見出し画像

名が残らなくても、心は残る −ミュージカル刀剣乱舞「花影ゆれる砥水」感想

ミュージカル刀剣乱舞 新作公演「花影ゆれる砥水」を観た。

「心や念のようなものは見えずともそこにある」 詠み人知らずの歌も、今となっては誰の心かわからなくとも今に残っている。 名も無き花も、いつか砥水に映った花影も、記憶に残らなかったとしてもそこにあったことはなくならない。 私があなたのことを覚えている。

わたしが大好きなテーマで…ほんとうによかった…。刺さって抜けないうちに感想を書き残しておく。

※考察等はなく、一個人の解釈・感想です。かなり偏りがあります。
※一期一振の修行の内容に触れています。


一期一振の話


私は、刀剣男士・一期一振が好きだ。彼の極がONLINEで実装された時、修行手紙に衝撃を受けて沼った。その時から一期一振の「空白」について考え続けていたのでこの物語が刺さってしまったわけだ。こんなに一期一振の話をやってくれるとは思っていなかった。感謝しかない。

一期一振という刀剣男士を語る上で避けては通れないのが彼の「記憶」についてだ。
彼は刀であった頃、焼けたことによって当時の記憶が抜け落ちている。明確にどこからどこまで等はわからないが、おそらく刀であった頃、焼身になる以前のことすべてだと思っている。修行手紙で本人が話していたが、史実に関しては刀剣男士になってから「記録」として閲覧することはできる。でも、実際にそれらを経験した記憶がないと、それは現実感のない書物の中の出来事のようになってしまう。
一期一振は、刀剣男士になってからずっと、自分の中の大きな空白を抱えて、現実感を得られないまま生きていたのだと思う。
そこについてダイレクトに言及されるとは思っていなかったので、最初からびっくりした。

「赤々とこのからだ焼き尽くす紅蓮の炎…」

M6「焼け落ちた思い出」

一期一振はおそらく燃えた時の記憶もないのかな…と思っているが、もしかしたら原初の恐怖として「炎にまかれること」がその身に刻まれているのかもしれないとぞっとしてしまった。聞いてないです。

一期一振は、自分の中身(記憶)がないのが自分であると定義づけているわけだが(というか、そうするしかないのだが)、その「空白」を自分で覗くとき、どんな気持ちになるのだろうとずっと考えていた。
一期一振はきっと、自分の中の空白を見つめるのがおそろしかったのだ。問いかけても何も返ってこない、がらんとした部屋のような空白が。自分を自分たらしめる答えがあったかもしれない場所に何もないということが、どれだけおそろしかっただろうかと考えると本当に苦しかった。

「あるのは名だけ 中身が抜け落ち まるで繕われた器」
「ここはどこだ 日の当たらぬ場所 いつだって私のそばにあった 一歩踏み外せばそれだけで迷い込む」

M10「抜け落ちた中身」(自信がありません)

カゲが自身のことを「吉光の太刀」だと名乗った時、一期一振は不安げな様子になる。それは、自分自身が「一期一振」であるという事実はわかっていても、実感として自信をもつことができていなかったからではないだろうか…と思うととても苦しかった。
自分のすぐそばにある奈落のような空白に落ちないように、ずっとこらえていたのだと思う。

だが、「吉光の太刀」と名乗るカゲが現れた。
一期一振より一回り大きく、一期一振にはない立ち回り、そして「吉光の太刀」と名乗るモノ。一期一振は自分の存在に自信がもてずにいたので、きっとカゲを見たときに「もしかしたら一期一振(自分)だったかもしれない」と少しでも思ってしまったのではないだろうか。そして、本阿弥光徳がカゲを一期一振と言ってしまったことで、一期一振とカゲは入れ替わってしまう。
カゲと入れ替わった一期一振は「私は本当に一期一振なのでしょうか」という問いかけをする。
自身のアイデンティティに真っ向から挑む問いだ。自分のIFの姿を見た上で、空っぽでも、それでも自分は一期一振であると結論をだしてくれた一期一振が本当に苦しくて愛おしかった。私がずっと一期一振の空白を見つめ苦しかった気持ちが救われたようだった。
修行手紙からすると、一期一振が何よりもほしかったのは失った記憶だ。でも、それはどんなに願っても二度と元には戻らない。一期一振が一期一振であるためにはそれを受け入れなければいけないのだ。
それがどれだけ苦しいことか、私には想像しきれない。それでもそのことを受け入れた一期一振は強いと思う。

