死ぬ前に食べたい回転寿司

ずいぶんとまえに回転寿司屋に行った。
席につくなり妹はメニュー画面をポチポチしながら、ネタを見定める。母は三人分のカップに粉末茶を入れて、お湯を注いでいた。

こんな時期にわざわざ行かなくてもと思っていた
わたしは、モヤモヤしながら流れてくるお寿司を眺めていた。

テーブル席はどこもいっぱいだった。
注文したお寿司が流れて来るとそれを手に取り、嬉しそうにお母さんに手渡す子どもの声がする。

エビが食べたいとか、アイスはダメだとか、それぞれのテーブルで小さな交渉が行われている声がする。

なんでもない日常の声
コロナなんてなければ、気にも止めないような会話がどんどん耳に入ってくる。


「何食べたいの!?」
横に座る妹が画面をポチポチしながら催促してきた。鍋奉行ならぬ寿司奉行だ。こうなるともう、一度も画面を触らせてもらえない。

「とびこ一皿」
周囲の声と同じように
わたしたちも日常の一部になる。

とびこ、とびこ、あじ、はまち、とびこ…なんだかんだ言って、食べ始めるとおいしい。久しぶりの回転寿司に、気づいたらとびこばっかり食べていた。

「せっかく来たんだから、もっと違うの食べればいいのに」
そう言って妹は、一貫だけ残ったまぐろの皿をこっちに渡してきた。半分だったら色んなネタをたくさん食べられるから。そっけないけど、それが寿司奉行なりの気づかいなのだ。

だから、
「バカいえ、せっかく来たんだから、とびこが食べたいんだよ!」
とは言えず、素直にまぐろを頬張った。


「お母さん、おいしそうにたべるね」
ふと、そんな会話が聞こえた。なんていい言葉なんだ。思わず箸が止まった。

声の主は前の席に座るひとだった。
息子であろうおじさんが、嬉しそうな顔してるのが見えた。向かいにはお母さんらしき丸まった背中も見えた。

「お母さん、おいしそうにたべるね」
そう言ったおじさんは、お母さんが食べる姿を見て、すごく、すごく嬉しかったのだと思う。
おいしそうに食べているお母さんも、きっと嬉しい顔をしていたのだろう。

ふたりの間に流れる幸福を表すのに、こんなにもやさしい言葉があるかと思った。
そよ風みたいに流れてきた言葉にすごく幸せを分けてもらった。
本当にちょっと涙が出そうになった。ひとりジーンとしてる横で、妹と母は奮発してウニの3種盛りを頼むか悩んでいた。


前にとある課題で、最後の晩餐は何が食べたいかと聞かれたことがあった。
ステーキだとか、おむすびとか、お母さんのごはんとか、みんなが思いおもいに料理を挙げる中、わたしはなにも言えなかった。

とびこですら言い返せない自分は、好きな食べ物を聞かれても、なんて答えたら良いのかが分からなくて言葉に詰まってしまうのだ。

だから最後の晩餐なんて余計に分からない。

悩みに悩んで課題の答えは、
「何を食べるかより、誰と食べるか」を選びたいと言った。

そう言って逃げたのだ。
みんなの前で好きなものもろくに言えない自分が、すごく、すごく恥ずかしかった。

だから「おいしそうにたべるね」を聞いたとき、ちょっとだけ救われたのだ。
お母さんは、お寿司が大好きなのかもしれないけれど、単にお寿司がおいしかったんじゃない。

おじさんと一緒に食べているからおいしくて、
嬉しかったのだと思う。

おじさんに言いたかった。
「お母さんはあなたと食べているからおいしいんだよ!!」

コロナが猛威を振るうようになって一年半。
誰かと食べるからおいしい
そんな瞬間がずいぶんと貴重なものになってしまった。

だからこそ最後の晩餐に何を食べたいか、いまだったら言える。回転寿司のテーブル席で、家族とか友達とか大切な人と顔を合わせて、とびことその他の寿司を一貫ずつ。


でも本当はこんな真面目じみた答えを早く上書きできるくらいの日常が戻ることを待っている。


#おいしいお店

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