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わたしたちが思い出を作る理由

花火を観ると思い出すことがある。

おばあちゃんの家が湯河原にあるので、わたしにとっての花火は毎年行われる「湯河原花火大会」だった。

うちは、誕生日以外はおもちゃを買ってもらえない家庭だったが、お祭りは特別で、お面や、キャラクターの絵のついたヨーヨーやわたあめを買ってもらえた。

今思えばわたあめなんて中身は全部同じである。それでも、キャラクターのついているものが良かった。

お面をつけて、わたあめがパンパンに詰まったピンク色の袋をぶら下げて、右中指にヨーヨーをつけて。

思い返すと、花火なんて大して観ていない。わたあめの袋をじっと眺めていた記憶がある。

でも、結局わたあめを食べてしまうと、ベタベタになった袋は捨てられてしまった。それがとてつもなく悲しかった。

夏祭りの後はおばあちゃんちに泊まる。

朝起きると、捨てられたはずのわたあめの袋が、キャラクターのイラストの部分だけ切り取られてお皿と一緒に干してあった。

その袋の切れ端の行方は今はわからないけど、これがわたしの花火の思い出である。

あれから毎年花火の思い出は増えていった。

はじめてお小遣いをもらって近所の小さなお祭りで自分でお金を出してかき氷を買ったときの喜び。クラスメイトと花火を途中で抜け出して公園で遊んだときの背徳感。プリクラを撮ろうとしたらゲーセンが閉まって証明写真機で撮ったら盛れなかったこと。みなとみらいでベストポジションを陣取ったと思ったら反対方向から花火が上がって爆笑したこと。

毎年花火を観るたびに、ワーッと鮮明に浮かび上がるこれらは、奇妙で大切で愛しい。

思い出というのは勝手に増えていくものだけど、誰かに「連れ出された」からこそ生まれた思い出も多い。

もともと引きこもり気質なわたしは、「旅行に行こう!」「◯◯を観に行こう!」とはりきる親を尻目に「めんどくさいなー」なんて思っていたこともあったけど、ぼんやりと参加した旅行ですら、ふとした瞬間に思い出されることがある。

でも、思い出にそっと手を伸ばしてみても、二度とそこにいけることはない。

今のわたしは親とお祭りに行ってもキャラクターのわたあめをねだることはないし、おばあちゃんはわたあめの袋を洗ってくれない。両手に両親のぬくもりはないし、見上げていた屋台にもすんなりと手が届いてしまうし、人混みで観えなかった花火は鮮明に観えてしまう。

それはちょっと切ないし、何に役に立つんだろうとも思うんだけど、そういった「思い出」に生かされていることもあるんだと思う。

しんどいときに、ふっと景色が出てきて、ああ、あれをもう一度見るために前に進まなきゃいけないな、と思ったり。

思い出は時間が経てば経つほど美化されて、自分の糧になっていく。

引きこもっててもいいんだけど。
外に出なくても死なないけど。

しんどくなったときに笑えるような思い出をたくさん抱えたいから、足を伸ばしていきたいと思う。

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