうなのか、一見してわかるような乗客は見当たらなかった。
 不穏なざわめきが車内に広がりかける。
 だが、すぐにパーカー男の声がそれを止めた。
「黙れ! 口を開くな! 相談なんかするんじゃねえぞ」
 パーカー男はそこで、急にニヤリと笑みを浮かべた。
「ああ、そうだそうだ。この中に刑事がいることもわかってるからな。民間人を巻き込みたくなけりゃ、変なことは考えるなよ」
 諒は息を呑む。
 自分が刑事だとバレている。行動を起こすのは危険すぎる。
 いつバレた? さっき沢渡が「警官になったんだよな」と言ったのを聞いていたとは思えない。パーカー男のところまで届くような声量ではなかった。それに、もし聞こえていたとしても、刑事とまで断定するのはおかしい。
 だとすればあとは、相手が諒のことを知っていたとしか考えられない。
(でもどうして……)
 その疑問はすぐに解消された。
「さてと」
 パーカー男が被っていたフードを脱ぎ去った。
「まずは全員スマホを出してもらおうか」
 顔があらわになる。檜垣は思わず声を上げそうになった。
 それは諒が休日を返上して一日手がかりを探し続けていた、半グレメンバーの顔だった。

         ○

まくら3

 一年ほど前から、諒が勤める警視庁烏山署の管内で危険ドラッグが出回っていた。
 元を辿るとそれは新宿駅周辺の半グレ組織が出所で、さらには原料がインドから名古屋港に持ち込まれたものであることがわかった。
 現在、危険ドラッグの規制はかなり厳しくなっていて、新宿の組織は新宿署と厚生労働省の麻薬取締官の合同捜査であっという間に検挙された。
 その様子はニュースでも流れ、世間的にはこの事件はもう終わったものと思われている。
 しかし烏山署管内に危険ドラッグを流した人物については行方がわからず、引き続き捜査が行われた。
 その結果浮かび上がったのが、たった今檜垣の目の前でハイジャックを決行中のパーカー男だった。
 戸村耕平、二十五歳。
 烏山のアパートに部屋があったが、新宿の半グレ組織が検挙されたのと同時期に行方をくらませていた。
 出身は愛知県名古屋市。アパートの大家の話によると、戸村は大学生のころから住んでいたが、卒業後はどこかに就職した様子もなくフラフラして、頻繁に留守にするようになった。
 一度どこに行っているのか聞いてみたところ「名古屋の実家に帰っている」とのことだったという。「実家から仕送りがあるから家賃は心配するな」とも言われたらしい。しかし……。
 諒は今日――もう昨日になる――名古屋にある戸村の実家に行って話を聞いた。すると、戸村はここ数年実家に来ていないし、両親から仕送りもしていない、という返事が返ってきた。
 戸村の東京での生活を支えていたのは半グレとしての活動だろう。
 ただ、危険ドラッグは規制が厳しくなり、すでに半グレの間でも取り扱われなくなってきている。先日も名古屋港から高速道路経由で――まさに今諒たちが乗っているバスと同じルートだ――東京に危険ドラッグが持ち込まれる可能性があるとかで諏訪市のあたりで検問が行われたが、けっきょく成果はなかったらしい。
 諒はその後、戸村の出身校や昔の友人のところへ行き話を聞いたが、めぼしい手がかりは得られなかった。
 徒労で終わるはずだった休日の出張がこんな形で身を結ぶとは思わなかった。しかしこれが戸村の確保につながるか、大惨事で終わるかはまだわからない。

