24歳で会社を辞めてニューヨークへ行った

インドのアシュラムへ行くというオプションを残しつつも語学留学を現実的な選択として本格的に情報収集を始めた。英語圏の行き先はいくつかあったけれど一番なじみの深いアメリカを選んだ。

実は24歳の時に会社をスパッと辞めて、ニューヨークで3か月暮らしたことがある。留学ではなく遊学。英語のレッスンも現地で受けたけど英語をはなせるようにはならなかった。あれだけ英語の基本がわかってなかったんだから会話ができるようになるわけがないと後から気づいた。

おまけにこの旅で元夫と出会い、ニューヨーク滞在中は奴と遊びまわる毎日。日本語を四六時中しゃべっていれば、英語が上達するはずもなかった。

いろんな意味でニューヨーク滞在は私の人生を変えた。それまでうだつの上がらないグラフィックデザイナーだった私は真剣に転職を考えるようになった。デザイナーとしての才能はなかった。会社を変えるのではなく職業を変えるのだ。ニューヨークからの帰国後1年かかったけどマーケティングプランナーとして働くようになった。元夫とは帰国後も交際を続け、3年後には結婚まですることになった。

ニューヨークに行く前に働いていた会社は、大手電機会社の系列会社だった。その前はアルバイトとしてファッション誌のデザイン室で働いていた。ファッションショーやら最新のモード、芸能人が撮影に来たりする職場だった。ファッション誌やテレビ業界が華やかで予算が潤沢にあった時代だ。編集部の人たちにはかわいがってもらえて、当時流行りのいろいろなところに連れて行ってもらった。

でもデザイン室長に気に入ってもらえず、1年働いたら下請けの小さなデザイン会社に飛ばされた。

社長が神様みたいにふるまう丁稚奉公の最低な職場だった。椅子の座り方が悪いとどなられた。早々に辞めて見つけたのが大手電機会社の系列会社で社内向けの印刷物を担当している会社だった。

制服を着た人がうろうろしている典型的な製造業の職場。朝は朝令があってランチタイムにはチャイムがなる。3時になると音楽が流れて皆で体操する。おまけに女子はお茶当番とかがある。

丁稚奉公のデザイン会社よりはましだったけど、キラキラのファッション誌の職場と比べると、どんよりした底なし沼の中にいるみたいな経験だった。生気のない顔をしたおじさんたちがうじゃうじゃいる。ほとんどの女子は若くって制服着てお茶を出したりコピーをとったりしてる。当時は雇用均等法というのが発令されて女子も平等に採用しようというルールがあった。私はグラフィックデザイナーだったので専門職として採用された。おかげで制服は免れたけどお茶当番は回ってきた。

働き始めて1週間でやめようと思った。会社がえりに立ち寄った友達の会社で思い切り愚痴をこぼした。

もう無理。明日辞表を出そうと思う。

すると横で聞いてた事務所の社長がひとこといった。

この手の会社は日本の高度成長期を支えてきた会社だよ。社会見学だと思ってしばらく続けてみたら?若い時しかできないよ。

20代なのに自分のデザイン会社を立ち上げ、タイにいるボーイフレンドとの間にできた子を妊娠中のカッコイイ女子社長だった。さらっと発言して、じゃあ撮影あるからあとよろしくねっと外出していった。

彼女にとっては何気ない一言だっただろうけど、私にとっては何十年たっても忘れられない大切なひとことになった。

そうか、社会見学だと思えばいいんだ。あの底なし沼に属しているわけじゃない。

この後、2年間この会社で働いた。社会見学と思えば気が楽だった。同僚たちはよい人たちで会社帰りに飲みに行ったり、旅行に行ったり、独身女子にありがちな20代前半の会社生活を思いっきり楽しんだ。

そして24歳の冬、社会見学をしながらためたお金を手にニューヨークに降り立った。











この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?