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【連載小説】 オレンジロード19

教室には、いつもよりも五分ほど早く到着した。
始業のベルが鳴り橋本先生の大きな体が現れるまでには、まだ時間がある。
教室の中には、教科書に目を通す者や隣の生徒と談笑する者、額を机につけて眠っている生徒もいた。佐藤の席には、ちょこんと小さな背中がある。

大きく息を吸い込み、心の芯に届くようにと、音を出して吐き出した。
机の中にあったエロ本を右手で握り締め、静かに席から立ち上がり、伊部のほうへ近づいた。

「何だよ?」伊部は口許をグニャリと歪めた。
僕は口を結んだまま、薄笑いを浮かべる伊部の顔を睨み付けた。
「何、ガンを飛ばしているんだ」
伊部が椅子からガバッと立ち上がり、いきなり僕の胸倉を掴んだ。
目の前に、伊部の尖った顎先がある。
その手を振りほどこうとしても、力負けして、引き剥がせない。
エロ本が手から零れ、バサリと音を出して床に落ちた。

「俺に文句があるのか」伊部が声を荒らげた。
僕は伊部の顔から視線を離さない。
僕たちの回りには、見物客のように生徒たちが集まり始めた。
ご丁寧にも、戦闘会場を作ろうと、机を教室の隅へ寄せる連中もいる。
「やれ、やれ」と囃し立てる奴や、口を開けたまま傍観する生徒たち……。
誰も止めようとしない。それは計算の内だ。

佐藤は小さな体を強張らせて、教室の隅で立ち尽くしている。
生徒たちの歓声が鼓膜を揺らす。
それでも、僕の頭は冷静だった。離れた場所から乱闘の様子を眺めているように、今の状況を見下ろしていた。
まだ、橋本先生がやってくるまでには時間がある。

教室の、ぽっかりと空いた中央で、僕と伊部は睨み合っている。
ここで、けりをつけてやる……。

伊部の膝が、僕の腹に目掛けて飛んで来た。
それを左肘でブロックし、右手で膝を抱え込んだ。
体勢を崩し、伊部の体がぐらりと傾いた。
その勢いのまま、僕は伊部の膝を思いっきり持ち上げる。

僕の胸倉を掴んでいた伊部の手が離れた。
その隙を見逃さず、伊部の太い首に腕を回し、そのまま脇の下に抱え込んで、ありったけの力を込めて締め上げる。
プロレスのギロチンチョークと言う技だ。

伊部は空いている両手で、僕の太腿にパンチを繰り出した。
容赦ない連打だが、我慢できないほどではない。
伊部がパンチを打ちそうになると、僕は腕に力を入れて首を締め上げた。
そんな攻防が一分ほど続いた。
伊部の反撃が弱くなったのがわかった。手数は減り、パンチにも威力がなくなっている。

これ以上締め上げるわけにはいかない。
やっぱり暴力は嫌いだ。できれば、伊部に敗北感を味合わせて、時間切れに持ち込みたい。
先生の来るまで、あと残りわずかだ。卑怯な手は使っていないし、クラスのみんなが見ている。いくら伊部でも、汚い仕返しはできないだろう。

「先生が来たぞ」
見張り役として、廊下に顔を出していた生徒が大声を上げた。
それを合図に、生徒たちは机を直し始めた。
僕は、最後に思いっきり腕に力を入れてから、伊部を解放した。

「次は、こんなもんじゃ済まさない。俺は死ぬ気で戦うからな」
力なく腰を折ったままの伊部の耳元で、僕は囁いた。
伊部は苦しそうに頬を歪め、咳込んでいる。

僕が席に着くと同時に、橋本先生が現われた。
教室に溢れていた熱気に何かを感じ取ったように、先生の目が細くなった。
「何かあったのか?」
誰も何も答えない。

先生は怪訝そうに眉根を寄せたまま、出欠を取り始めた。
その間も、僕は伊部の姿を視界の隅に捉えたままだった。
伊部は、首のあたりをしきりに摩っている。
一度だけ、僕と伊部の視線は絡んだが、目を逸らしたのは伊部のほうだった。
僕は掌に滲んだ冷たい汗をなかったことにするように、拳を握り締めた。

オレンジロード20へ続きます。

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