 戸村は全員からスマートフォンやタブレットを集め、運転席後ろの荷物置き場にまとめて置いた。特にチェックする様子はないので、外部へ連絡されるのを止めたかっただけのようだ。
(初めからバスジャックするつもりじゃなかったように見えるな)
 そこまでの計画性がある行動には見えない。
 戸村は行動を起こす前サラリーマンと揉めていた。おそらくあの男に拳銃を見咎められ、仕方なくハイジャックを実行したのだろう。
「あの……」
 恐る恐るといった声が上がった。
 女性が学校の教室みたいに手をあげている。
「なんだ」
 戸村が苛立たしそうに応じる。
「子供がトイレに行きたがってるんです。次のサービスエリアで止まりますよね?」
 諒の位置からは見えなかったが、どうやら女性の隣に子供が座っているらしい。
 高速バスには最後部にトイレが設置されているが、運の悪いことにこのバスのトイレは故障中だった。乗り込むときに「乗車前、休憩中に用をお済ませください」とアナウンスされていた。
 戸村は一瞬、なにを言われたかわからないといった表情をしたが、すぐに怒鳴り声を上げた。
「止まるわけねえだろ! 新宿までノンストップだ!」
 女性は「そんな」と小さく呟く。「えー」という男の子の声も聞こえてきた。子供のほうは緊迫感のない間延びした声。ハイジャックという状況が理解できているのかどうか怪しいところだ。
 そのあとは誰も発言しなくなり、バスの走行音だけが響き渡る。
 一見、普通の夜行バスと変わらない。しかし前を見れば戸村が拳銃を持って立ち、車内を睨み回している。
 彼はこのまま新宿まで気を張り続けているつもりだろうか。
 諒はふと横の沢渡を見る。驚いたことに彼は肘掛けに肘をついて眠っていた。
 たしか彼はバスに乗る前に酒を飲んでいたと言っていた。それで眠くなったのだろう。とはいえ、よくこの状況で寝られるものだ。
 諒は呆れると同時に無性に腹が立ってくる。
 自分だって本当なら今ごろは眠っていた。だがこの状況で刑事が寝るなんてできるはずがない。
 こんなやつに気を取られていても仕方ない。諒は沢渡から意識を引き離し、あらためて車内の様子を確認することにする。
 バスに乗っているのは全部で十一人だ。
 諒と横の沢渡で二人。
 運転手と、バスジャック中の戸村でさらに二人。
 戸村の拳銃を見咎めたサラリーマンと、さっきの母子で三人。
 残りは四人。
 この中に戸村の仲間がいるはずだ。
 母子の斜め後ろに座っている二人はおそらく違う。六十代前半くらいの男性と二十歳前後の女性。だいぶ歳が離れているが、どうやら親子のようだった。席に座るとき女性のほうが「お父さん、窓側がいい? 通路側がいい?」と話しかけていた。
 父親のほうはどこか身体が悪いのか、バスに乗り込むのも大変そうだった。
 娘の方は社会人という雰囲気ではなく、どことなく大学生だろうと思われた。
 半グレ組織のメンバーというには違和感があった。
 となると、残りは二人。
 この二人は無関係のようで、それぞれバラバラの席に座っている。
 片方はポロシャツを着た眼鏡の青年で、年齢は戸村と同じ二十代半ばに見える。彼が仲間である可能性が一番高い。
 戸村が銃を放ったり怒声をあげたりするたびに頭を抱えて怯えているが、演技でないとは言い切れない。
 最後の一人はスーツを着ているが、厳つい外見で普通の社会人とは思えない。諒の経験からすると、暴力団の組員があんな雰囲気をまとっている。
 基本的に暴力団と半グレ集団には結びつきがないが、皆無というわけでもない。この男が戸村の言う仲間である可能性も捨てきれない。
 なんにしろ、この状況で動くには諒一人では手が足りない。しばらくは様子を見るしかなかった。

         ○

まくら4

 戸村の要求通り、本来休憩で止まるはずだったサービスエリアを通過して少し経ったころ、男の子が「ママ、おしっこ」と声をあげた。
 母親が「我慢して」と答えるが、男の子はしきりに尿意を訴える。
 戸村が苛ついているのが傍目からもわかった。このままではマズいことになる。そんな予感から、子供のあどけない声と裏腹に緊迫した空気が流れる中、戸村が口を開いた。
「うっせえなぁ! おい、運転手。次のサービスエリアで止まれ。漏らされたらたまったもんじゃねえ」
 車内の空気が一気に緩んだ。
 しかし諒は疑問を覚える。なぜ戸村は急に立ち寄りを認めたのだろう。子供がうるさかったから? 漏らされたくなかったから? それだけだろうか。
「へえ……」
 ふと呟く声が聞こえて諒は隣を見る。沢渡がいつの間にか起きていた。和服姿の元同級生は、興味深そうに戸村のほうを見ていた。
 その表情は、まるでこの状況を楽しんでいるかのような、笑顔だった。

 やがてバスは諏訪湖に臨む上諏訪サービスエリアに入っていった。温泉施設もあり、昼間は観光客で賑わう人気のサービスエリアだが、深夜の今は大半の店が閉まっていて閑散としている。
 バスが駐車場に止まると、戸村は母親と男の子を立たせた。自分のバッグに拳銃を入れ、その銃口を男の子に突きつけるようにしてバスを降りていった。
「おかしな真似はするなよ」
 車内に向かってそう念押ししていくのを忘れない。
 しかし戸村たちの姿が見えなくなると、すぐにサラリーマンが立ち上がって声を上げた。
「おい、刑事ってのは誰なんだ? 早く警察に通報してくれ。今のうちだろ」
「なに言ってるの」
 歳の離れた父親と一緒の、女子大生がサラリーマンを睨む。
「犯人の話聞いてなかったの? 仲間がこの中にいるんだよ。できるわけないでしょ」
「だ、だったらまず全員を拘束してから通報すればいいんだ。ちょっとの間なら我慢してもかまわん」
 サラリーマンは名案だとばかりに偉そうに告げる。しかし女子大生はこれみよがしにため息をついてみせた。
「あのね、そしたらあの親子はどうなるの? それに拘束ったって、途中で銃でも持ち出されたらどうしようもないでしょ」
 正論を返されてサラリーマンは言葉を詰まらせる。
「ぐっ……だったらどうしろというんだ。だいたい君はさっきからなんだその口のきき方は! 年長者に対する態度じゃないだろ!」
「うっわ、逆ギレ? 今それ関係なくない?」
「やめてくださいよぉ!」
 サラリーマンがさらになにかを言いかけたが、それより早く眼鏡をかけた気弱そうな青年が声を上げた。
「犯人を怒らせたらどうするんですか。おとなしくしてましょうよ」
 メガネの青年は両手で頭を抱え、縮こまるようにしながら震える声でそう訴える。
「なんだ君は、情けない。こんなときこそ気を強く持たないと」
 サラリーマンはターゲットを女子大生からメガネの青年に移すことにしたようだ。調子に乗って説教を始めようとする。
「おい」
 それをドスのきいた低い声がさえぎった。暴力団の組員風の男だ。その声を聞いたとたんサラリーマンはびくりと身を震わせた。
「黙れ。犯人が戻ってくるぞ」
 暴力団風の男が窓の外を指し示す。戸村と母子の三人が歩いてくるのが見えた。
 それを見たサラリーマンは逃げるように席に戻った。
 憔悴した顔の母親が、続いて男の子がバスに乗り込んでくる。男の子は泣き顔だった。最後に戸村がバスに入る。相変わらず拳銃をバッグの中に入れ、男の子に突きつけている。
「大丈夫ですか? なにかされたんじゃ……」
 女子大生が声をかける。母親は首を横に振った。
「いえ……ありがとうございます。ただ、この子がようやくなにが起きてるかわかったみたいで」
 男の子は鼻を啜りながら無言で座席に戻った。母親も席に戻る。
「なにもなかっただろうな」
 戸村が威嚇するように車内を見回す。もちろん誰もなにも言わない。
 諒は戸村の仲間がなにか合図を出したりしないかと注視していたが、残念ながらそんなこともなかった。
「よし、出発しろ。今度はもうどこにも止まらねえからな」
 戸村が念押しするように言う。
 ドアが閉まり、バスが動き出す。

