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新卒で入ったヤフーを退職して、ライフコーチ兼UIデザイナーとして独立します

2020年4月に新卒のデザイナーとして入社したヤフーを退職しました。この11月からはライフコーチ兼UIデザイナーとして独立します。

最初からこんなこと書いてあれですが、まさか自分がコーチングで独立するなんて思ってもいませんでした。今までは会社のルールに基づき、組織に求められることをこなす生活から、これからは自分がしたいことを決め仕事を選んでいくことになります。

今までの人生を振り返ると、28歳までのこれまでは「世界への適合と自立」、これからは「自分の内なる声を聞き、人生を創り出す旅」になるんじゃないかなと思います。

このnoteでは独立までの経緯を振り返り、これまでの人生を一つの区切りとして完了し、新しい章に進んでいくため、あまり物語を美化せずに感じることをツラツラと書き留められたらなと思います。3つの構成に分かれており、

前編:新卒デザイナー視点でのヤフーという会社
中編:コーチとして独立までの経緯
後編:影の人生とこれから

それぞれ書いていこうと思います。(書いたところ、約1万5千字というちょー長編になってしまい、もしよければ気になるところからお読みください。自分と似た境遇にいる人の背中を押せたら何より嬉しいです◎)

前編) ヤフーという会社はどうだったか?

2020年のコロナ禍で入社しました。入社式も、研修もリモートでした。

就職活動は、4社ほどしか受けませんでした。元々デザインで挫折しかけた経験から(後編に記載)、デザイナーへの理解があり、ビジネスの領域にも入っていけそうな有名会社しかエントリーせず、取ってくれたのがヤフーでした。

ヤフーの「UPDATE JAPAN」というデカすぎるミッションには正直共感できないけれど、デザイナーとしてもまだまだだし、ユーザーファーストを掲げるヤフーという大きな企業でどれだけチャレンジできるのかという期待もありました。

1社員としてぶっちゃけ、どうだったか?

新卒や転職での入社を検討している方もいると思うので、あくまで中にいた1社員の視点で書くと、とても良い会社だったなと思います。

  • フレックスタイム勤務のコアタイムが廃止されたので、柔軟に勤務時間を調整できる

  • 定時に帰ろうと思えば帰れる。家族との時間を大事にできる(ただし部署による)

  • 副業も推奨しているため、自分の興味に時間が割ける

  • 社内異動に挑戦でき、やりたいことを優先させてくれるカルチャーがある。

  • フルリモート前提なので全国どこからで働ける

などなど、働き方に関してはIT企業の中でもピカイチなんじゃないかと思います。これらはコロナになってから変わったものもあり、5000人規模の会社で、時代の変化に対応できるのはとてもすごいことだと思いますし、これからもより働き方改革はされていくと思います。


自分のヤフー歴では、1年目は新卒として信頼を得るためにがむしゃらに働いたりもしていましたが、2年目は副業や興味のあったコーチングやにもチャレンジして、3年目に独立するまでに至りました。

ヤフーは「人財開発企業」であることを会社として掲げていますが、研修制度も色々と充実しており、才能と情熱を解き放ち、成長できる機会を増やすという観点では、カルチャーもしっかりとして間違ってなかったと思います。(僕の場合、Zアカデミアのキャリアについての研修や、ファシリテーション講座、アドラー心理学の実践などを受けてました)


一方で、新卒として入社した視点で、特にフルリモートという環境は中々厳しい部分もありました。

  • デザイナーの人脈が中々広がらない。

  • 他の人をみて技術を盗むのが難しい。

  • 部署によっては年齢層が高かったり、子育て世代が多いとライフワークバランス重視になり、価値観が合わない・悩みが分かってもらえず相談しずらい等の同期の声もあった。

  • 上京してフルリモートだと、快適よりも1人で孤独が極まる。

  • 熱狂感が感じられず、サービスや会社のミッションに共感しづらい。手触り感が少ない。当事者意識がわきずらい。

これらはヤフーだからということではなく、他の会社でも直面しているものだと思いますし、フルリモートを前提とした会社は、これからの時代に向き合う必要がある大きな課題でしょう。(あくまで個人の見解です)