「私を磨上げてまで佩刀したいとおっしゃってくれたこと、一期一振の誇り高い物語にございます」

(自信がない 間違っていたらすみません)

このセリフを聞いた時涙が止まらなかった。初めて聞いたけど私はずっと聴きたかったこのような言葉が……と本気で思った。
一期一振は秀吉と過ごした記憶がない。でも、この出来事で刀剣男士として秀吉と言葉を交わし、少なからず自分が秀吉の佩刀だったことに実感がもてたのではないだろうか。これが刀剣男士・一期一振の新しい物語になったのだろうと思うと、これほど嬉しいことはない。

カゲについては後述するが、カゲはあくまで影打ちの刀で、一期一振ではない。だからどれだけ一期一振のように振る舞おうと、一期一振にも刀剣男士にもなれなかった。
「私はあなたの中にひとときの夢を見たのでしょう」と言うが、カゲを通して自分を見た時、結局答えは自分の中にしかなくて、「何もない」ことが答えだったのだ。

きっと、一期一振は、刀身が焼けたこと自体はどうでもよかったんだろうと思う。 そこではなく、焼けた時に失った記憶(中身)がないことがずっと苦しかったんだとやっと腑に落ちた。
結局、一期一振を自分に合わせて磨上げてまで佩刀してたくらいには秀吉は気に入ってたわけで。というのを一期一振も分かっていたのに、それを自分は覚えていないということがずっと苦しかったんだろうなと思った。
一期一振にとって自分の中にある空洞を見つめるのはすごく恐ろしいことで、見ないように見ないようにしてて、極でもうどうしても埋めることは出来ないと諦めたんだな…と思っていた。でも、もしかしたら諦めもあったとは思うけど、受け入れて強くなったのかもと思えた。

わたしは一期一振が手紙で言っていたことを、秀吉が佩刀していたみたいに扱ってほしいってこと…?一番にしてほしいってコト…!?と解釈して狂っていたんだけど、それより大きく、あなたの元で新しい物語をたくさん作りたい、欠落が気にならないくらいに。って言いたかったのかなと数年越しに思った。

このお話で、一期一振への解釈が深まったし、もっと好きになった。本当にありがとう。

カゲの話

一期一振をこのような側面から語るとは思っていなかったので本当にびっくりした。
影打ち、もしかしたら一期一振だったかもしれない刀。一期一振になれなかった刀。ある意味、一期一振のIFの存在である。
きっとカゲの「存在への渇望」が彼に身体を与えてしまった。彼の美しさは生きたい、存在したいという強い渇望からくるものだと思う。

「あれは、なかなかに美しかったな」
「漆黒の中から己の存在を証明せんと手を伸ばす姿は、中々言葉にしがたい」

大般若長光のセリフ

カゲは、まるで刀剣男士のように振る舞うが、彼は「豊臣秀吉を守りたい」だけが彼の意味だった。
刀剣男士は「歴史を守るのが使命」。彼は一期一振でもなかったし、刀剣男士を刀剣男士たらしめるものももっていなかった。だからカゲ以外のなににもなれなかった。それが本当に悲しかった。だってそれが悪いことなんかじゃなかったから。ただそうあっただけなのだ、カゲは。

「カゲは、その名で語られず消えるだけ」
「忘れろ!覚えて、おくな」

カゲのセリフ

このセリフ、彼の矜持を感じるので泣けてしまうのだが、きっと自分が残っているとまた一期一振のことを脅かしてしまうから、とか思いやりから出たものかもと思うと泣ける。
結局一期一振って何かを守りたい刀で、きっとカゲもそうだったんじゃないかな。そういう意味では、一期一振とカゲは他の兄弟とは違う、半身のような存在だったのかもしれない。