         ○

まくら5

 このまま何事もなく新宿まで行くのではないか。諒は思い始めていた。
 実際、それも悪くはない。第一に優先するべきなのは民間人の安全で、犯人の確保はその次だ。
 そして犯人の素性は割れている。解放後、すぐに通報し捜索を行えば確保は可能だろう。
 しかし、新宿駅のバスターミナルで銃を持って暴れられでもしたら危険だ。それに、この中の誰が仲間なのかわからないのも問題だ。
 さっきの停車中の会話から推測できないかと諒は記憶をたどる。
 自分から騒ぎ出したサラリーマンは違うだろう。万が一諒が警察に連絡していたら自分の首を絞めることになってしまう。
 サラリーマンを止めていた女子大生、眼鏡の青年、暴力団風の男は全員、犯人側の行動として違和感はない。戸村の仲間にすれば、このまま何事もなく目的地まで行けるのが一番いいはずだからだ。
 やはり仲間を特定するのは難しそうだった。
 しばらく様子を見るしかないだろうか。諒はそう思うが、その状態も長くは続かなかった。
「どうしてさっきのサービスエリアで助けを求めなかったんだ」
 発車してほどなくすると、サラリーマンが男の子の母親に向かってそんなことを言い始めた。どうやら、さっきのサービスエリアで事態がなにも動かなかったことが不満なようだ。
「どうしてって……そんなこと、できるわけないじゃないですか」
 母親が困惑した声で答える。
「そんなことないだろう。夜中とはいえ、店員も客もいたんじゃないのか」
「離れたところを通っただけです! それにこの子が拳銃を突きつけられてたんですよ! そんなのできるわけないでしょう!」
 たまりかねたように母親が声を張り上げた。
 そのとたん泣き声が車内に響き渡る。男の子の声だ。
 おそらくずっと啜り泣いていたのだろう。それでもなんとか我慢していたのが、母親の大声で限界に達してしまったようだ。
「もうやだぁ! 降りたいぃ!」
 その悲痛な叫びに諒の胸が痛む。子供にとってはいつ終わるともわらない状況だ。我慢しろというほうが無理だろう。
「静かにしろ! うるせえんだよ!」
 戸村が声を荒らげるが逆効果だった。男の子はますます泣き声を大きくする。
「おい、黙らせろ! あんた母親だろ!」
「冗談じゃない! あなたが余計なことを言ってこなければ!」
 サラリーマンと母親がパニックになったように怒鳴り声を浴びせ合う。男の子の泣き声と混ざって、車内の空気をかき乱していった。トランプの塔が崩れるように、危ういところで保たれていた均衡があっという間に壊れていく。
「うるせえっつってんだろ! 撃ち殺すぞ、おら!」
 戸村が男の子のほうに拳銃を向ける。マズい。犠牲者を出すわけにはいかない。諒は通路に飛び出し前方の席へ駆けて行こうとして――。