僕はどちらかというと、休学してフルタイムで働いていた経験から、デスクの横の人にちょっかいを出したり、うぎゃーわからん!とドタバタして邪魔したり、今日も疲れたなーと雑談している瞬間に幸福を感じるタイプなので、もはや仕事の醍醐味が損なわれているようにも感じていました。(とはいっても世界的なコロナ禍の状況なのでしょうがない部分もあります)

孤独が中々しんどく、自律神経が乱れて夜眠れなくなったり、激務でもないのに低気圧の変動で頭痛や乗り物酔いのような症状、聴覚過敏になったりなど、仕事に手がつかない時期もありました。

瞑想したりやジムで鍛えたり、漢方を接種したりといろいろ試行錯誤しました。その中で、社内に「ピアサポ」という取り組みがあり、利害関係のない人にただ悩みを話すオープンダイアログという場があったのですが、話すだけでとっても楽になったのがビックリでした。

1人で悩んでいる人は、本当に誰でもいいから話す機会を持ってほしいし、1人1人が他者を思いやり判断せずに対話する文化が増えれば、もっと優しい世界になるんじゃないかなと思います。


また、当事者意識を感じずらいという観点では、優秀な人材が簡単に離れやすいため、会社も個人もより働くことの意義を考えていかなければいけない時代に来ていると思います。

自分は退職する流れとなりましたが、コロナもだんだん落ち着いてきたので、会社も出社を推奨して、リモートとオフラインのハイブリッドをどうしていくかを模索しているフェーズでした。

新卒のデザイナーとして何をしていたか?

新卒の研修を終え、主にデータソリューション事業のデザイナーとして配属されることになりました。元々就職する前に、ヤフーの安宅さんの「シン・ニホン」という本を読み、データ人材が不足している、これからはデザイナーもデータを見れるようにならなあかん!と意識高く見立てを立てていたので自分のキャリアとしてはピッタリ、ラッキーでした。

また、元々就職活動の面接の際は、1年後は周りから信頼を集めている状態になりたい、3年後は1デザイナーとしてバリューを発揮し特にデザインシステムを自分の強みとして生かしていきたい、5年後は事業を理解してマネージャーでも良いから全社に貢献できる役割を担えるようになっていたいと話しました。

配属先されると、部署のプロダクトがデザインシステムを独自に持ち、改修プロジェクトを任せてもらえたので、それもちょーラッキーでした。

振り返ると驚くほど言った通りになっていたのもビックリです。自分がしたいこと、求めていることを言葉にすること、その地点で見たい景色でもいいので、周りに働きかけることはとっても大事だなと思います。

待遇などの不満が必ずしもないわけではないですし、3年経たずにやめてしまいましたが、自分のやりたいことをしっかり主張すればチャンスを与えてくれる、自分にとってはとても良い会社だったなと思います。(もちろんベースのスキルセットや、タイミング、ご縁もあると思います)



中編) コーチとして独立までの経緯

屋久島のとある道にて

ここからが中編のお話。昨年(2021年)に元々興味のあったコーチングを調べ始め、いろんなスクールの説明会に行きましたが、あまり違いがピンとこず、一番雰囲気が自分に合ってそうだなと直感で感じたTHE COACH Academyというコーチングスクールで、基礎、応用ABのコースを受講しました。

THE COACH Academyでのコーチングの学び

コーチングとは定義も流派もさまざまですが、簡単にいうと相手の中に答えがあるという前提のもと、対話を通してその人の可能性や気づきを最大化させるプロセスです。

コーチングを実施するコーチは、問いや傾聴というスキルはもちろん大事ですが、それよりも自己の器を育むことが何より大切であるという学びと、受講中のクラスではどんな声も尊重しようという心理的安全性の保たれた場に出会い、なんと素晴らしい学びに溢れた場だろうと感動していました。

それは単なる優しさではなく、コーチングを受けるクライアントの中に答えがあるという前提の元、同じようにクラスでも受講生の学びの可能性を信じるという姿勢から、それぞれの人が自分の気づいていく、学んでいくというプロセスに富んだ場でした。実際に、学んでいく人たちの表情や気づきが深まり、それぞれ独自の学びを得ていく過程もTHE COACH Academyらしさだったと思います。

シャドウとの出会い

コーチングスクールにはそれぞれ特徴があり、THE COACH Academyでは特にシャドウを扱うというのが特色でした。シャドウとは、否定する自分自身の側面や、切り離された自分のことです。

