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ガザについて思うこと

今朝は、普通の整体クリニックへ行ってきた。ここのお兄さんは大変愛嬌のあるひとである。そのひとが、「大谷翔平君の奥さんは、アメリカで大変に見えるけど、あれは御本人が納得してやっていると思いますよ」と、ざっくり言えばそういう要旨のことを言う。私もそう思う。
どこに行っても、普通そこに人間がわんさかといて、それで現実にはお互いに妬んだりディスったりして生きている。もちろん、そういうことはしない人もいるが、だから世間がきれいごとだけで成り立っているわけではない。
私は、昨年とうとうTVを廃棄してしまった。もともと、地震速報と選挙速報の時にしか見ていなくって十年以上経ってしまい、場所塞ぎなので近所の電気屋さんに持っていってもらった。なのでガザの戦闘に関しては何も映像などを見ていない。だから酷い言い方になるとは思うけれども、結局のところ、別にユダヤ人に限らず、ものすごく酷いことをされてそれで誠心誠意謝罪されても、あるいは賠償金を貰っても、人の本心というのは全然納得はしないんだな、という妙な感慨を覚えている。
それは、普通に考えればそうで、ある日あるとき家族ともどもどこかへ連れ去られてことごとく殺害されて、その遺体を石鹸にされたらそれは誰だってものすごく不快だろう。いやだろう。謝って済む問題では無いだろう。
私は、ここでリベンジという事を正当化しているのでは無く、人間のものすごく悪い面として、それを払拭してしまうのは、努力してもやっぱり無理だったんだなという話をしている。それを、キリスト教では原罪というし、仏教では煩悩という。
ただ、このしつこいリベンジという感覚は日本人には比較的、理解しづらい模様である。それはひとつには、「水に流す」という文化があるせいだとも思うが、一方の真実として「旅の恥はかき捨て」という感覚がまだ、厳然としてあるせいだとも思う。
日本は、今狭くなった。だから、あくまでも日本の中で旅行をして、ゴミをポイ捨てするとか、女性を買って帰ってきて平然としているという人は、もう殆どいないと思う。しかし。
昔の日本にとって、大陸つまり朝鮮、そして満州は「旅の恥はかき捨て」の対象だったとしか思えないのだ。そこであったことは、未だに不問にしようよという動きがとても強い。
でもそこには、本当は生きている人間がいた。苗字を奪われ、女を奪われ、家族を殺された人たちがたくさんいた。だけど、戦後の日本は、その人たちもそれを水に流すことを強制した。そして国を挙げてお金しか払わなかった。
それは侮蔑だ。
私は、今の日本政権を洗脳してしまっている統一教会が嫌いである。なんてことしやがるんだとも思う。そこは、はっきり言う。私は自分で統一教会から自らを守る、それしか出来ない。ただし、だけど彼らの行動原理の奥底にやはり、不当に扱われた怨がある。そこを無視していると、いずれ(というか既にそうなっているけれども、)日本は破滅すると思う。
自分たちが、欧米人に酷い目に遭わされたからと言って、より(その当時はだが、)もっと弱い国だったところの人をいじめていいし、そういうことで自分の無念を晴らしていいのだ、という理屈というか感性は、日本国内でしか通用しないんじゃないかと思う。

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