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「伝統」がしんどい


「縮小社会の文化創造」(思文閣出版 山田奨治編)に寄稿したコラムを加筆。日文研の同研究会に参加(ぶっちゃけお邪魔)させていただきました。

「伝統工芸品を使いましょう」という「お願い」


二〇二二年一〇月十九日の日経新聞の記事に、「伝統的工芸品産業振興議員連盟」が全国の二百品目以上を伝統的工芸品に指定し、展示や販促などを後押ししてゆくとあった。議連の会長の逢沢一郎氏は「各省庁に向けて、海外に行くときの手土産も伝統的工芸品にするよう発信している」という。

それで議連の皆さんは、日常でどのくらい伝統的工芸品を使っておられるのだろう? 自分が使わないものをお土産にするのは、おもてなしとはいえない。

「残さなければいけない」も「和食文化」も、官製ノスタルジーだ

伝統工芸品は土地の風土を反映して生まれ、その地の人たちに使われるところに存在理由と価値がある。素材がなくなった、作る人も市場もなくなったということは、その器物と技術は役目を終えたといえないか。

時代の中でひとつの文化が縮小し、あるいはトリアージの対象となり、次へと役割と居場所を譲るというサイクル。それそのものが文化だと思うだが、それでも「残さなければいけない」となるならば、その根拠はなんなのか、そして残すべきは歴史なのか、技術なのか、器物なのか、職人魂なのか。それぞれ個別に保存継承の最適な方法があるだろう。

逢沢氏は「議連として各地域の宝物のような伝統的工芸品を大切にし、暮らしのなかでしっかり使っていただくことをお願いしている」というが、精神論と押し付けにしか聞こえない。

ユネスコ無形文化遺産登録された「和食文化」も、過去のご飯中心の食事を、日本の誇りと官製ノスタルジーとで押し付けようとするものだが、ここでいう「伝統」もそうで、メディアが商業的に煽る構図も同じだ。

「日本にあってよかった」京都は、メディアのフェイク情報だ

私はフリーランスライターとして京都で仕事をしてきたが、仕事で求められるのは発注元の大半である東京のメディアが求める「エキゾチックな京都」イメージだ。中でも「伝統」コンテンツは大きな需要があるが、重要なのは当事者からのリアリティのある発信ではなく「宝物のように見える」ことだ。
たとえば普段、汚れたジャージを着て作業されている職人さんに、新品の作務衣に着替えていただくような「やらせ」は日常的に行うが、これは立派なフェイク情報だ。やればやるほど、「宝物」見えしてくるコンテンツと、現場で見る「伝統」の前近代的な貧しさとのギャップは、みていてしんどくなってくる。普通の神経ならば。

職人の世界には伝統的に、仕上がりにサインを入れるだけの有名工芸家と、それを仕立てる下職人という分業と身分差がある。賃金がまともに支払われない修業奉公も「伝統的」だ。
ほかにも制作、取引上の偽装や不正にあたる慣行が伝統として数多くある。昔どおりを変えないことを補助金や公的な支援がバックアップし、当の職人はメディアの「伝統礼賛」を内面化してしまって、改善する気持ちも萎えている。こうして、伝統を「守ろう」とするほど、イノベーションを阻む仕組みが強固に出来上がってしまう。
そんな現場から、一般の人が欲しいと思えるものが生まれるわけがない。欲しくないものをどれだけ「お願い」して買ってもらえるのだろうか?

伝統的なものがあった=「グレイトだった日本」っていつ?

日本で取り組まれている持続可能な社会へのとりくみが、新しい技術や価値観の採用よりも、進みすぎた発展を反省し「少し前の暮らしに戻ろう」という心情に向かうのも、伝統コンテンツ浸透の副反応かと思う。

かつてあった伝統的な暮らしを憧憬して「工芸品を暮らしの中でしっかりと使った」、不便を楽しむ“ていねいな暮らし”が、最先端のライフスタイルとしてメディアに取り上げられることも多い。
先の見えない時代への違和感を、そのようにちょっと後ろを向くポーズで、癒そうとする人も多いのだろう。それを「よいこと」だという空気が高まってゆくことに、私はしんどさを感じる。

農林水産省は、理想的な日本的食生活は、昭和三十年代にあったとしている。その時代、電子レンジもコンビニもなく、家庭の主婦が一汁三菜を料理していた。お母さんたちは家電に頼らず手で家事仕事をこなしていた。手におひつや漆器、竹ザルなどを持って、“ていねいな暮らし”をしていたわけだが、実のところ自分のために使える時間はおろか、就学や結婚など、人生の自己決定権も手にしていなかった。1日ヘトヘトだったのではないか?
想像するだけでしんどい。

弱いものの権利なんか、軽く踏みにじる「伝統」

「伝統」があった昔を、宝物だと憧憬するとき、その時代に公然とした差別や不公平があったことが、少しでも意識されているだろうか?
私は、そこがすっぽり抜けている物言いが、気味悪くてならない。

たとえば「民藝」運動の中では、名もない作り手による器物の美を至高のものとし、それを作る一人一人の創意やアイデンティティは無視された。
この一文の、前半は商業的に煽られているが、後半はほとんど語られない。
都合良く取材され、編集された過去は、どこまでも美しくなれる。

ことし元舞妓が現役時代に受けた人権侵害と性搾取をSNS上でうったえた。10代の女の子たちを二十キロを越える重さの着物と装飾品で飾って、無給で酒席で接待をさせ、客からの性的な視線に晒している。メディアはそれを「伝統工芸の美のプレゼンテーター」と紹介している。
勇気を持って告発した元舞妓を黙らせようとする言葉も「伝統」だ。

Twitterでのその元舞妓の告発の第一声が「この世から消されるかもしれないけど」だったことを、私は忘れない。彼女以前に、消されることを恐れて黙っていた女性たちがどれだけ多かったのか。今も黙っている人がどれだけいるのか?

Make JAPAN great again 

文化は人間によりそう生き物で、時代によって変化する。当然、縮小してゆくものもあるが、その自然な経過を、解決すべき問題だとして力づくで介入することで、人の精神や社会を食い荒らすゾンビを育ててはいないだろうか。
着物やおひつ、白いご飯という過去の生活文化の懐かしい残像、宝物のような工芸品から「日本を再びグレイトに」という化け物の声が聞こえてくる。伝統の守られ方、語られ方を考える時、出来のわるいホラームービーを見せられているようで、しんどすぎる。


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