一期一振はカゲを斬らなければいけなかったのか

最後、一期一振はなぜカゲを斬ったのか。
カゲがカゲのままであればいずれ消え物語の一部として一期一振に統合されるはずだった。しかし、実体をもってしまった以上そうなれなくなってしまったから斬るしかなかったのかな、と思った。
だから、殺したんじゃなくて、また物語に戻れるように、自分とひとつになれるように斬ったんじゃないだろうか。
きっとあれはカゲを解放したのだと思いたい。物語のひとつとして、一緒に連れていくために。
カゲもそれをわかっていたから(存在できるのはどちらかひとつのみ)斬り合いに応じたのだと思う。面を取って、自分のままで。
だから、カゲは消えてしまったんじゃなくて、正しく統合されたんだと思う。きっと一期一振の中にいる。
一期一振がきっとずっと覚えていてくれるから、彼はカゲから兄弟になれたんだと思う。

一部の最後の曲「よみびとしらず」が、私にはカゲに送る歌にしか思えなかった。

名もなき歌は風に消えていった 誰にも知られることもなく
名も無き花は咲いたことにさえ 気づかれることはない

M19「よみびとしらず」

本阿弥光徳の話

彼はこの物語の第二の主人公だったのだと思う。
後の世に数々の名刀を伝えた光徳。作中では、刀を「お刀様」と呼び、愛す人として描かれていた。彼の信仰のような愛が、刀のおもてを正しく顕してきたのだと思う。
だが、人間というのは、心がある。心はどうしても間違える。
光徳は、日の本一の目利きという自負がありながら、秀吉の「一期一振を磨上げろ」という命令にぎりぎりで耐えられなかった。自分にとっては神に等しい、美しい姿を損なうことに耐えられなかったのだ。

「人の心はなんて、醜くて、愚かなんや」
この叫びが、そのまま自分に返ってくる様は皮肉もあるけど、とても切実だった。見ていて自分の心にも問いかけられているようだった。
彼は多分、自分が刀の正解を決めることの重圧と常に向き合ってたのかな…と思う。自分のひとことで刀の名・価値が決まってしまうのだ。そしてそれは自分以外にできないことである。いかほどの重圧だっただろうか。
だからこそ、作中で自分がやったこと(カゲと一期一振真作を入れ替えてしまったこと)の重さもよくわかってたと思う。自分の心に振り回され、罪悪感に苛まれていたはずだ。秀吉から磨上げなくてよいと言われた時、どんな気持ちになっただろうと思った。(ここ自分だったら本当に絶望して最悪の気分になっていたと思う)

子供の時に聞いた鬼丸の声(時間遡行軍だったわけだが)に取り憑かれたように、お刀様の声を求めてしまう。この渇望を何故植えつけたんだろう。
光徳が心に従い、間違え続けることで、たしかに刀の歴史は変わっていたかもしれない。

あてはあてが聞きたいことを聞いとっただけ。思い上がりです。
心で見ようとしてはいかんのです。なので、目で見極めんと。
心は嘘をつきます。心は見栄を張ります。心は叶わん夢をみようとします。

本阿弥光徳のセリフ

でも、思い上がり、と断定したことでその歴史改編はなされなかったのかなと思った。
作中で、一貫して刀の声は光徳に聞こえなかったのがよかった。つまりそういうことなので。
彼は、たしかに刀の声は聞こえなかったかもしれないが、おそらく、最も近いところにはいたんだと思う。だからきっと刀剣男士が刀だと分かったんじゃないかな。光徳、審神者になれ…。

刀はなぜ美しいのか。
鈍く鋭く輝き生と死の間を照らす、戦うための、命絶つための形。
そんなことを感じさせないほど美しいのは、きっと人の心が乗ってるからじゃないのだろうか。醜くも美しい人の心が。
刀は、たとえ名がなくとも、価値をつけられなくとも美しい。
その刀に価値をつけるのはいつだって人で、光徳はきっとそのことに向き合い続けたのだと思う。
ものの価値を測るということが、人の心の醜さであり美しさであることに。


光徳のシーンで一番好きなシーンは、「研ぎ澄ます心」(だったはず)。
刀を砥ぐ光徳の周りに思わず見入ってしまったように集まる刀剣男士たちの、静かで神聖なシーンだった。
やはり刀剣男士に思うところはあるのかな。