シャドウは自分が他者に投影していると言われており、例えば、あの人を見ているとなんかモヤモヤする・嫌だなと思うのは、自身の影になっている可能性が高いです。

これを聞くと、シャドウに向き合うのは怖い!となりそうですし、僕自身も受講する前は気合をいれねばと思ってました。応用Bというコースでシャドウを扱うのですが、他の受講生も少しザワザワしてました。

しかし、実際にシャドウについての学びを深め、コーチングのアプローチの一つでシャドウ統合ワークというものを実際にやってみると、シャドウとは実は自分を守る温かい大切な存在であることに気づくのでした。これを体感した時「これは、すごいぞ…!!!」と全体の場で思わず興奮して声を出していました。

コーチングにもいろんな流派が存在します。(これはあくまで現時点での個人の解釈と見解ですが)シャドウはセラピー的側面も強く、コーチングで扱うことは稀だと思いますし、ビジネス寄りのコーチングでは事柄を扱うので、シャドウが合ったとしても扱わない場合が多いのではないかと思います。

しかし、人生を歩んでいると自分が抱えている課題は、必ず違う形で表出します。その際に自分の抑圧された部分・感情に向き合い、統合・受け入れていくことが、その人の本質的な変容・成長につながるのではないか?とコーチングを学ぶ過程で考えるようになりました。


コーチングに出会ってしまって…

応用コースを終えてから、自身のキャリアについて真剣に考えはじめるほど、コーチングという技の可能性に魅了されていました。コーチングの道に呼ばれる(calling)ような感覚で、自分が本当にデザインでやりたいことはなんだろうとモヤモヤが深まるばかりでした。

それからというもの「コーチングに出会ってしまって」が口癖になっていました。いろんな人に相談したり、自分もコーチングをしてもらって、まずは今の置かれた場でやりたいと思うことを全力でやりつつ、THE COACH Academyのプロコースを受講し、コーチングも少しずつ提供すればいいと一度決め、チャレンジすることにしました。

プロコースでは、クライアントに本質的変容をもたらすため、自己の変容に向き合うというテーマで5ヶ月のコースを仲間と共に歩んでいきます。その過程も僕の人生にとっては、とても味わい深い期間でした。

プロコースでの過程は、こちらのnoteにも書いています。


マイコーチとの唯一のキャリア相談

プロコースが終わった時、3月から月1回コーチングをしてもらっていた、THE COACH Academyコースリードで、プロコーチのこっちゃんにキャリアについてをテーマに、コーチングをお願いすることにしました。

デザインとコーチングにおけるキャリアについてのもやもやは晴れておらず、前日に自分のキャリアについてジャーナリング(メモに思考を書き出し)して、コーチングセッションに臨みました。

セッションが始まり今悩んでいることを伝えると、コーチのこっちゃんに「すぐさん、もう心では決めてる感じがするけど?」と冒頭で言われ、僕は全くも予想もしない展開に呆気に取られ「…へ?そうなの?」なんて言っていました。

その後、自分の心に聞いてみて、どちらがワクワクするか?心が踊るか?を問うてみた時、「今の仕事を続けるという選択肢はもうできないな…」となり、会社の人にはほとんど誰にも相談せず、独立してフリーで働くことを決めていました。

辞める頃合いをなんとなく決めながら上司に1on1でお伝えしたところ、そりゃめちゃくちゃ驚かれ、「唐突すぎてちょっと今は何も言えないです…」と言われました。3年目という良い節目にもいて、昇給や役割の交渉を上と掛け持ってくれてたようでした。(あの時の上司の方…すみませんでした!)

