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財布の中に花びら五枚【青ブラ文学部】

*歩行者bさんの短歌をもとに書きました

あなたから奪った財布で旅に出る中にさくらの花びら五枚

歩行者bさんの短歌

いつものようにジーンズの後ろポケットから長々とはみ出たあなたの財布を見て私は突然きれた。その苛立たしい長財布をポケットからさっと抜き出して私は駆け出した。
「おい!」
あの人の声なんて聞こえない。
追いかけてこない。
私はこんなにも足が速かっただろうか。
今日のこの靴が良いのだろうか。
春らしいベージュのスニーカー。買ったばかりのシミひとつない靴。
私はそのまま駅に駆け込み、到着した電車にさっと乗り込んだ。
このまま旅に出るのだ。
春の一人旅。
苛々した心のまま、私はそう思った。
私は泥棒だろうか、スリ?置き引き?
なんだっていい。きっと彼のほうが悪いのだ。あの人のせいでこんなことになったのだ。私は悪くない。私は悪くない。
あいにく電車はすぐに終点だった。
旅というのはお粗末な、三つほど先の見慣れた駅に私は降りた。
そうだ、神社、神社に行こう。縁切りをお願いしよう。
私は駅からまっすぐ北に向かって歩いた。
そうすると大きな神社に突き当たる。

曇天の下、満開の桜に埋め尽くされた神社は灰色に包まれている。
私は賽銭箱の上で彼の財布の中身をぶちまけた。
しかし彼の財布から出てきたのは桜の花びらだった。
ひらひらと、五枚の花びらが賽銭箱にのんびりと一枚ずつ落ちて吸い込まれていく様子を私は呆然とみていた。
最後の一枚がするりと中に落ちて見えなくなった瞬間に、周囲から色が消え、セピアの世界になった。
私は目がおかしくなったのだと思い、空を見上げる。セピアの空にセピアの桜が広がっている。
自分の服を見る。桜色のワンピースはセピア色になっている。ベージュのスニーカーの色はあまり変わっていないように見えた。
一度目を閉じて、十数えてまたゆっくり目を開いてみたが、まだ世界はセピア色だった。
目がおかしくなったか、夢の中にいるのか、そのどちらかだ。
頭の上からセピア色の桜の花びらが舞い落ちてくる。みんな私をめがけて散ってきて、髪に落ち、広げた手のひらに降り積もる。
私はくすんだ色になった木のベンチに腰を下ろす。
すうっと涙が頬に伝う。
どこか遠くから、かすかに二胡の演奏が聞こえている。
寂しい寂しい二胡の響き。なんの曲だろう。中国の曲だろうか。
私はセピアの世界の中、おぼつかない足取りで立ち上がってよろよろと音色のほうへと進む。

境内で一番大きな枝垂桜の下にその人はいた。
そう、今年は何故かソメイヨシノも枝垂桜も一斉に満開になった。
その二胡を弾く人は、ノースリーブの袖から伸びた白い腕を柔らかく振りながら音楽を奏でている。立ち止まってそれに見入っている私に微笑んで演奏を止め、楽器を傍らにそっと置く。
「あなた、賽銭箱に花びらなんか入れちゃダメよ」
そう言うと彼女は私の前に握った片手を突き出し、 白い 手をそっと開く。あれ、そういえば彼女には色がついているなあと気付く。彼女の手には桜の花びらが五枚。私が頭を下げて手を出すと、彼女はその花びらを私の手にそっと移した。
「賽銭箱にはちゃんとお賽銭を入れて頂戴ね」
そう言うと彼女はまた二胡で風のような曲を弾き始めた。
私はもう一度お辞儀をして彼女のもとを離れ、音楽に送られるようにして賽銭箱のところまで戻った。私は再び神様に手を合わせ、鈴を鳴らし、賽銭箱に自分の財布から出した1000円札を入れた。
パンパンと手を打って目を閉じ、心の中で願い事を言い終えて目を開くと、そこはもう元の色付きの世界だった。
薄いピンクの桜の花が満開になっている。雲が去った空は青く広がっている。
私は来た時とは正反対の風のない日の湖のように澄んだ落ち着いた心で帰り道を歩いた。来た時と反対に行く電車に乗り、元の駅に降りたところであの人と、待っていたあの人と向かい合った。
「 ごめんなさい」
私は元通り桜の花びらの入った財布をその人に返した。
「いろいろ不安だったの。ごめんなさい」
そう言うとあの人は、私が少し下げた頭をポンポンと撫でてくれた。
「冷えたな。コーヒーでも飲みにいこうか」
私はこくりと頷く。
一瞬セピアの世界を思い出したがその記憶はさらさらと風に消されていった。風の中に二胡の音色がかすかにしたようなしなかったような…
もうそんなことも気にならず、私は彼の腕に手を伸ばした。

(了)

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