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ゆぴの10分日記

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帰り道の10分間で書く独り言のような日記。よわっちくても生きてるだけでえらいえらい!
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2019年9月の記事一覧

みんなで何を喋ったらいいのかわからない問題

これは昔からの悩みなのだが、2人ならまだしも3人以上になった途端、何を喋ったらいいのかよくわからなくなる。 2人なら、お互いがお互いのことだけを考えていれば良いので、会話に集中できるし、受け答えもちゃんとできる。 でも、それが3人以上になると、ポォンと会話が宙に浮いて見える。「これ、私に言ってるのかなぁ」とよくわからなくなって、頷きbotと化す。 例えがよくわからないけど、「観客側」に自然とまわってしまうし、話題を振られた場合は不特定多数に話さなければいけなくなるので、

「あの人は特別だから」って土俵ズラしてるだけだよね

タイトルの口の悪さな!!!(笑) いやでも思うんだよ。 「◯◯さんは特別だから」「別格だから」って言う人はたくさんいるし、きっと私も無意識で言っちゃうこともある。 でも、やる前から「手が届かない」なんて思っていたら試合終了だと思いませんか。せめてリングに立ちませんか。 リングに立って圧倒されて降りるならまだしも、まわりからの噂だけ聞いて「敵わない」って思うのってただの憶測だと思うのよ。 たとえばものすごく結果を出している人がいたとして、私が「あの人みたいになりたい!

「どうして?」と問い続ける

「良かれ」と思ってやったことがマイナスに働くことがたまにあると思う。 相手のためにやったことが意外と喜ばれなかったり、余計なお世話になってしまったり。 じゃあ、どうしてそんなことが起きるのかというと、「想像力」が足りていないから、これに尽きる。 そして私は、事務仕事をすればするほど、この「想像力」はなくなってしまうように思った。 「言われたことをそのままやる」って実はとても簡単なことなのである。 「これをやっておいて」という指示をもらい、そのとおりにやればまず怒られ

遊びが遊びじゃなくなるとき

えーっとですね。わたしは永遠の17歳なのだが大学に行っていたことがある。(時空の歪み) どうしても行きたい学部があって、そこから大学を決めた。 でも、受験のときに親と少し揉めた。 何故なら、わたしの行きたかった学部が一見遊びのような学部だったからだ。 併願で受けた文学部に行きなよ、と何度も諭された。たしかに文学部のほうがまだ親も理解がある。文学も遊びといえば遊びだが、少なくとも「学問」だし。 何なら、どうせ試験内容が同じなら経済や商学部に行けば良かったのに、と言われ

目を瞑ってはいけないこと

昨日『くらべるグラレコ会』に行ってきた。 「グラフィックレコーディング」という、会議や話を可視化する手法があって、わたしは1年前から見よう見まねでやってきたのだが、グラレコにはそれぞれのやり方がある。 それを実際にみんなでくらべる。 同じ題材で同じ状況で書く。 **楽しい〜♡けど、なんと恐ろしいこと!!! ** ひとりで悦に浸って描いているうちは「あぁ…自分の絵はうまいなぁ…」と思うかもしれないが、他人と比べることで「いや、自分はヘタクソだわ」と認識することの恐ろしさ

孤独を愛せたら何かを極められるかな

最近遊んでいるのがしんどい。 誰かとごはんを食べていても、「こんなことをしていて良いのかなぁ」と思ってしまって、早めに切り上げてしまう。 好奇心旺盛なので「Webデザイン勉強したい!」「このイベント行きたい!」とすぐに申し込んでしまいそうになるけど、ふと我に返って、「いや、今の最優先事項を思い出せ」となってしまう。その葛藤の繰り返しである。 イヤーーもうどうしたらいいのこれーー!! とりあえずお仕事をめっちゃ減らして、ツイッターをあまり見ないようにして、人と会うのを減

「おんなじだね」は魔法の言葉だね

友人にものすごいコミュ強の子がいる。 初対面の人にもガンガン話しかけにいく姿を見て、いいなぁと思ったし、彼女と一緒にいるとついでに私も初対面の人と喋る機会をおすそ分けしてもらえるのでありがたがっていた。 (わかるかなぁこれ) でも、そんな彼女に今日「めっちゃ壁分厚いねってよく言われるんだよ」「別に誰とでも喋れるけど、本当に素で話せる人は少ないよ」なんて言われて、自己評価とまわりからの評価にはやっぱりズレが生じるのだな、と納得した。 それでいくと、私も狭く深くで仲良い人は

「意識高い系」って存在しないのでは?

書店に行くと、自己啓発本の棚の前にサラリーマンたちが群がっていて、いわゆる「意識高い」情報を貪り読んでいる。 「リーダー論」「お金の稼ぎ方」「ライフハック」「コミュニケーション術」「プレゼン力」 そして、こういった本を鞄のなかに忍ばせていると、それだけで「意識高いね」なんて言われてしまう。 でもわたしは、「意識高い人」「意識低い人」というカテゴリがあるというよりは、誰もに「意識高いフェーズ」と「意識低いフェーズ」があるのだと思っている。 たとえば新学期。何が起こるわけ

自分を偽ったその先に

「ありのまま生きるのが1番」だと思っている。 たとえば、苦手なことは誰かに任せてしまうとか、背伸びをしないとか。 よく、かっこつけて好きな人の前では普段やりたくないようなこととか、得意でもないことを披露してしまったりするけど、それで、後々苦労するのは自分だと思ってる。 「偽る」ことはあんまり良いものを生まない。 完璧に騙せてしまったその先で、自分が苦しむ未来が見える。 ハッタリは程よくかましていいと思うけど、自分が苦しむハッタリはだめだよなぁ、なんて思ってしまう。