口癖の変化

THE COACH Academyのプロコースを受けてからは、「コーチングに出会ってしまってから」の口癖が「今の環境は周りが信じていることと、自分が信じていることが違う」という口癖に変わっていました。

データを扱うプロダクトを担当すること、そしてデザイナーとしてチームに所属することで、今自分が情熱を注ぎたいことと、周りから求められることに違和感を感じるようになっていました。

コーチング受けている時、こっちゃんに「すぐさんは何を信じてるの?」と問われ、その時は口に出すことが億劫で、あまり言葉にできませんでした。

しかし、今は心から「どんな人にも、その人の色や物語があり、自分の可能性に気づき実現していく能力は備わっている」と信じたい、コーチとして独立したことは、それを信じて共に在るということなんだと思います。


信じ始めたこと

もちろん、デザインもコーチングも手段にすぎず、元いた環境で自分がしたいことは形を変えてできたと思います。でも、会社員として求められること、デザイナーとしてしなくてはいけないこと、自分の大事な人生の時間を注ぐために今の選択肢の中でベストなのは、今の会社を離れてコーチとしてまずはフリー活動することでした。

そもそも、今までの人生でちゃんと自分で選んだことは本当の意味でなかった思います。今回の選択は、自分がそうしたいからする。それは、自分自身の可能性を信じたいからこそ、信じるからこそ、そして相手を信じるために、自分も自らに向き合うということでした。

と勢いよく書いていますが、辞めるまではそこまで確信がなかったんです。単純にプロのデザイナーより、プロのコーチになりたいと気づいてしまったから、今の環境にいることは違うんだなって気づきました。

最終出社日を迎え、仕事を辞めた時「あー、辞めちゃったはおれ」って思ってぐらい、勢いに任せていました。「コーチングに出会ってしまって」という口癖の裏には、コーチとして生きるということは自分の感情に素直に向き合わなければいけないというを、心のどこかで悟っていたのではないかと思います。

そうでなければ、相手のことを心の底から信じることはできないと思うのです。自分の感覚を偽ることで、どうして相手を信じることができるでしょうか?ましてや、自分はすぐという素敵な名前を両親にもらったので、この言葉の通り真っ直ぐに生きることが、人生を生きるということなんだと思います。

僕の好きな映画「マトリックス」で主人公のネオが、何でも知っている預言者のオラクルと出会うシーンで「キャンディーはいるか?」と尋ねられるネオは、預言者にこう尋ねます。

預言者「キャンディーはいる?」
主人公「受け取るかの答えはしっている?」
預言者「預言者ならそうだね」
主人公「なら選択の余地はないよね?」
預言者「選択はもうしている。ここへ来たのは選択した理由を知るためよ」

マトリックス リローデッド

マイコーチとのこっちゃんとセッションをした時に、仕事を辞めるまでの過程はこのシーンに重なる気がしました。ちょっと何を言っているかわからないですよね?

言いたいことは、今のキャリアを諦めてもいいと思えるほど、「情熱を注ぎたいと思えること」に出会えたこと、「自分の心と直感に従う勇気」を持てたということだと思います。

後編) 影の人生とこれから

ただのサッカー少年

幼稚園からずっとサッカーをしてました。小学校に行った時も、少しシャイだったけどサッカーが得意なので仲間に入れてもらい友達ができ、中学校もサッカー部のキャプテンでした。

高校に入ると今まで地域ぐるみで仲良かった人がいなくなり、全然馴染めなかったけど、サッカー部があったから居場所があるように思えました。しかし、今まで得意だったサッカーがだんだん狂い始めて、高校最後の試合ではレギュラーからも外れ、何もできずに試合終了のホイッスルを聞いた時、人生で初めて男泣きしていました。


問題解決としてのデザインとの出会い

サッカーだけやっておけば居場所がある、と思っていただけに、大学受験をする意味が見出せず悩んだ時期もありましたが、大学に入って心から好きと思えることを仕事にしようと、たくさんのことに挑戦しました。

電話営業や、短期留学、プログラミン、スタートアップなど色々挑戦しましたが、なかなかうまくいかず、大学4年というタイムリミットが近づいてくるのがとっても苦しかったです。

その時、「世界を変えるデザイン」という本に出会い、デザインの本質は問題解決であり、ものづくりの力で世界の貧困を解決するBOPビジネスとしての取り組みがあるということを知りました。デザインとはセンスや感覚でやるものだと思っていただけにとっても驚きで、もしこんなことができたら自分はどれだけ誇りになる仕事になるだろう?と惹きつけられました。

また、当時UXデザイナーという、ユーザーの体験を設計する仕事が話題になっていることも知り、絵もイラストも書けない自分でもチャレンジできるのではないか?と考え始めました。

何よりデザイナーの世界に対する姿勢に憧れました。デザインカンファレンスやTEDトークで、デザインを通して何を成すか?倫理を持ってどうプロダクトを作っていくか?人々の創造性を発揮しよう!というメッセージの数々に心動かされました。


