見出し画像

パニック障害のわたしが八日目に電車に乗れるようになるはなし 八日目

【まえがき】
本日の内容は、いのちのはなしになります。ひとによってはセンシティブな内容に感じるかもしれませんが、この記録の締めくくりとして、避けて書くことはできません。
わたしとしては、かなしいはなしとして書いているつもりはなく、事実を粛々と記したつもりです。が、やはり感情が文章に滲んでしまっているとは思います。かなしいおはなしが苦手なかた、共感性がつよく、やさしすぎるかた。
くれぐれもご無理はならさらないでください。
では、以下八日目の日記となります。


八月二十三日から始めた
「八日後に電車に乗れるようになるはなし」
当初設定した「八日後」。
それが今日、八月三十日です。

そもそも、パニック障害で何年も電車に乗らずに過ごしてきたわたしが、なぜ突然「八日後に電車に乗れるようになる」という、言霊のちからも借りながら、短期間で電車に乗れるようになりたかったのか。

それは、祖父にお別れをしたかったからです。


わたしの祖父は、それはそれは元気なひとでした。大正生まれのひとにしては、背も高く、大柄なひとでした。
よく働き、よく食べ、よく笑い、よく寝る。
特に食べることが大好きなひとで、九十を過ぎても、毎日自分でしたくをして、もりもりとご飯を食べていたとのことです。

とのことです、というのは。わたしは祖父とは一緒に暮らしていませんでしたし、特に、家庭を持ってからは隣の県という近さにもかかわらず、なかなか会いに行くこともできずにいました。
だから、祖父についてのはなしのほとんどは、月に二度ほど、定期的に祖父宅を訪ねていた両親から伝え聞いていたものです。
祖母は五年前に先立っていましたので、あれこれとお土産を持って、様子を見に行っていたそうですが、いつも「鰻重をペロッとたいらげてね」「大きなおはぎを、うまいなぁ、うまいなぁってふたつも食べて」などと、武勇伝を母から聞いていました。

「おじいちゃんが長生きなのは、やっぱりなんでもよく食べて、膝が痛いって言いながらも家事やら散歩やら体をよく動かしてるからだと思うわ」

母がよくそう言っていましたが、そうなのかもしれない、とわたしも思いました。
食が細めなわたしは、なにかと心身のバランスを崩しやすく、運動不足で体力もないため、いつも体調は低空飛行気味。
やっぱり、食べること、からだを動かすことは元気の源なんだな。
いつまでも元気な祖父のことを、わたしは人生のお手本のように思い、本当に尊敬していました。

そんな祖父が、入院したのが今年の五月。
そして、暑い暑い八月二十二日に、祖父は人生の幕をひとりで下ろしました。
九十四歳。
死因は膀胱ガンでした。

「お見舞いに行きたい」
まだ祖父が入院していた頃、そう思ったわたしはメンタルの先生に事情をはなし、電車に乗れるようになるためのメソッドを教わりました。
その一部が、これまで記してきた、八日間のチャレンジです。
ただし、それらは本来、たった一週間ほどで行うことではないのだと思います。
先生からも、「まずはイメージトレーニングが大切。そこから始めて、段階を踏んでいくといいと思いますよ」と言われていました。

教わったその日から、「駅にむかい、切符を買い、改札を通り、ホームで電車を待ち……」という、イメージトレーニングを始めました。初めのうちは、改札を通る段階でつまづいたり、ホームに立っているイメージをするうちにしんどくなったり……想像の中ですら、わたしはうまく電車に乗れずにいました。

でも、電車に乗りたい。
おじいちゃんに会いに行きたい。

その一心でイメトレを続け、やっとホームに立っている自分がスムーズにイメージできるようになった八月のお盆明け。
祖父が旅立ったという知らせを受けました。

悲しかったです。
父方の祖父なのですが、わたしは祖父にとっての初孫だったこともあり、幼い頃から本当にかわいがってもらいました。わたし自身も、かわいがってもらったなあ、という自覚がしっかりとあるくらい、祖父はわたしのことを大切に想ってくれていました。
その祖父が亡くなったことは、もう本当に、言葉にならないほど、悲しかったです。
朝。連絡を受けたスマホを握りしめながら、涙が止まりませんでした。

それと同時に、悔しい気持ちがどんどんあふれてきました。
かなしい、くやしい、くやしい、くやしい。
あんなにかわいがってくれた、愛してくれたおじいちゃんに、わたしは生きているうちに会いにいけなかった。くやしくて、くやしくて、くやしくて。奥歯が痛くなるくらい歯を食いしばり、わたしは自分の情けなさと不甲斐なさに、悔しくて泣きました。

夕方。
帰宅したパートナーに、まず祖父の訃報を知らせました。そして、泣きに泣いて、真っ赤に腫らした目で、わたしは家族に宣言しました。

「三十日のお葬式には必ず行く。わたしは、それまでにぜったいに電車に乗れるようになる」


そこでわたしは、決意表明と、自分のしたことの可視化のために、「八日後に電車に乗れるようになるはなし」を書くことにしました。

そして、八日目の本日。
八月三十日。
わたしは電車に乗れるようになりました。
隣の県まで電車に乗り、
おじいちゃんに会いに行くことができました。

生きているときに会いに行かなくてごめんね
つらいときに手を握ってあげられなくてごめんね
それから、たくさんたくさんありがとう
今まで本当にありがとう
お疲れ様
さよなら
おやすみなさい
おじいちゃん、だいすき

伝えたかったことぜんぶ、祖父の顔を見て、伝えることができました。
不思議と、涙は出ませんでした。

祖父がどう思っているかはわかりません。
見舞いに来なかったくせに都合いいやつだなあ、とあきれているかもしれません。でもまあ、事実ですから、そう思われても仕方がないです。

ただ、こうして祖父に会えたことは、これからのわたしの生きていくうえでの自信や、指針になっていく気がします。
八日間のチャレンジの詳細は、一日目から読んでいただけるとさいわいですが、毎日が選択とチャレンジの八日間でした。
急ごしらえで八日分の計画を立てるところから始まり、一日目、二日目……予定通りにいった日、いかなかった日、さまざまありましたが、そのときどきにとった選択肢と、行動が、今のわたしを創り上げ、祖父に会わせてくれたと思っています。


これで、「八日後に電車に乗れるようになるはなし」は、おしまいです。
拙い文章を読んでくださったみなさま、♡をつけてくださったみなさま、本当にありがとうございました。とても励みになりました!

そして、この八日間チャレンジを支えてくれた、家族、両親、妹、友人、本当に感謝しています。
暑い中いろいろと付き合い、寄り添ってくれてありがとうございました。

感謝の気持ちで、いっぱいです。

これからはもう少しゆっくり、でも前へ

ありがとうございました!