 和服の男が席を立った。
 
 藍色の羽織を翻し、右手に閉じた扇子と一枚の手拭いを携えて。
 ひた走るバスの揺れも、阿鼻叫喚の喧騒もないかのように飄々と。
 前へ前へと進み出ていった。
「沢渡……?」
 驚く諒に視線を向けて、彼は一瞬だけ片目を閉じる。
 今のはなにかの合図か?
 呆気に取られた諒が止める暇もなく、彼はズンズンとバスの前方へと行ってしまう。
「な、なんだおめえ」
 突然現れた和服の男に、戸村が困惑の声を上げる。
 怒鳴り合っていたサラリーマンと母親も、泣き叫んでいた男の子も、妙な人物の乱入に押し黙ってしまう。
「噺家です」
「ハナシカ?」
 戸村は先ほどの諒と同じような反応をする。
「騒々しいのは困る。気持ちはわかります。でも死体が転がるのはもっと困りませんか? できりゃあ全員五体満足で旅を終わらせたい。あなただってさすがに殺しは嫌でしょう」
 沢渡は諒と話していたときとはまるで違う口調でつらつらと喋る。言葉の中身は物騒なのに、その流れるような語り口のせいで、どこか冗談みたいなおかしさが漂ってくる。
「そりゃそう、だけど……じゃあ、どうしようってんだ」
 戸村は困惑して問う。銃口を向ける先を男の子から沢渡に変える。
 銃を向けられた沢渡は、それでも怯えた様子もなく答えた。
「落語をやります」
「はぁ?」
 戸村はせっかく向けた銃口を思わず下ろしてしまう。
 無理もない。諒も耳を疑った。なにを言ってるんだ、彼は。落語をやる? この状況で? なんで?
「ご安心ください。噺家ってのは便利なもんでしてね。この」
 と右手を上げて見せる。
「扇子と手拭いさえありゃ大抵の噺は話せます。あとは座る場所さえありゃ、そこがあたしの高座になる」
 そう告げると、沢渡はバスの最前列にある荷物置き場の上に飛び乗った。戸村が集めたスマートフォンを置いた場所の、通路を挟んだ反対側のスペースだ。
「おい待て……」
 戸村は沢渡を止めようとするが、沢渡はそれより早くその場に正座する。
 サッと羽織の袖を払う。
 扇子と手拭いを自分の正面に置き。
 車内の「客」を軽く見渡して。
 両手をついて深々と頭を下げる。
 顔を上げて開口一番。
「さて、一席お付き合いを願っておきますが――」

          ○

噺「まんじゅうこわい」

「えー、おおぜいのお運び……とは言いがたいですね、残念ながら。それに皆さん、落語を見よう噺を聞いてやろうって空気じゃない。当たり前と言えば当たり前ですな。あたしだってこんなところで落語やったことなんてないですよ。

 なにしろここは高速道路をひた走るバスの中。ガタガタガタガタ揺れて尻が痛いったらない。その上バスジャック犯さんが隣でこわ~い顔で睨んでます。勘弁していただきたいですね、ほんと……。

 文句を言ったって始めちまったもんは仕方ない。とりあえずお決まりで名乗らせていただきますと、あたしは明淡亭斜六と申します。明るい、淡い、料亭の亭で「めいたんてい」、斜めに六つと書きまして「しゃろく」。名前だけでも覚えて帰っていただければと……まあ、今日のお客様は一生忘れようったって忘れられないこと請け合いでしょうがね。

 さて、こんなときでもあたしら噺家ができることといえば、バカバカしい噺をバカバカしく話すだけなんでございまして、そんな気にはなれないかもしれませんが、一席お付き合いを願っておきます。ある長屋に若い衆が集まりまして、特にやることもなくバカっ話をしております。そこへ駆け込んできたのが――」

 前で結んだ羽織紐を解き、するりと羽織を脱ぐ沢渡――いや、そこにいるのはもう諒のまるで知らない人物だった。
 薄茶の着物姿になった明淡亭斜六は急に姿勢を崩して前のめりになったかと思うと、

「『ででででで出たぁ!』」

 焦り切った表情で声を上げた。
 その瞬間、諒は自分の目を疑う。高速バスの車内の風景が消えて、自分が長屋にいるかのような錯覚。その戸を勢いよく開いて、若者が慌てて飛び込んできた。本当にそう思った。
 もちろん気のせいだ。そもそも諒は長屋など見たことがない。小学生のころ博物館で再現の展示を見たくらいだろう。
 気づけば視界はもうバスの車内に戻っている。

「『おうおうどうした。そんな息切らして。出たってなにが出たんだよ』
『『出たって言ったら決まってんだろ。こんな太くて、ぐるぐるーとトグロ巻いて、かっと鎌首をもたげた……』
『蛇か』
『そう蛇! 蛇がそこの角で俺のこと睨んでたの。ああ驚いた。俺ぁなにが怖いって世の中蛇ほど怖いものはないね』
『そうかぁ? たしかに道端で突然出っくわしたらギョッとするが、そんなに怖がるもんかね』
『なにおう? それじゃおめえはなにが怖いんだ?』
『俺か? 俺ぁな――』」

 斜六は台詞を重ねて話をつなげていく。
 初めは二人の会話だったが、そこにほかの長屋連中が加わり、それぞれ自分が怖いと思うものを語り出す。そこに同意の声、疑問の声がテンポよく飛び交って、ワイワイガヤガヤと騒がしくなっていく。
 不思議だった。
 諒は斜六が演じる一人一人を把握できているわけではない。舞台となっている長屋に人が何人いるかもよくわからない。
 なのにいつの間にか自分もその長屋にいて、目の前で男たちがああだこうだとくだらない話題で盛り上がっているその場に居合わせているような気分になっていた。
 斜六は長屋の男たちを演じている。
 けれどドラマや舞台のように一人一人をなりきるように演じてはいない。
 斜六はあくまで斜六のままで、けれど男たちの特徴を、性格を、なによりその場の馬鹿馬鹿しくて些細で日常的な、ともすれば見逃してしまいそうな小さな笑いを、そっとすくい上げて語っていく。
 気づけば、乗客がみな斜六に見入っていた。
 横の通路に立つ戸村すら、乗客のほうをチラチラと気にしながらも、和服の男の語りに意識を奪われている。