未経験からデザイナーへの道のり

ITスタートアップでインターンしていた経験から、今では有名なUIデザイン会社に面談の機会をもらい「インターンさせてくれないでしょうか?」と殴り込みに行くも

「そんなに情熱があるのに、なぜ今まで自分で勉強してこなかったの?美大に行ったり、社会人で夜間で学校に行く人もいるのに、なぜ君はそうしてこなかったの?」と問われ、

ぐうねの音もでずに門前払いされ、その会社は嫌いになりそうでしたが、全くの正論でした。その後、友人にベトナムにある日経のデジタル・クリエイティブスタジオを紹介してもらい、そこではポテンシャルを買ってもらい無事インターンが決まり、未経験でデザイナーとして雇ってもらえることになりました。

大学4年になる前に休学して、ベトナムに行き、憧れのデザイナーとして少しずつ仕事ができるのは楽しかったです。

Photohopも触れないのに、実際仕事に入った際は、「え、そんなことも知らないの?」と言われるぐらい何も知らなかったのですが、バナーひとつ作るにしても制限のある中で伝えたいものを伝えるために課題解決する過程が、デザイナーとしてのキャリアを少しずつ登っている感覚がしてとても楽しかったです。(今思えば何もできないのによく雇ってくれたなと思います)

デザイナーインターン1ヶ月目で突きつけられる衝撃

インターン1ヶ月が経ったくらいで、デザイン責任者の方に面談の機会をもらって、緊張とワクワクがありお話ししたのですが、

冒頭に「水野君、デザインしている時、全然楽しそうじゃないね?」と言われました。

自分にとっては、知らないことをたくさん知れて、少しずつステップアップしている感覚があったのに、そう思われているなんて衝撃でした。

例えば、海外の1流のデザイン学校は、まずポスターを作って批評されてから、目の前でビリビリに破られて作り直しをさせられるとこもあるんだけど、君にそれくらいの覚悟はあるかい?」とも問われ、

その覚悟があるか?と言われると、あるとは到底言えるわけもありません。デザイナーとしてそもそも走り始めたばかりなのに。

「特にデザイナーって本当に給料低いんだ。今それを変えていこうという流れはあるけれど、君にそれができる能力があるとも正直思えない」と、せっかく今からどんどん頑張ろうとしているのに、崖から落とされた感覚でした。

信頼を失う日々

その衝撃があってから、どんどん迷いが生まれ、仕事もミスばかりしてしまい、周りからの信頼が減って仕事さえも任せてもらえなくなり、とっても辛い日々が続きました。まして、異国のベトナムなので相談できる人も少なく、孤独でした。

しまいには、他のメンターには「君には才能がないんだから、人柄だけでも磨きなさい」と言われる始末。見返すためにも頑張るも、いろいろ空回りしてある日の朝、ベットから動けなくなり、あ、無理だ。となりました。ある種のバーンアウトでした。(ここまで言われたことは、あくまで僕の視点でのリアルです)

何日も会社にいかない日々が続き、会社の社長とも話して、もう帰国のチケットを買ってしまい、「帰国します」とまで話すも、いろんな人と話しているうちに、もうちょっとだけ頑張ってみようという気持ちが芽生え、チケットは手放して、気力の残す限り頑張ってみることにしました。

デザインは一旦手放して、信頼を得るために頑張るというのだけを目標にすると、意外と周りからよくやってるじゃんと段々信じてもらい、信頼を得ることができました。


突然の家族会議

辞めると言い出してから仕事に復帰して落ち着いてきた段階で、ちょうど実家から電話がきて、大事な話があるから、できたら日本に帰国してほしいと言われ、深刻さは感じとって日本に一時帰国しました。

帰国してすぐ、家族で話し合いが始まり、母が癌である伝えられました。母は少し元気がなさそうぐらいで、でも、ぱっと見は普通でした。

父から母の状況を聞き、母に今どう思っていると父が聞くと「ずっと行きたかったアメリカの旅行に最近行けたし、英会話教室で子どもたちに英語を教えたり、本当にやりたいことはやれて悔いはない」と言っていて、その言葉に影や曇りは僕には見えなくて、そうなのかと受け取ることができました。

