ちょっとフィクション/足を踏み出すだけ。

波が激しく打ち付ける、
そういう岩場の端に立った。

体を直立させたまま見下ろすと、
波は遠くで轟く雷を思わせるような
散り散りとした衝撃音を鳴らして、
白い小さな泡になって砕けた。

ここは体から力の抜けた人たちがやって来て、
そして戻ってくることのない、そういう場所だ。
嘘だ、これはなにかの漫画の受け売りであり、
ここはただ強い波が打ち付けるだけの岩場だ。
知らないが、たぶんそう。

また疲れてしまった。
疲れてしまった時はなんとなく、
ホームの端とかビルの屋上とか、
死に際に立って思い出す。

死がいかに恐ろしいものであるか。
死に伴ってやって来る苦しみ痛み。
苦しみたくない痛いのはいやだ死にたくない。
そうやって生きることにしている。

厳密に言えば私は死んだことがないので、
思い出す苦しみも痛みも無いのだけれど。
死に際に立ってしまえば無いものも、
どこからか自然と思い起こされるものだから。

ただ、
かつてはあれほど鮮明だった恐怖も痛みも、 
海だか空だか分からない水平線と同じだ。
私のところに訪れる気配はない。

何度も呼び出しておいて、
死なない私に愛想が尽きたのか。
押してだめなら引いてみなと、
遠くで笑って様子を見ているのか。

分からない。
分からないがその効果は着実に、
少しずつ生じていたようだ。

一歩先は真っ暗になって、
水しぶきも岩場も死も、
何もかも見えなくなっていた。

アスファルトの道を歩くみたいに一歩。
改札を出るみたいに一歩。
エスカレーターに乗り込むみたいに一歩。
ただ一歩進むだけ。

進む先には何もない。
闇がすべてを覆い隠している。
ただ足を動かすだけ。
何もない場所に足を…

「おにいさん危ないですよー!」

驚きのあまり後ろに跳び退いてしまった。
その拍子にしっかり鼻に乗っていた眼鏡が飛んで、
奈落の下へと消えてしまった。

一歩先どころではなく目の前すらも、
何も見えなくなった。
呆然と立ち尽くした。

「どうかしたんですか?」

若い女性の声がした。
振り向いて見下ろすと、
全身紺色の服を着た娘さんの影が見えた。
制服?高校生だろうか。

「あ、いや、眼鏡を落としてしまって」

「それは大変ですね」
「駅まで送りましょうか?」

薄情な現代らしからぬ親切な提案に、
私は甘えることにした。
足元に置いていた鞄をかろうじて掴んだ。

彼女は持っていた懐中電灯で、
私の進む先を照らしながら歩いて、
私はその光に入るように進んだ。

「おにいさん、見かけによらずドジなんですね」
「それじゃあお気をつけて!」

無事駅にたどり着いた私に、
ぼんやりとした彼女はそう言って、
颯爽と立ち去ってしまった。
彼女の率直な感想は意外にも嫌ではなかった。

苦しみも痛みも思い出せなかったが、
私はまた生きることにした。

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