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好きな作家の現代文が解けない受験生の戯言


好きな作家の現代文の問題が解けない!点数が取れない!!どうして!?

いやいや、お前の国語力と読解力がないだけなのでは?というだけかもしれないし、実際そうかもしれないから、変なことは言えないけれど自分では珍しく脳内会議が盛り上がったので、ちょっと考えてみることにした。

私の国語の成績は中の上くらいで、少し読書をするくらい。苦手意識がないくらい。だからほんと今からのことは、文系底辺の受験生が疲れてて、なんかくだらないこと言ってんなと思って聞いてほしいです。ただの言い訳と愚痴のようなものです。

というのも、先日の模試(某○研模試の記述)の結果が返ってきました。今回の国語の現代文で、宮下奈都(以下敬称略)の文章について問題が出たんですね。
私は宮下奈都が作家の中でも大好きで、出会いは中学生、県統模試の問題の「スコーレNo.4」だった。こんなにきれいな文章があるなんてと思ってぬくぬくほくほくした思いで帰宅したら、たまたま親がその本を持っていて、それから何回も読んだことをよく覚えている。だって約3年前だもの。その後も買ったり図書館で借りたりして、宮下奈都をたくさん読んだ。繰り返し読んでそのたびにほっこりふわふわしていた。中3の作文のコンクールで結構いいのに選ばれて2万円分図書カードを貰って、たくさん好きな本を買えたのは大きかった。けどそもそも読書自体にハマるきっかけとしては、このスコーレNo.4だったんじゃないかなぁと思ったり。

で、今回の模試。評論文、小説、古文、漢文と大問があって、小説の大問だけえらい極端に点数が低かった。答案が返ってきてないけど漢字と選択問題しか合ってないんじゃないかな……おかげさまで全体がとんでもないことになってしまっている。正直めちゃくちゃショックだった。同クラスの尊敬する文系神もだいぶ点数取れてそうだし、何より私は受験生だ、なんにも洒落にならん。また、なぜこんなに悲劇的になっているかというと、こういうことが初めてではないからだ。

こういうこと、というのは「好きな作家・こういうの好きだなと思った文章の問題で得点が取れないこと」だ。むしろ普段読んだことのない、難しい雰囲気のある小説文のほうが得点できたなんてことが多い。

えっ…なんで?

原因はなんとなくわかっていて、好きな文章だと小説をただ読んでしまうんだと思う。他の学生がどうかは知らないけれど、自分が趣味で小説や新書を読むときと、模試で問題として文章を読むときは読み方がなんとなく違う。実際のところは違わないのかもしれないけれど、少なくとも模試では、ある程度の緊張感を持って取り組む。いつものように文庫本片手にリラックスしながらティータイムとは洒落込めない。
だからここで私が云う読み方は、文章への姿勢や取り組み方の方が正しいニュアンスなのかな。


読み方が異なるとなぜ得点できないのか?(※私の場合)

読み慣れた文体だと得点できない、というのは、もしかしたらいつもの読み方は、受験国語的にとんでもなく間違っているのかもしれない。それはあると思う。私自身、なんとな~く感覚で文章を読むところがあるので、そういう読み方をしてしまうと要旨を正しく読み取れない。
私の現代文の先生は「いわゆる『国語力』と『国語の問題を解く力』は似ているようで全然違うから、問題で得点できるからといって、一概に"国語の力がある"と言えるわけではないんだけどね…(意訳)」と受験生に溢していた。
ともかくとして、我々に求められているのは「書いてある内容を正確に読み取ること」。いやわかっちゃいるんです。わかっちゃいるんですよ。(心底わかってないからこれを書いてるんだけど!)

次に考えたことは、この文章というものと私との関係性。今年、現代文の授業で小野正嗣の「文学の未来」という評論文を読んだ。(コロナ期間でほぼプリント学習のみだったのが本当に悲しかった。もっと友達とこれについて話したかった)

そこで筆者が述べていたことを挙げてみると

・文学作品とは、読者に読まれることによって完成するものであり、読者とテクストの間に成立する関係のこと

・一つのテクストに対して、読者一人ひとりの価値観や経験の違いによって読み方が異なってくること

・つまり読者自身が成長して新しい経験や価値観を持てば、自ずとテクストとの関係も変化し、新しい切り口が発見できる



(※現在、現代文の教科書が手元にないのでうろ覚えですが、このようなことを読んだと記憶しております)

この観点から考えてみると、私がただ単純に国語ができないクソ野郎ではない可能性が見えてきました。(※受験国語はできない)