色々話し合い、今は逆に心配をかけたくないからベトナムに戻って自分のチャレンジをしてほしいと言われ、辛いところを見せたくないんだなというのも感じ取り、素直に自分は自分のチャレンジをすることにしました。本当にタイミングというのは不思議で、これも神様が用意してくれた期間なのかなと思います。

ベトナムに戻り、家族のことは心配だけれども、SkypeをしたりLINEで近況は聞きつつ仕事に励む中、3週間ぐらい経ったぐらいで兄から電話がきて、すぐ戻ってきてほしいと言われ、荷物を全てまとめて帰国しました。

大切な人の喪失

家に帰った時、前あった時とは1転して、母はもうほとんど寝たきりの状態でした。それでも、側にいられて家族と共に時間を過ごしました。ある日、母の隣にいた時、体調が少し悪くなりだし、「せんれんがきてる」と喋り出しました。「せ、せんれん?」と聞き返すと「そう」と返しました。

父と看病を代わったタイミングで、どんどん容態が悪くなり救急車を呼ぶと、急に意識がなくなり、病院に行った時には息を引き取きとっていました。

意識を失う前、「せんれんがきてる」と言った時、それを何度も伝えようと繰り返し自分に訴えかけているようでした。父は牧師で、僕は教会の家庭で育っちました。クリスチャンには洗礼(せんれい)という文化があり、最初はそれのことなのかなと思ってました。

その時、容態が悪そうだったので「讃美歌流そうか?」と聞くと首を横に降り、まるで母は何かを聞くように指揮者のように体が揺らしていました。

振り返った時に気づいたのです。「聖霊が来ている」と言っているのだと。母はその時、死の迎えが来ていることを感じ取っていたのかもしれません。

癌の痛み止めとしてモルヒネを服用したこともあり、夜中に幻覚をみることがあったようです。その時も薬を飲んでいたので、幻覚のようなものが見えていたのかもしれません。でも、教会で奉仕する母が、死の直前にもし聖霊がくるのを見ていたのなら、クリスチャンにとってはとっても素晴らしいことだったのではないでしょうか?

悲しいことがあったり、喪失があった時、その事実を拡大解釈したり、自分の都合のように見たりすることは心理学ではよくあるケースです。なので、自分自身もそう捉えたいように見て、記憶している可能性はあります。

でも、今ここで語ったことは僕の中の「リアル」でした。

大切な人を失い、今5年ほどの年月が経ちました。都内で1人暮らしを始め、新しい生活にも慣れ過去を忘れる時もあれば、ふと思い出し悲しく寂しくなることがあります。

歌手の宇多田ヒカルさんが好きで、彼女のインスタライブでリスナーからの質問に「再会の叶わない人との思いはどう断ち切ればいいでしょうか?」という質問に対する宇多田ヒカルさんの回答に、心癒されます。

喪失感とか悲しみを断ち切って前に進むことはできない。なぜならそれが自分の一部だから。自分の一部を切り捨てて前に進んだところで別の喪失が生まれる。その喪失を埋めようとしても永遠と続くだけ。この悲しい気持ちとか、耐えられないって思う喪失感はずっとあるかもしれないんだ。じゃあ大事にしていきていこう自分の一部として、って思った瞬間に、母親にもらったプレゼントを大事にしようという気持ちに切り替わったので、その時に初めて自分も自由になった気がした。

ヒカルパイセンに聞け! 2021.06.26 パート2

喪失感があること、それは普通の感情なんだと思います。それを感じれるタイミングは準備ができた時に表出するものだし、流れゆくものなんだなと思うのです。辛い時って、その感情が永遠に続くような気がしてとても怖いものです。

でも、どんなことも常なことはない。辛い時は辛いと感じられたらいいし、もし側に誰かがいれば聞いてもらえたらいいし、その痛みをわかっているからこそ聞いてあげられる人になりたいなと思うのです。


デザイナーとしての再出発

京都鴨川の日常

母との別れはしっかり側にいてあげられたこともありましたが、いっぱいバタバタして確かお葬式が終わったあたりか、たくさんの出来事がひと段落して、 1、2週間ぐらいはやっぱりずっと寝込んで悲しみに浸っていました。

