おとなになるってどんなこと?
この記事は、庭文庫を一緒にやっている百瀬雄太が庭文庫FBに投稿したものを転載しています。
小学生の頃、時々、朝、学校に行く前におなかが痛くなっていた。
そんな記憶がある。
どうしてか、なにが嫌だったのかは、あんまり覚えていない。
ただ、たぶん、なにかが、嫌だったから、おなかが痛くなっていたのだろう。
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おとなになった今でも、嫌なことがあったり、ストレスがたまったりすると、僕はおなかが痛くなる。
すぐにおなかをこわして、トイレに駆けこむ。
あの頃と、今と、あんまり変わってない。
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あの頃から、20代の半ばすぎまでずっと、「おとなになることは、我慢をすることだ」と、思っていたところがある。
「おとな」になると、こどものときとは違って、もっともっと、嫌なことも増えるみたいだから、我慢する力を、今のうちからつけていかないとなあと、思っていたかは、よくわからないけれど、昔からずっと、我慢をする練習をしていたような気がする。
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会社員をしていた頃も、おんなじだった。
とにかく、我慢、我慢。忍耐、忍耐。
辛いことがあっても、苦しいことがあっても、悲しいことがあっても、痛いことがあっても、「もう、おとななんだから」と、じぶんに言い聞かせて、耐え忍んでいた。
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ある時から、からだの調子がおかしくなった。
手汗もとまらないし、頭痛も吐き気も悪寒もつづくし、胸のなかで鉄のグローブをはめた何者かの手が、心臓を両手でおもいっきりプレスしてるみたいな痛みと、息の苦しさが、毎日毎日、四六時中つづいていた。
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これはおかしいと思い、心療内科へ行き、思ったとおり病気で、今もまだ、治りきらずにいる。
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あの日もし、おなかの痛い僕がいま目の前にいたとして、今の僕、31歳の僕に、なにができるだろう。
ふと、そんなことを想像する。
僕はせめて、こう、彼に伝えたい。
「おなかが痛いのは、悪いことじゃないよ。
だって、痛いのは、ほんとうなんだから。
痛いのには、理由があるんだと思うよ。
我慢すれば、いい、んじゃないんだよ。
我慢しなくて、いいんだよ。
なんにも、悪いことじゃないよ。
きみは、悪くない。
弱く、ない。
なにが原因か、いっしょに考えて、みようか。
今日はとりあえず、学校やすもうか。」
とか、そんなことを。
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大人には大人の事情があり、経験があり、考えがあり、感情があり、論理がある。
でもそれは、大人にかぎらず、こどもだっておんなじだ。
そして、こどもにもある、事情や、経験や、考えや、感情や、論理、
そういうものは、おなかにだって、あったりする。
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感情と理性とか、非合理と合理とか、ロジカルかそうでないかとか、二つに分けて言われることが多いけれども、
かつての僕の、おなかの痛いのは、じゃあ、感情なのか理性なのか、非合理なのか合理なのか、ロジカルかそうでないか。
考えてみる。
すると、どっちだと、はっきり分けて言うことは、難しいことに気づくだろう。
「痛い」というのは感情的だけれど、「痛くすることによって学校に行きたくないということを僕に伝えるおなかさん」は理性的でロジカルだ。
「学校に行かないとろくな大人になれないのよ」と考える大人の思考はロジカルで合理的なようでもあるが、「おなかが痛いのに学校へ行きつづけて生きているのが辛くなって引きこもってしまう」ならば、「学校へ行かなくてはならない」という合理性やロジックは、本末転倒であって、優先すべきはおなかさんの論理であることがわかる。
おなかさんの症状を感知するかつての僕はそれを弱さゆえの負の感情としておさえこもうとするかもしれないが、それはおなかさんの論理を否定するという意味で非合理的であって、学校へ行くという合理性とその合理性とは異なるロジックであるということがわかる。
などなど。
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合理性というものはつねに誰かのなんらかの立場からの限定的なものにすぎないということをわすれてはいけない。
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僕は20後半になるまでこういうことがよくわかっていなかった。
僕という意識や意思が僕のからだというものを操作していると思い込んでいたのだ。
命令するのは僕の脳みそや意識で、命令通りに動くのがからだという従者だと、そんなふうに無自覚にも思い込んでいたのだ。
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だから僕は、からださんに嫌われてしまった。
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ある時僕は統合の行われなくなったからださんたちのことを思いながら短い小説を書いた。
そこでは、王として君臨する脳と意識さんが、からださんの各部に命令を下すのだが、ずっとがんばらせすぎたせいで、からださんたちがボイコットをしてしまい、働かなくなってしまうというはなしだ。
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そんなはなしを書いてはじめて僕は、自分のからだの声をちゃんと聞いて、自分のからだをたいせつにしなきゃなんて、ようやく考えるようになったのだった。
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世間では小学生たちなど、夏休みが終わってみんな新学期がはじまったりしているらしい。
そんなことに思いを巡らせていたら、昔の僕のことを思い出したのだった。
学校へ行きたくない子は、とりあえず、行くところがなければ庭文庫へおいで。
ここにはきみをいじめるやつはいないし、嫌なことを言うおとなもいない。
僕はきみを、いじめたり、学校に行けと言ったりはしない。
ただここに、居ても、いい。
居ることを、して、いいよ。
この場所では、直接これを読むこどもたちはいないかもしれないけれど。
"
おとなになんかならなくっていい、
ただ自分になっていってください
"
今日の一冊は吉本ばななさんの本、
『おとなになるってどんなこと?』
から。
それぞれの感情や論理がある、
そのことを、
大人も子どももたいせつにしていい。
それは年齢というものに関わらない。
人間ならば、いきものならば、
みんなそうだから。
そしてもし、
誰かが苦しくておなかを痛めていたり、
仕事に行きたくないと泣いていたり、
生きていたくないと嘆いていたら、
それをまずは、受けとめることが、
たいせつなのだと思う。
まずはそこから、はじめたい。
多くのあたたかな手とまなざしとともに。
庭文庫も、そのような、場所のひとつで、あれるといいと、思っています。
生きているのが辛いなら、
ここへおいで。
待ってるよ。
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