ファーストデートの夜
彼とのファーストデートの始まりが家の中だったか、ビストロバーだったか、はっきり言って覚えていない。12年も前のことだ。
だけどその日、はっきり覚えているのはコック姿から私服に着替えた彼の後ろ姿だったり、最寄駅から彼の家路に着くまでの緩やかな坂道を、いい感じの距離感で肩を並べて歩いていたことだったり、瞳が綺麗だなぁと見るたびに思い返していたことだった。
お互いに25歳同士で、表参道の小洒落たフランス料理店のコックとウエイトレス。立ち位置が違うことで、仕事上歩み寄ることも多くあった。「熊ちゃん」と苗字を省略して皆そう呼んでいた。
「夜暇?ご飯食べよっか?」
回りくどくない、狙い撃ったような誘いをそのままキャッチャーのように私はミッドに受ける。
東横線の祐天寺、電車の扉が開いた勢いで外気を思い切り吸う。あ、もう夏の匂いだなと思った。ひと夏の思い出になるのだろうか?とふと思った。熊ちゃんは勢いよく遠くに飛んで行ってしまうような危険で自由な雰囲気をはらんでいた。私にはないその危うさに魅力を感じていたのは確かだった。
彼の色素の薄いブラウンの瞳。その奥にはいつもフランスが見える。それが彼の通過地点なのか、最終地点なのかは分からない。でも彼の中にはフランスの血が少なからず入っていて、その血は歳を重ねるごとに彼の中で沸き立っているようだった。
星のないダークブルーの空を見上げながら隣を歩いていると、彼から唐突な質問を受けた。
「この前デートしたの?」
『来た』と思った。
「誰と?」
「あのおっさんだよ、俺の隣で働いてる」
--------
当時熊ちゃんの隣で同じく包丁を握っていた男性Aは40代だった。名前も覚えていないからAとする。何かの拍子に交換したメールアドレスで私から連絡することはなかったが、仕事終わりにロッカールームで着替えているとそのAからメールが入っていた。
『今日もお疲れ様』
何気なしに返答しようとすると様子がおかしい。下の方にスクロールできる。ざぁーっとスクロールしきったところで背筋に悪寒が走った。
『振り向くまで待っているよ』
男女間の殺人事件はこういうところから始まるのだろうかと思った。気持ち悪いを通り越してホラーだ。今いるロッカールームがまるで監禁場所に思えて来て足早に出た。
確かに以前Aから映画に誘われて、断りきれなくなって見に行ったことがあった。男女が2人で外出することを世間では『デート』と言うらしい。私にとってはただの付き添いという感覚でいた。なんの映画を見たかも覚えていない。
しまった。気を持たせてしまった。そんなことを思うと同時にこれは最強のカードになると思った。
遠くに見えるヤキモチ顔の熊ちゃん。
--------
「同じ職場で働いてるし、ただの付き合いで行っただけ。でも困ったことが…」
「なに?」
「…あとで」
「なになに気になる!」
熊ちゃんが気になるままにしておこうと思った。私だってモテるのだぞ、それなりに。
熊ちゃんの自宅までは駅から10分くらいで、地図上で直線に引くだけのように簡単に向かえる場所だ。
「もうここ真っ直ぐ行けば家だよ。簡単っしょ?覚えといてよ、この道。家の過ぎた先にビストロバーもある」
ああもう。また熊ちゃんはそういうことを言う。『覚えといてよ』に含まれる意味合いを考えて口にしてるのだろうか?今どんなにその言葉に爆発力があったか分かっているんだろうか?最後の打ち上げ花火を上げられる直前の女子の気持ちを理解しているのか?解せない。熊ちゃんの気持ちが解せない。まったくコイツは。
点滅した信号機を見上げて焦ることなく2人で立ち止まる。
『好きな人の好きなものが好き』というテレビのドラマで誰かが言っていたような言葉が脳裏をよぎる。彼のちょっと大きめの真っ白なTシャツ、
腰履きのジーンズ、2足目だというお気に入りのaddidasスニーカー。好きな人の好きな物になりたいと言う人もいる。そういうのは分かりたくもないけど分からなくもない。分かったら、負ける。
青に変わった信号を見て歩き出すと、私と熊ちゃんの右足が揃って出た。胸はキュンとは鳴らない。違う。でも頭の隅にこびりついて離れない『偶然』に嬉しさと嫌悪感が入り乱れる。真っ白な画用紙に墨汁を垂らされたように。消えないのは困る。
「フランスにおじさんがいてさ」
はい来た、おフランスのお話。墨汁そのもの。
「うん」
「部屋ならあるからいつでもって言うんだよね」
ジェット風船のように空気が一気に漏れていく。
萎んで一気に急降下。
本当か?本当に行きたいのか?男はいつでも夢を大袈裟に語る。
部屋に先に案内されたか、ビストロバー行きが先だったか…覚えていない。
覚えているのはビストロバーで食べたものの味を覚えていない、ということ。でも最終的に落ち着いた場所は熊ちゃんのアパートだった。悔しいけれど。一緒に見たドラマなんだっけ?主人公の女の結婚式で幼馴染の男が好きと言えずに祝福するシーンがあったことだけは思い返される。そして私の真横、ベッドに腰掛けていた熊ちゃんから言われたんだ。
「俺もきっと、言えないなぁ…」
最恐のカードを出した熊ちゃんに恐れ入った。
ファーストデートで確信する2人の分かれ道。
それでも触れ合う肩と肩にお互いの体温を感じる。あー悔しい。するりと伸びてくる真っ白な手。遠慮がない。見つめられた瞳はやっぱり日本人ぽくなかった。世界を見つめる人の目だ。熱量を感じる。私は何も言えぬまま、お互いに絡まった指を見つめた。
もう12年も前のこと。ほとんど記憶にないけど。ほとんどね。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?