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どこまでもついてくる善悪

12月の1日から5日まで、所属劇団の配信公演があった。

1日の夕方、わたしは制作として、スタッフさんのケータリングや急遽必要になったものの買い出しに出かけた。
本番の時間が近づくが、その前に幕を止めるためのクリップをどうしても届けたい。
劇場から少し遠いお店まで行ってようやく見つけたクリップを手に、私は走っていた。

劇場まで向かう途中、3~4歳くらいの男の子がひとりで泣きながら歩いていた。
なんと言っているのか聞き取れない言葉を叫びながら。

だいたいこういう時は、ちょっと離れたところから見守っている親がいたりする。
駄々を捏ねて動かなくなった子どもをわざと置いて先に行き、そっと見守っているとか。

でも今回は近くにそれっぽい大人が見当たらないのだ。
通行人たちも同じ違和感を感じているようだった。
一度普通に男の子の横を通り過ぎたけど振り返って確認する人がいたり、女子高生二人組が歩くのをやめ、男の子を心配そうに見ていたり。

私も走る速度が遅くなる。

どうしよう。

急いで劇場に向かわないと間に合わないかもしれない。

でもこのままでこの子は大丈夫なのか。

もし誘拐とかされたら?

男の子との距離が縮まるにつれ頭の中はフル回転。

意を決して、進路を男の子の方へ変える。

そのとき、道の端から女の人が出てきて、男の子に声をかけて抱き寄せた。

良かった。お母さんと合流できたんだ。

そう思って私は、進路を戻し劇場へ向かって走り続けた。

ただ、時間が経つにつれ少し心配な気持ちが湧いてきた。
女の人と合流しても、男の子が安心した様子もなく、同じテンションで泣き続けていて。
女の人の表情も、淡々としていて。

それこそ、先になにか問題があって、躾のつもりで故意に離れたならそんな再会もあると思うのだけど。
それにしては、女の人は抱き上げに行くまで一切男の子の方を気にせず、男の子からも"見つけた"という反応がなかったことに違和感があって。

本当にお母さんだろうか。
そんな心配が頭をぐるぐるしはじめる。

女の人に声をかければよかっただろうか。

でも、なんて?
何を確認できれば、安心なんだ。
そんなに心配して声かけて、私の方が変に思われるのでは?
いや、万が一もあるのに、自分がどう思われるかなんて考えてる場合か?

時間は戻せないし、その時はもうただ男の子の無事を祈ることしかできなかったけど。


そのとき私たちの劇団は、ちょうど"正義を問う"作品を上演していて、メンバーに男の子の話をしたら「それがみきの正義だったんだね」
と言われた。

正義があれば悪もある。
そしてそれを指すものは人によって反転する。

子どもに声をかけようとしたのは私の正義だ。
でも必要なものを劇場に間に合うように届けることを正義とする人もいるかもしれない。

女の人が男の子に声をかけた時、もう大丈夫だと私は判断したけど、そこで離れるのは悪だとする人もいるかもしれない。

正義とか善悪とか、どこかフィクションの概念のような感覚でいて。
現実で聞くとむず痒ささえ感じていたけれど。

意識していないだけで、善悪の判断を問われる場面は生きていく中に溢れていた。
考えれば考えるほど、あらゆることにその判断が付きまとう。

表舞台に立つ人は大変だ。
ここまで決めれば大丈夫と思って進んだら、また誰かの善悪の判断が追いかけてくる。
男の子が大人に声をかけてもらっているのを見て一度わたしはもう大丈夫だと思ったけど、後になって本当に大丈夫だったのか疑ったように。これは私一人の中での事だったけど。

自分はこれで大丈夫と判断しても、だれかから「本当に?」「そこでやめるなんて」が飛んでくる。
そんな状態の人もいるだろう。

自分にとっての正義はなんなのか。
善悪の価値観が異なる人と共生していくには何が必要なのか。

そんなことを考える一日になった。

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