『おう、そっちでずっと黙ってるおめえはなんか怖いもんはねえのかよ』
『はー……さっきから聞いてりゃどいつもこいつも、あれが怖いだのこれが恐ろしいだの、情けねえことばっか言いやがって』
『なんだおい。自分は怖いものなんかないって面だな』
『ねえよ。怖いものなんか一個もねえ。おう、おめえさっきなんつった? 蛇が怖い? 俺ぁな、蛇を見るとうなぎの代わりに食っちまいたくなる』

 一人の男が会話に加わり、話の流れが変わる。
 男はほかの長屋連中が上げた『怖いもの』も一個一個否定していく。

『じゃあなにか。おめえは世の中怖いものはひとっつもねえってのか』
『ああ、ないよ。ほんとにないよ』
『ほんとにほんとか』
『ねえったらねえよ。くどいぞおい……ねえよ』

 男の様子がおかしくなってきた。
 長屋連中は男を問い詰める。男はとうとう、自分はまんじゅうが怖いと白状させられる。

『まんじゅう? まんじゅうってあの、あんこが中に入ってる――』
『うわああやめろ! 話を聞いただけで具合が悪くなってくる!』

 男が、いや斜六が頭を抱えて身を縮こまらせる。
「ぷっ」
 とそこで小さく吹き出す声が聞こえた。
 男の子が堪えきれなくなって笑ったのだ。
 ついさっきまで怯えて泣き叫んでいたあの子供が、思わず笑い出してしまった。それほどに斜六の怖がる仕草は不意打ちで、なおかつ嫌味のない明るさがあった。

「えー実はこの男、長屋連中のなかでは憎まれ役。暇な人間はろくなことを考えないものでして、まんじゅうを持ち寄ってこいつをもっと怖がらせてやろうということで話がまとまりました」

 具合が悪いと言って奥の寝床に引っ込んでしまった男。
 長屋連中はそれぞれ、これはと思うまんじゅうを買って戻ってくる。

『おおい、調子はどうだ?』
『横になったら少しは良くなった』
『まんじゅうは相変わらず怖いか』
『やめろってんだよ! さっきまで怖かったもんが急に怖くなくなるかってんだ』
『そうか。それじゃ――差し入れだ!』
『ぎゃああああああ!』

 障子を開け、まんじゅうを部屋の中に全部入れて、また障子を閉める。
 男の悲鳴が響き渡る。

『ままままんじゅう! ああああ恐ろしい! 丸いのが恐ろしい、いっぱい集まってるのが恐ろしい、甘い匂いが恐ろしい。くそ、こんなに恐ろしいもの――もう全部食っちまうしかねえ!』

 と、そこでなにやら男の態度が変わる。
 男は怖いはずのまんじゅうを手に取ると口に放り込む。
 それはどう見ても怖いものを食べる手つきではない。

『うわあ、なんて甘いんだ。こんな甘い、いや、怖いまんじゅうは初めてだ。あんこが中までたっぷり詰まってずっしりと怖い』

 急に怖がり方が棒読みになる男。
 そのあまりに極端な態度の変わりように、その狙いをすぐに理解したらしい。男の子が「あははは」と声をあげて笑った。
 男の子だけではない。母親が、つられるようにふふっと小さく声を上げた。
 そして笑いは、さざなみのようにバスの車内に広がっていく。

『こっちはよもぎまんじゅうか。よもぎの爽やかな香りがスゥッと鼻に抜けてなんて怖いんだ! こっちはクズまんじゅう。プルプルっとした食感が口の中で弾けて怖すぎる! こっちは……』

 集められたまんじゅうを次々と頬張っていく男。
 斜六の仕草はやたらに大げさだが、その大げさな感じが、まるで自分も一緒になってまんじゅうを食べているような気分にさせられるから不思議だ。