海外で活躍するデザイナーになるんや!と意気込んだのに、ベトナムではそもそも仕事ができず周りからの信頼も失い、ようやく立て直すも何も成果を得られず、家庭は悲しみの渦中にいました。

いつまで寝ても何も変わらず、これじゃいかん!とようやく体を起こして、とりあえず何かしないとまた悲しみのループに引きずられると、前から知っていたスタートアップの編集アルバイトの求人を見つけ、デザインは一旦保留にして動くことを優先しました。

面接にいくと「デザイナーインターンも募集してるんだけど、どう?」と言ってもらい、ベトナムでの挫折もあって悩みましたが、もしかしたらご縁かもしれないとチャレンジすることにしました。

ベトナムで信頼を失った経験から、Giveしてもらうことを保留し、相手が求めていることをひたすら汲み取り、少しずつできることを増やしていきました。そうすると、信頼を自ずとついてきて、会社に受け入れてもらえるようになっていました。

デザインをしている時、何かに取り組んでいる時、悲しみはあるけれど、それと同一化することはなかったです。悲しみから逃げるように、動くことが何よりの癒しでした。

加えて、その会社にはわんことにゃんこがいて、動物が孤独を癒してくれました。寂しくても会社にいけば動物がいて、その温もりに癒されていました。

わんこ
にゃんこ


コミュニケーションのパラダイムシフト

自分は普段の生活での自己主張や、困った時に相談することががあまり得意ではありませんでした。ですが、家族の喪失は誰かに聞いて欲しかったし、でも悲しい話をして相手が暗くなるのが嫌でした。

しかし、悲しみの気持ちはいつも奥底にありました。なので、おかしなことですが、聞いてもらうために、まずは相手の話を聞いてみようと行動しようとしていました。

すると、どうでしょう?今まで自分だけ不幸だ、つらいと思っていた世界が、「相手に最近どう?お仕事どんな感じですか?」と聞いてみると、意外にも周りの人も日々葛藤していたり、不安だったり、つらいことがあったり、さまざまなことを抱えていることが明らかになりました。

これは自分にとって、天と地がひっくり返るほどのパラダイムシフトでした。「そうか。自分が不幸と思っていたけれど、自分の内面しかみていなかったのか」と。社内では自分が「コミュ力が高い」なんてよく言われていました。

大学に入ってからずっと人との仲が深くならなくて、コミュニケーションにコンプレックスがありました。いろんな本を読んでテクニックを実践してもうまくいかない。ずっと悩みでした。

そんな時、ある2週間の新規事業提案型のインターンに行った時、メンターにこのことを話すと「それは君が心から相手のことに興味を持ってないからだよ!」と言われ、それはとてつもない衝撃でした。

その時は衝撃すぎて自分の脳が追いついていなかったのですが、今ならこの意味がわかる気がします。仲良くなりたいなと思う一方で、この人はこういう人だ、自分と違うと判断している感覚が昔はあったし、今も時々感じます。

それは、コーチングも同じなのです。解釈や判断は横において、相手に最大の好奇心を持つこと。もしかしたら、コーチングへの道はここから始まっていたのかもしれません。


最終面接で泣き出して、ひとり旅に出る

結果的に京都のスタートアップでは1年半働き、2年休学することに決めました。会社の社長からも「もう1年チャレンジしてみない?」と提案され、自分の精神的なところと、デザイナーとしてのキャリアを考えた時、まだ新卒の切符を使うのは早いと考え、もう1年の休学を決めました。

それは、自分が決めたというより、周りから求めてもらえる環境があるということ、そして就活してもいい結果を望めないと判断したことにより、主体的なようで受動的なアクションでした。

しかし、スタートアップのプロダクトデザインを自由に任せてもらい、コードも書けるデザイナーになり、しっかり実力もついてきました。休学しつつもサマーインターンなどに参加すると、普段実務に関わっている自分からすると周りのデザイン就活生は「こんなもんか?」と思えるぐらいで、自信もついてきました。

やがて、就活の時期が近づき、いろんな会社を受けるもしっくりくる会社はありませんでした。それでも時間は迫ってくる。とりあえず、その時1番気になっている会社にエントリーし、1次、2次面接はポンポンと進んでいき、「あれ?いけるかも?」とほぼ最終面接に臨みました。

