存在のルール
死にたいは帰りたいという気持ちに少し、似ている気がする。
人は生まれた瞬間から死に向かう。
本能的に、形のない場所に帰ろうとするのが、きっと人間なのだ。
つり革につかまりながら、目の前の広告を見て思った。一昨日まで、誰にでも夢と笑顔を振りまいていた人気アイドルの写真が、大きく写っている。その横に赤く塗りつぶされた背景に、黒文字で「自殺」と書かれた週刊誌の広告は、湿っぽい電車の中に妙に馴染んでいた。
朝のラッシュを迎えた電車の中は、少し蒸し暑く窓を開ける人もいた。
誰ひとり口を開かない車内は、人の耳から落ちる音楽が、所々で何かをしゃべっているだけだった。名前すら知らない奴の隣で、ただ時間が過ぎるのを待つしかない。
オレは大学を卒業してから、必死で働いていた。
毎日、営業先のお客に頭を下げて、会社で扱う業務用パスタを飲食店に売り歩いている。
「お願いします」なんて言いながら、パスタ片手に見ているのはいつも自分の靴だ。客が口を開くまで、オレはいつも唇を噛み続ける。けれど、休日ともなれば立場は逆転する。昼どきの街中では、どの店もオレに向かって手招きをする。
そうやって社会は色んなものと繋がり、成り立っていることを知った。そう生きることが正しいと思った。けれど、そんな関係の中で生き続けることが馬鹿らしいと思ってしまった。オレは何のために生きているんだ?そう思った瞬間に崩れていった。
「マモナクー。シンジュク。シンジュクデス。」
半年前からこの駅名を聞くと、オレは吐き気がするようになっていた。会社から三駅前のこの場所で、一度降りるのが今の日課だ。扉が開くと同時に、片手で口を押さえながら、人の間を無理やり進む。小走りでホーム内にあるトイレに向かい、一人うずくまる。腹から出てきそうなものを、無理やり抑え込む。いくら気分が悪くとも、実際には何も出てこない。オレの腹の中には空虚な石ころがゴロゴロしているだけだ。
一通り落ち着くと、ホームのベンチに座った。
数分置きに来る電車を黙って見ていた。
「昨日のサッカーの試合ヤバくない」
「ヘディングでゴール決めちゃうんだもんな。マジ神だよ」
にぎやかな声と共に、薄汚れた学ラン、重たそうなエナメルバックを背負った高校生二人が横切った。彼らの楽しそうな顔を見ていると、今よりも何倍も楽しかった高校時代を思い出す。
高二の夏にバイクの免許を取ったオレは、コンビニとファミレスのバイトを掛け持ちして、ホンダのズーマーを買った。たいした速度は出ないけど、白い車体に、黒色の椅子がパイプで繋がっていて、ハンドルが広めで、普通のスクーターと違って、むき出しのままの部品が気に入っていた。
夜の九時くらいになると、トオルとリクの三人で公園に集まり、誰の合図ともなしに走り続けた。
「遅いよガク」
オレよりも少し前に免許を取ったトオルが横に並んで、大声でいった。
「うるせぇ」
ガクはオレのあだ名だった。本当は「学」マナブって名前だけれど、たいして勉強が出来る訳でもなかったから、そう呼ばれていた。走り始めた当初、オレは三人の中で一番運転が下手だった。
「お先に」
オレとトオルの横をスーッとリクが通り過ぎる。
オレの住んでいた街は、坂の上の街と呼ばれていた。それくらいそこらじゅうに坂があって、斜めに建てられた家や、自転車を押しながら歩く人々を見て育った。だからオレ達は風を切って走るのが好きだったのかもしれない。
「いやっほーい」
下り坂を走る瞬間、顔中に当たる風とスピードで、薄らとしか目が明けていられない。そんなときに反対車線からトラックなんか来ると、目の前がパッと明るくなって、大きな光に包まれるようだった。街灯は点と点を結ぶように続く。普段の生活の中では決して見ることのない光だ。退屈と思う日常から、一気に切り離された気分になった。
夏の風は、湿った匂いと昔の匂いがする。
光の中にいるオレ達は、何かのためや誰かのために生きている訳じゃない。風のように意味なんていらない存在になれた気がした。それがなんとなく自由だと思っていた。だからみんな馬鹿みたいに走っていたんだ。
一度だけバイクに人を乗せたことがあった。
卒業式の打ち上げの帰りに、方向が一緒だったニイノを家の近くまで送った時だった。ニイノは合唱祭の時に必ずピアノを担当するような女子で、あまり活発的には見えない。髪型はいつもポニーテールで、スカートは規定の長さ、校則の鏡みたいな奴だ。はっきり言って馬が合わないと思っていた。
街一番の上り坂に差しかかると、ニイノがぼそっとつぶやいた。
「ねえ、バイクに乗せてよ」
「えっ・・・。お前みたいな奴がそんなこと言うなんて、なんか意外だな」
「だって楽しそうじゃない。私も風を切って走ってみたい」
口は笑っているけれど、遠くを見ながら話すニイノは少し寂しい顔をしていた。
「寒いよ。鼻が少しツーンってするかも」
「大丈夫」
嬉しそうにうなずくニイノとは反対に、人なんて乗せたことないオレは、緊張していた。ヘルメットを手渡すと、人が全速で走った方が早いだろうというような速度で、慎重に坂を上った。「もっと速く走って」なんて言われたけれど、そんな余裕なんてなかった。
「ねえ、うえ!」
坂の上に差しかかると、ニイノがいきなりデカい声を出すから、思わずブレーキをかけた。
「なに!?」
「星がすごいよ!」
空を見上げると星屑の海が広がっていた。普段はバイクで走ることに夢中になって、気づきもしなかった。遠くの方では街の夜景が、手からこぼれ落ちた宝石みたいに輝いている。
「上も下もキラキラだ。私たちまで星になったみたいだね」
小っ恥ずかしいセリフもニイノが言うと、不思議とそう思えてきた。
「オレ達も大人になったら、何かの星になれるかな。将来のことなんてよく分かんないけど」
つい本音が出てしまう。
「なれるよ」
遠くを見ながらニイノが断言した。
「何を根拠にさ?」
オレは笑いながら聞き返した。
「私だってさ、自分が何のために生きてるかなんて、よく分からないよ。けどさ、何のために生きたいのか。それくらい自分で決めても神様は怒らないでしょう」
生きる理由は自分で決める。急に大人びたこと言うから、度肝を抜かれたのをよく覚えている。あのときのニイノはどんな理由を持っていたのか、聞くことすらできなかった。
通勤ラッシュを過ぎた駅のホームは、記憶と現実を曖昧にする静寂に包まれていた。
「何のために生きたいのか」
つぶやくように自分に問いかけた。「何のために生きているのか」問われたら正直、オレは分からない。でも、ニイノが言ってたように「何のために生きたいか」くらいは、好きに決めても良いよな。
そう思えた瞬間、石みたいに固まってた足がスッと動いた。
ホームについた電車に乗り込み、オレは日常の中に溶け込んだ。
おわり
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