 車内はダムが決壊したかのように笑いの渦に包まれていた。
 男の子は腹を抱えて笑っている。母親も口に手を当てて笑みを浮かべているようだ。女子大生とその父親も肩を震わせて、笑っているのがわかる。
 初めは不機嫌そうな顔をしていたサラリーマン、それに斜六の横の戸村まで笑みを浮かべていた。
 話はなんてことのない筋だ。怖がっているふりをしてみんなにまんじゅうを買わせて食べてしまう。それだけの話。
 しかし斜六の語り口や表情、動きが、バスジャックされているという状況すら突き飛ばして見ている者を話の中に引き込み、笑いを呼び起こした。
(あれが沢渡? まるで別人じゃないか)
 一方で諒は笑う前に驚きを隠せない。
 怖い怖いと言いながらまんじゅうを食べる男を、あるいは自分の怖いものについて語る長屋連中を演じる彼は、昔テレビで見たアイドルの彼とはまったく違った。
 あのとき見た彼はたしかに歌も踊りも上手だった。しかしそれだけだ。ああ、上手だなと思うだけで、ほかに感じたのは、知り合いがテレビに出ている、という珍しさだけだった。
 今の彼は違う。
 こんな状況なのに、おそらくはいつも通りに落語を話して、それで皆を引き込んでいる。殺伐とした車内を百八十度違う空気に変えてしまった。
 諒は彼への印象を改める。アイドルが続けられなくて、仕方なく噺家に転向した、なんてことはない。
 彼は多分、人生のどこかで落語に出会い、落語に惚れ込み、本気で落語をするようになったのだ。
 彼のその落語はバスジャック中の車内すら笑いの渦に飲み込んでしまった。
 そして、それだけではない。
(あいつは僕になにか伝えようとしている……?)
 席を立って前へ向かうとき、彼は諒に向かって片目を閉じて見せた。なにか意味があるのは間違いない。
(たとえば、落語への反応で犯人を割り出そうとしている、とか)
 諒自身はのぞいて、斜六の落語に対して明かに笑いの少ない人間が二人いた。暴力団風の男と大学生くらいの眼鏡の青年だ。
 暴力団風の男は腕を組み、難しい顔をして斜六の方を睨んでいる。ときおりほかの乗客に視線を向けているときもあった。
 一方眼鏡の青年は斜六の方を熱心に見続けていた。ただ、笑うわけではなく、要所要所で大きく頷いたりしている。もしかしたら落語好きで、斜六の話芸に感心しているのかもしれない。
 ちなみに運転手の反応は諒からはわからなかった。
(となると、一番怪しいのは暴力団風の男ってことになるけど……)
 しかし当のバスジャック犯である戸村も斜六の噺に笑ってしまっている。反応が薄いことがすなわち犯人の証明だとは言えない。
 だとすると、斜六の狙いはべつのところにあるのだろうか。
 乗客の反応でないなら、落語そのものか?
(まんじゅうこわい、か……)
 諒がタイトルを聞いたことのある、数少ない落語の一つだ。子供のころに絵本かなにかで読んだかもしれず、話の中身もなんとなく覚えがある。
 ここまでくると、最後のオチも思い出した。今考えるとなかなか捻った感じのいいオチだ。
 しかし、それがなんだというのだろう。
 自分が嫌われているのを自覚していて、まんじゅうが怖いと騙ってみんなに集めさせ、怖がるふりをしながら食べてしまう男の話。
 それを今、諒に聞かせる意味が斜六にあるだろうか。
(……まさか)
 そこでふと。その可能性に諒は思い至った。
(有り得るか、そんなこと? いや、でも……)
 もし斜六の意図が諒の思いつきのとおりだとしたら、待っていれば戸村の仲間は――

 自ら名乗り出ることになる。

 話はもうすぐ終わろうとしていた。
 怖い怖いと言いながらまんじゅうを食べまくる男に、長屋連中は詰め寄る。
『ああ、てめえ。騙しやがったな。全然怖がってねえじゃねえか』
『くそう、いっぱい食わされたぜ』
『やい、お前が本当に怖いものは一体なんなんだ』

 そこで一息。
 斜六はふっと姿勢を正す。すぅっと空気が変わった感じがして、長屋の風景が消える。
 これまでなぜか消え去っていた、ごうごうというバスの走行音が耳に蘇る。
 斜六はさっきまで激しく身体を動かしていたのが嘘のような綺麗な正座に戻り、静かに頭を下げて最後の言葉を口にする。

「『ここらで一杯、濃いお茶が怖い』」
 
         ○

 うっすらと外が明るくなってきた。
 斜六が落語を語ったあとはこれといった騒ぎが起こることはなかった。車内にはどことなく穏やかな空気すら漂っていた。
 バスは相模湖の横を通り、東京都に入る。終点の新宿まではあと一時間ほどだ。
 そのタイミングで、女子大生が声を上げた。
「あの」
「なんだ」
 戸村は面倒くさそうに声を上げる。
「次の八王子停留所で降ろしてもらえませんか」
 女子大生のその言葉で車内の空気がピリッとひりついた。全員が戸村に注目する。
「駄目に決まってるだろ。なに言ってるんだ」
「お願いします!」
 女子大生は立ち上がって頭を下げる。
 戸村はとっさに銃を構えるが、彼女は本当にただお願いをしたいだけのようだった。
「父が持病を持ってて、今日の午前中に停留所を降りたところにある病院を受診する予定なんです。そこで薬をもらえないと体調が……だからお願いします!」
 女子大生は通路に出ると、戸村に向かって土下座をした。隣の父親が「よせ」と呟いたようだったが、諒からはよく聞こえなかった。
「……ああ、くそっ。わかったよ!」
 戸村は諦めたように声を上げる。
「ただし俺もついていく。よけいなことをしようとするなよ」
「あ……ありがとうございます!」
 女子大生は何度も頭を下げる。戸村はそれを面倒くさそうに見下ろしていた。