その面接では、面接官との歯車が会わなくて、最後には自分は泣き出していました。デザイナーとして社会に出る迷い、恐怖が表出してしまっていました。

聞かれたのは、「いつからデザインをやり始めましたか?」「モノづくりを最初にやった経験はなんですか?」「デザインで初めて解決した事例を教えてください」確かそんな質問だった気がします。

1次、2次面接で、大学からデザインを学び出したと伝えていたのに、最終面接の問いかけが「君はデザイナーではない」とまるで言われているようで、疑われているようで、そうでないと思いたいのに面接官が敵に見えていました。自分がまるで偽物だと言われているかのように。

就活を始めてから、自分がいなくても小さな会社が回っていることに気づき、自分の居場所がまたなくなっている感覚にもなっていました。スタートアップの会社は、まるで家のように毎日通っていて、自分にとってのコンフォートゾーンだったのが、いつの日かそれは依存先のようなものになっていました。

「これじゃいかん!」と、先送りにしていた自己分析を深め、ちょっと息抜きしようとインドに行き、美大生のポートフォリオに劣等感を感じていたため作り直して、本腰を入れて就活に挑み直しました。

インドのガンジス川

結果的に、ヤフーに内定をいただけました。内定をもらえたけど、最後の最後までここがベストなのか分からず、他の会社もみていました。いろいろやったけど、ご縁のある会社はなく、ヤフーに行くことにしました。

その時、デザインのメンタリングを受けていたしょーこさんには、「どれだけチャレンジしても、人生叶わないこともある。それはそういうご縁かもしれないよ」と言われ、「そっか」と思った記憶があります。

その後、学生生活最後の時間で、大好きだった小説の「アルケミスト」に憧れて、バックパックを背負って、世界半周の旅にでました。小説の少年が旅したサハラ砂漠を最終目的地にして、10カ国20都市を回りました。

1人旅なので最初はめちゃんこ寂しかったり、働きながら旅をしていたので、頭がパンクしそうになったり、デング熱にかかったり、大変でした。しかし、時折出会う人との出会いや美味しい食事、素敵な景色に出会いました。


旅をしている時、普段悩むキャリアの悩みは消えていました。最後のサハラ砂漠に辿り着いた時、「限りある人生の時間を何に使おう?」そんな問いが生まれました。

そして、ヤフーに入社し、コーチングに出会い、コーチとして今独立するに至ります。


さいごに

限りある人生の時間を何に使おう?

昔から行動力あってすごいね、とよく言われていました。この文章を読んでもらえばわかると思いますが、決して僕は行動力があるから何かをしているわけではなく、何かが不安で迫ってくるからこそ、変えようと思い、結果行動していただけなのです。普通に臆病で、実は自信もなく、何かに追われるように生きていました。

でも、コーチングに出会い、自分の可能性を信じたいと思うからこそ、仕事を辞めるという決断をすることができました。当時ベトナムでメンターに言われたことは、もしかしたら正しかったのかもしれないです。なぜならデザインではなく、コーチとして独立したのですから。

しかし、デザインは自分の得意になり、お金を稼ぐ手段の一つになったのも確かです。もし何かにチャレンジすることに悩む人がいるのなら、自分の直感に従う勇気を持ってほしいなって思います。それは僕自身に対しても同じです。

あっているか、間違っているかは分からなくてもいい。今見える景色から行きたいと感じられるものに向かってほしい。一度きりの人生だからこそ妥協せず、希望を持って生きてほしい。直感の囁く声の先には、きっと何かがあるはず。その囁きを聞こうとして、向かっていくからこそ、明らかになることもあるのだから。

もし、ここまで読み進めてくれた人がいるのなら、本当にありがとうございました。もしコーチングに気になった人がいたら、現在クライアントさんを募集しているのでぜひサイトを覗いてみてください。

今後noteでは「コーチ兼デザイナーライフのありのまま」というマガジンで記事を書いていくので、気になった方はフォローしていただけるとうれしいです。(今後はもっとサクッとした文章を書きます笑)

Twitter:@mimizunosuguru
noteマガジン:「コーチ兼デザイナーライフのありのまま

それでは、またどこかでお話しできることを楽しみにしてい
ます : )


いただいたサポートは健やかな生活と、人生の探求の道に使わせていただき、noteでその記録をお届けします。