1つ目と3つ目の事柄に関しては私も経験がありますし、文学作品ではなくとも、ご飯の味とかであるのではないかと思います。科学的なことを言ったら違うかもしれませんが、「昔は食べられなかったけれど、今では食べられる」というのも、似ている事象と捉えられます。

文章において、「1回目に読んだときより、内容がわかるようになっている!」というのはあるある。

私は、芥川龍之介の「トロッコ」なんかがそうだった。
今もうまく言葉で説明できないけれど、小学6年生のとき初めて読んで、本当に、全く意味がわからなかった。トロッコに乗って遊んでて、ついていって、楽しくなって、あらまあ一人で帰らなきゃいけなくなって、怖いよう、いやそれは自業自得では?と当時思いました。良くも悪くも冷たい小6だったと思います。
でも今では、ちゃんとあの雰囲気を自分なりに味わうことができるようになったと感じています。成長できたのかな。

私がびっくりしたのは又吉直樹(ピース)が「初めてこれを読んだときに、すごいなと思った」(※要約)と言っていたこと。(王様のブランチで聞いたのかな。あの番組、本や映画の紹介があって、作家さんとの対談もあったりして楽しいですよね。)教科書に掲載されているものなので、同じ年頃に読んだはずです。私が今数年間かけてやっと芥川のトロッコと良い友達になったのに対し、又吉はもう初めて出会ったときからマブダチだった。これは衝撃的。

そこで、私と宮下奈都の文章の関係を見てみると、出会った当初から結構いい感じ。過去の読書ノートや感想メモを見ても、好きな箇所はたくさんあって、今とあんまり変わらなくて。最初からたくさん見つけられているのがよくわかる。もちろん、新しい発見もあるけどね。人間関係だったらかなり親密な間柄だと思う。

では「問題としての」宮下奈都の文章では?


ここで私は、常日頃先生方に言われていることを思い出した…

「「出題者の意図を考えながら問題を解くこと」」

で、出たな出題者!!!!


果たしてこれを国語の先生が言っていたかどうかは忘れましたが、理系科目では口を酸っぱくして言われます。(数学とかそんなこと言われても解けないんですけどね!!!)

以下、私の場合。

出題者という第三者(?)が私と文章との間に入ることによって、文章は元カレ・元カノになってしまうんですよね。
「あなたはこういう文章よね…?ウフフ、知ってるよ?」とかそういうノリで解答解説を読むと、出題者の影響で私が知っていた文章さんとはちょっと違うものになっていて、「えっ違うよ?こういう意味やで?」と言われる。
多分全く知らない人(文章)だったら「初めまして!」の挨拶から丁寧に慎重に文章のことを知ろうとする。分からなかったところ、間違えたところの解答解説を読んで「あーなるほど。そういうことでしたのね」と納得することができる。なんか自分が思ってたのと違う人だったなーと思っても、初めて知り合った人だからそこまでショックは受けないし、素直になれる。
逆に、私は元カレ・元カノの文章(今回で言う宮下奈都の文章)と出会って解答を誤ってしまって、「えっ?違うよ?こういう意味やで?」とか言われたら「なんで!!!わたしの時はこうだった!!」とクレーマーまがいの文句を言ってしまう。今までの関係があるために、受け入れ難いと感じてしまうからだ。選択問題で、正しく新しくテクストと関係を持とうとする一方で、元カレ面の自分が「いや、こっちの感情もあるんちゃう?」と囁く。そういう囁きはわかりやすいから避けられるんですがね。

改めて、「過去のテクストとの関係が(受験国語的に)間違っていた・ズレていた」ことを突きつけられたようなものですから、自分はショックなのかなと思いました。


自分でツッコミを入れると、まず前提として、何と言おうと現代文の問題で求められていることは「内容を正確に読み取ること」。どう足掻いたって選択問題の最後の二択で間違えたら一点にもなりませんし。

…と、ずっと考えていたことを愚痴として吐き出せてスッキリしました。

とはいえ、周囲のお友達で「授業でしか文章に触れない。本読まない。」って人も多いわけで。それからどんな文章でも「問題」としての読み方しかできない人もいるとどっかの記事で読んだ気がします。どちらかに偏るのも良いことではないんでしょうね。

私が今できることは、これまで出会ったテクスト、これから出会うテクストと柔軟な関係を築いていくこと、そして数学をやることです。

良い息抜きになりました!明日からも頑張ります!

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