         ○

 ほどなくしてバスは八王子停留所に停まった。
 高速道路上にあるバス停は利用者が減って閉鎖されているところも多いらしいが、この停留所はそうなっていない。
 ただ上り車線で終着に近いここは降車専用となっているため、待合室などはないシンプルな作りだ。
 バスが停まるための専用の車線の横に、停留所の看板だけが立っている。
 ドアが開き、初老の父親が女子大生に支えられてバスを降りる。すぐ後ろに戸村が続いた。戸村は父親の方に拳銃を突きつけている。
 戸村がバスの運転席に向かって怒鳴る声が聞こえた。
「いいか。俺たちが戻るまでここに停まってろ」
「し、しかし、後続のバスが来たらどうすれば……」
「故障とかなんとか言ってごまかせ! いいから絶対動くんじゃねえぞ!」
 運転手の戸惑いの言葉に、戸村は理不尽に言い放つ。
「車内には俺の仲間が残ってるんだ。それを忘れるなよ」
 戸村はそう言い捨てて、一般道へ降りる階段の方へ向かおうとこちらに背を向ける。
(今だ!)
 諒は身をかがめてバスの通路を突っ切り、ドアから飛び降りて戸村を追いかけた。
「ん、なんだお前――ぐっ!?」
 戸村が気づいたがもう遅い。
 背後から銃を握っている腕をつかんで一気にねじる。そのまま地面に押さえつけた。戸村はうめいて拳銃を取り落とす。諒はそれを蹴って遠くへ滑らせた。
「警視庁烏山署捜査一課の檜垣だ」
「くそっ、ずっと追いかけてやがったのか? 離せこの!」
 戸村は暴れるが、諒も刑事だ。こんなところで逃すようなことはしない。
「車内に仲間がいるって言ってるだろ! 乗客殺されてえのか!」
「いや、仲間はもういないだろ。そこにいるんだから」
 と諒は困惑した表情で立ち尽くしている初老の父親と娘の女子大生の方に目を向ける。否――おそらくは本物の父と娘ではないのだろう。
「なんでわかった……」
 戸村は驚いたように目を見開いたあと、悔しそうに唸った。
 答えてやってもいいが、さすがに戸村も納得しないだろう。

 さっきの落語――「まんじゅうこわい」のおかげだ、なんて。

 戸村はすぐに気持ちを切り替えたらしい。小さく舌打ちをすると、女子大生に向かって叫んだ。
「銃を拾え!」
 女子大生がとっさに拳銃の方へ駆け出す。
 マズい。彼女が銃を拾えば状況はまた元に戻ってしまう。
 戸村には逃げられてしまうかもしれないが、ここはこの場の全員の安全を優先するべきか……。
 諒がそう決断しかけたとき、車内から斜六の声が聞こえた。
「刑事さん、お願いしますね」
 刑事なら自分だ。彼はなにを言っているのだろう。
 そう思った次の瞬間、低い声がそれに答えた。
「わかっている」
 バスから大柄な人影が飛び出した。そのまま拳銃の元へ走り、女子大生より先にそれを拾い上げた。
 女子大生が足を止める。
 どうしたらいいかわからない、といった様子の彼女にあっという間に手錠をかけると、彼は初老の男に向かって告げる。
「お前も抵抗はするな。すぐに応援が到着する」
 その言葉に呼応するように、パトカーのサイレン音が聞こえた。高速道路下の、停留所出口周りに数台集まってきていることがわかる。
 初老の男は力尽きたように地面に膝をついた。
 諒は相当驚いた表情を浮かべていたのだろう。
 その、暴力団のような風貌のスーツの男は諒に警察手帳を示すとわざわざ名乗ってくれた。
「愛知県警の米田だ」

         ○

「いやぁ、ちゃんと通じてよかったぜ」
 新宿駅の高速バスターミナルから東側に出た通りを歩く和服姿の斜六はやはり周りから浮いて見えた。
 その隣を歩きながら諒は苦笑する。
「たまたまだよ」
 あのあと、応援に駆けつけたパトカーで、戸村と仲間の二人――初老の男と女子大生――彼女は実際に大学生だった――は連行された。米田刑事が付き添っていった。
 他の乗客は全員、名前と連絡先を伝えたあと、バスで新宿へ向かった。到着は定刻からわずか三十分の遅れ。バスジャックされたとは思えない。
 諒は新宿署に戸村の逮捕を報告することになっている。そのあと烏山署に戻って、連れて来られているはずの戸村たちに事情聴取を行う予定だ。
 けっきょく一睡もできないまま仕事をすることになってしまったが、気分は晴れやかだった。ずっと追っていた半グレメンバーの確保に成功したのだ。休日出張した甲斐があったというものだ。

