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犬のこと、命のこと

何がほしい?と聞かれるとすぐに「犬」と答える私。犬は私の生活に大きな位置を占めている気がする。だけど私は、犬と暮らしていない。

いつかは私たち二人の生活の中にも犬を迎えることは、私たちにとっては当然のような夢で待ちきれないでいる。私の人生に大きく介した犬は、実家にいたタッチ。5年前に老衰で死んでしまってもういないのだけど、よくタッチのことを今でも考えている。私たち家族にとって、タッチは「犬」「ペット」ではなく私や妹、そして父母のように家族の中の「ひとり」としての席を持っている家族の一員だった。生活の中心に彼がいた、といっても過言ではない。タッチが私の犬嫌いを変えてくれて、今では犬、そして他の全ての動物が大好きだ。犬が私たちの感情を読み取ったり理解する、などということを信じていなかった私だけれど今ではそれを信じている。タッチは全て証明してくれて、私と彼の間に信用関係まで築いてくれた。会話だけがコミュニケーションの全てではない、と分からせてくれた。共通言語が無くても、愛は介することが出来ると。

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タッチが老衰で死んだと聞いたとき、私はパリのパン屋でアルバイトをしていた。そろそろだめかもしれない、と聞いていたから日々覚悟はしていたのだけれどやはりだめだった。何日か泣き続けた。青春時代といわれる私の十代から二十代前半を一緒に当たり前のように過ごしてくれたタッチが、簡単に命を失うとは受け入れることは難しすぎた。

それからは同じ犬種の犬とすれ違う度、タッチの姿、表情、匂いを想い寂しく思っていたが、それと同時に今はフランスと日本という身体的、物理的な距離が一切無くなって、今までより近い所にいてくれてるのではないかと思うようになった。空とか空気中とか、海にいれば海とか、自分の居るすぐそばに、ものすごく近い所にタッチを感じられるような気がして安心する。誰か、大切な人が亡くなった時も同じようにある程度の時を過ぎ、このように受け居られるようになってきた。子供じみた発想なのかもしれないが、夜空を見上げると、身体は失くし魂だけになった彼らも私のことを見下ろしてくれているような気がし、ホッとする。そう想うことが、私にとって死を理解するための一番良い解決法なのだと思う。宗教は信じていないけれど、自身の死の捉え方をきっといつまでも信じていくだろう。

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タッチのお骨は今でも実家の電話台の下、皆が必ず行き来する場所においてある。私はそれをとても素敵だと思う。あれから数年後、彼のあとに新入りになったゴールデンレトリーバーの女の子、チョコは赤ちゃんの頃から電話台の下をスライディングしたり、匂いを嗅いでみたり、何となく彼の存在が分かるのかなと思う行動が多かった。チョコがやってきてくれたことで、犬という動物も性格がそれぞれ違うことが面白いほどに分かってきている。表情も動きも、眠り方も全て違う。人間だってそうなのだから、当たり前か。人が大、大好きでとっても人懐こいチョコ、新しい我が家族の人気者です。

現在はパリの40平米ほどの小さなアパルトマンに人間二人で住んでいるため、ここは犬を受け入れられる環境ではないという結論に達した。それでも私たちの生活にはいつも犬がいて、毎日の会話の中に犬が登場する。いつから始まった日常か分からないが、私のパートナーは道で出会った犬をiPhoneのカメラで隠し撮りし、都度送って見せてくれたり、夜に帰宅したときに全ての犬をコメント付きで発表してくれる。私は携帯電話の操作があまり得意でないので、もたもたしていて犬が通り過ぎてしまうことが大半だが、それなりに日々の任務に徹している。こんなことをしているので、地域の犬、同じアパルトマンに住んでいる犬、職場の近くに現れる犬等、勝手な一方的な犬の知り合いが非常に多いし、犬やその家族には大変迷惑なことに、こちらで勝手に名前を付けて私たちの会話にスムーズに登場してくるような子たちもいる。(例 毛が白くて長く、背の高いやせ型で歩き方がとてもエレガントな犬が近所に住んでいるのだが、Jean-Françoisという上流階級のような名前を私たちが「勝手に」つけた。)私たち二人で、人前で他人の犬の話をして盛り上がっていると、二人してそんな感じなんだね、と苦笑されることもあるのだが、こんなパートナーを捕まえられた私はラッキーだなと思う。なかなか一致しない価値観じゃないかなと思うから。

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こんなことをしているので、自宅に犬が居なくても結構犬との関わりは多く、犬の居ない生活も工夫して充実している。といっても、やはりいつか運命の子を二人で迎えられることを夢みて止まないけれど。

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