豊臣秀吉の話

豊臣秀吉は、一期一振の元主という立場と、モノをモノとして扱う人間という立場で登場したのかなと思った。光徳と対極に当たる立場だ。

一期一振を磨上げることに異を唱える光徳に、

「儂のものをわしが使うのじゃ」
「使い手が使いやすいようにすることの何が悪い?」

豊臣秀吉のセリフ

と言うが、まったくもってその通りである。

私は審神者で、刀たちのことをそれこそひとのように大切に思っているから、ただモノとして扱われていることに思うところがあった。しかし、刀というものは秀吉の言うように道具だ。使い手が使いやすいように使うことは何も間違っていない。この両者の価値観の違いをフラットに描いているところがとても良かった。
光徳はもの(刀剣)を神・人の心として扱っていたから、秀吉のものはものという態度には相容れなかったんだろうな。逆に、秀吉からしたら、いくらでも作らせればいいのに何をそんなに執着しているんだと不思議だったことだろう。

秀吉は庶民から成り上がって天下人となった人だ。花影見るまで瓜畑あそびを知らなかったのだが、もしかしたら、天下人にかかる重圧をひととき忘れられるから好きだったりしたのかな…と思った。
一期一振に初めて会った時、ただ微笑みかけて安心させてくれたことに救われたのは、きっとそのような心の安らぎがなかったからだろう。周りには自分のことを天下人として扱う人しかいなくて、今の地位まで上り詰めた充足感はあれど息苦しさがあったのかもしれない。きっと秀吉には「一太郎」が必要だったのだ。
そして、刀剣男士・一期一振にとって、この秀吉との出会いが新しい物語になっているようで大変嬉しかった。刀剣として求められ気に入られたこと、刀剣男士(一太郎)として気に入られたこと、どっちも一期一振だけの物語だ。
逆に鬼丸国綱は刀としては遠ざけられたけど、刀剣男士としては気に入られたのが、因果だなと思った。

秀吉の、助けてくれた人を蔑ろにせず大褒めして褒美も取らす気前の良さ、気配りが印象的だった。きっとそういうとこが慕われていたんだろうなと思った。家臣たちもそういうところについていったんじゃないだろうか(後々は……、だけど)
助けてくれた身分もわからない人の寝所にわざわざ足を運んで、儂を救ってくれた、そばにおれって天下人に言われたらイチコロじゃない?私ならイチコロだね(そうですか)

一期一振もそんな秀吉の人となりに実際に触れられて、「ただの記録」だった記憶に少しでも実感がもてていたらいいなと思った。きっとそうだよね。

結び よみびとしらずのうた

この作品は、美しきものは名があるから美しいのではなく、美しいから美しいのだ、という話でもあったのかなと思う。
鬼丸国綱の「この花は、その名で呼ばれずとも美しい」だね。

最初の「よみびと絶えず」は桜のこと、名のある刀剣のことで、最後の「よみびとしらず」は名もなき花、歴史に消えていった刀剣のことのように思える。刀剣だけではない、歴史に消えていった数多のもの・ひとのことだ。

詠み人知らずの歌は、誰の心か今ではわからない。それでもその歌は残っている。たとえ名前がなくても残るものはあるのだ。たとえ誰が残した心か分からずとも、その歌の美しさは損なわれない。桜は美しい。桜が桜という名で呼ばれなかったとしても、それは変わらない。名前によって価値が損なわれることはないのだ。
それは刀剣もそうだ。
名がつくことで価値が変容したり、後の世に残る残らないは残念ながら左右される。だが、その刀剣が素晴らしい出来であったことは決して損なわれない。たとえ残っていなくてもだ。

この物語の中で消えていったカゲもそうだ。繰り返しになるが「よみびとしらず」はカゲに贈る歌に思えてならない。
刀ミュで繰り返される「花」にその文脈を載せるの、ほんとうに美しい作劇だった。

刀剣男士は歴史を守るのが使命。歴史に残らなかったものは切り捨てなければいけない立場にある。それでも、彼らが悩み・傷つきながらも「覚えて」いることは、たとえ歴史に残らなくても「在った」ことはなくならないのだ。

そういう物語の姿勢が好きだなと改めて思った。
今後も楽しみです!!!!!

この記事が参加している募集

舞台感想

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?