 戸村はパーカーのポケットに危険ドラッグを持っていた。上諏訪サービスエリアで回収したものだ。
 そして戸村と仲間の二人は八王子の停留所で降りて、そのまま逃走するつもりだった。それを斜六は見抜いていた――というか、その可能性を落語で諒に伝えてきたのだ。
 長屋の嫌われ者の男がまんじゅうを嫌いだと騙ったように、戸村はサービスエリアには止まりたくないのだと騙った。米田刑事に悟られないために。
 もし自分からサービスエリアに止まるよう運転手に命じていたら、米田になにかあると勘付かれたかもしれない。だから、もしあの男の子がトイレに行きたいと言っていなければ、仲間の二人のどちらか――初老の男か女子大生が止まってくれるよう頼む演技をしていたのだろう。
 そしてまんじゅうを散々食べた男が次に「お茶が怖い」と言ったように、戸村はもう一度バスの停車を「怖がる」はずだ。そして、それでも止まるよう促す者がいるはず。それが戸村の仲間だ――それが斜六が「まんじゅうこわい」の落語で諒に伝えてきたことだった。
「でも、どうして戸村が本当はサービスエリアで止まりたがっているってわかったの?」
「ちょっと見て、考えただけだ」
 斜六は両手を頭の後ろで組んで答える。
「サービスエリアから戻ってくるときに、あいつはポケットに手を当てていた。バスを降りるまではそんな手つきはしていなかったから、なにか持ってきたんだなと思った。本当にただ拳銃を発見されてバスジャックしただけなら、子供が泣こうが小便漏らそうが、無視するのが一番だ。そうしなかったてことはもともとあのサービスエリアになにか目的があった。それを回収したんだろうなと思ったんだよ」
 諒は感心する。その手つきの変化に諒は気づけなかった。
 そういえば、先日諏訪市の高速道路では検問が行われていた。おそらくはその際に、危険ドラッグを運んでいた人物が、上諏訪サービスエリアに隠したのだろう。それを戸村たちが回収して東京まで運ぶことになった。
 検問のことを知っていたのに、そのことに思い至らなかったのは諒のミスだ。
「じゃあ新宿に着く前に降りるだろうって推測できたのはどうして?」
「終点のここまで来ちまったら、さっきやったみたいに、仲間が残ってるって騙して足止めできないだろ」
「なるほど……」
 戸村たちの計画では、もともと休憩で停車する上諏訪サービスエリアで危険ドラッグを回収し、途中の停留所で降りるつもりだったのだろう。
 それがあのサラリーマンが拳銃を見つけて指摘したことで、急遽バスジャックをすることになってしまったというわけだ。
 おかげで戸村たちはバスをサービスエリアや停留所で止めさせるためによけいな演技をすることになってしまい、それを斜六に落語で暴かれる羽目になった、というわけだ。
「あ、ところで」
 諒はもう一つわからないことを斜六に問いかける。
「戸村の言った『刑事』が米田刑事だっていうのはどうしてわかったの?」
 諒は、戸村が言う「刑事がいることもわかっている」というのは自分のことだと思い込んでいた。しかし彼が言っているのは米田のことだった。
 米田は愛知県警の組織犯罪対策課の刑事で、海外から持ち込まれる危険ドラッグについて捜査を行なっていた。その過程で戸村を追っていたらしい。そして戸村は自分が追われていることに気づいていた。
 米田刑事も、車内では誰が戸村の仲間かわからず手を出せずにいた。諒が、彼が仲間の可能性があると考えていたように、米田も諒を戸村の仲間かもしれないと考えていた。
 しかし斜六は八王子停留所で米田に話しかけていた。米田によると彼はあのとき、諒が刑事であること、戸村と一緒に降りた二人が戸村の仲間であることを手短に伝えてきたそうだ。それで米田は拳銃を確保しに走る前に通報することができた。
 つまり斜六はあの時点で、米田が刑事だとわかっていたことになる。
 諒の疑問に、斜六はなんでもない風に答える。
「なぁに、あれは直前にわかったんだよ。戸村がお前に『なんだお前』って言ってっただろ」
「あ……」
 たしかにそのとおりだ。
 もし戸村が、諒が刑事だと知っていたなら、そんな言い方はしないはずだ。
「ん、でもそれで米田さんが刑事だとはわからないんじゃ……」
 バスの乗客の中に諒以外に刑事がいるとして、その可能性がある人物が米田以外にもう一人いる。気弱そうな眼鏡の青年だ。
 かなり怯えている様子だったが、あれが演技でないとは言い切れなかった。だから諒も彼が戸村の仲間である可能性を否定しきれなかったのだ。
 しかし斜六はこともなげに答える。
「あー、あいつは最初から無関係だってわかってたからな」
「え、どうして?」
 そんなそぶりがあっただろうか。
 だとすれば自分の観察眼は節穴と言っていい。いっそ斜六に弟子入りするべきなんじゃないか。
 そう思い詰める諒に、斜六は悪戯っ子のような笑みを浮かべて言った。
「あいつ、前座なんだよ」
「ゼンザ?」
「あー、修行中の落語家って言えばいいか。つまり俺の後輩」
 そういえば、と諒は思い出す。
 あの青年は斜六の落語をひどく感心した様子で見ていた。あれはそういうことだったのか。
「なんだぁ」
 諒は気が抜ける。
「はっはっは。お後がよろしいようで」
 斜六は手を振りながら繁華街の方へ歩いていく。
 そちらには寄席がある。噺家が集い、落語を語る、彼らの主戦場だ。
「今度はちゃんとした高座でやる噺を見にこいよ。今度は心の底から楽しませてやる」
「ああ、ぜひ」
 諒は本心からそう思う。
 バスジャックされた車内であれだけ、すごい、面白いと思わせる彼の本気がどんなものなのか、見てみたい。
 羽織の裾を翻し悠然と歩くその後ろ姿を見送ってから、諒も彼の主戦場へと向かった。 

#創作大賞2023 #ミステリー小説部門



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