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つぶやき:孤独との対峙(ある意味自己紹介的な?)

書きたい記事の下書きがたくさんある。例えばMBTIに関するものとか、もう少しでアップできるものもある。……でも、またその合間を縫ってどうしても吐き出したい気持ちがあり、今日はつぶやきとしてこれを書く。日記や雑記のような感じ。

先回の実存的うつのように、あまり明るい内容とは言えない。いつも前向きな気分でいたい人は読まないでほしい。人生にはカフカの言葉が必要だ……! みたいなタイプの人には大丈夫(笑)

小説を書くつもりだったのに……

文章アドバイスのサービスを休止したのは、生活費の足しにもならない金額を得るために『全神経を注いで与える』ことに流石にもう限界を感じてきたから。身体的にも精神的にも苦しすぎたから。
ココナラで始めたサービスは、最高に生き甲斐を感じられる、自分の性格とスキルにぴったり合った仕事だった。職業を選べなかった私が生まれて初めて見つけた、自分の持つ能力を活かせる場所だった。楽しくて、幸せで、辞めるなんて選択はギリギリまで浮かばなかった。だって生涯続けられる仕事を見つけた!と、最高の充足感を得ていたから。

↓ これ。サービス提供の三年間、依頼者全員から高評価と感動の声を頂いてきた。感謝……!(今休止中)

これのおかげで自己肯定感爆上がりした。あらゆる切り口から細やかなアドバイスを繰り出せる自分の能力にも自分自身が一番驚いていた。だけど、肉体労働でボロボロに疲れたあと残った時間は創作に使いたい!という欲求を押し殺すことがもうできなくなった。熱心なリピーターさまに申し訳ない気持ちを抱えながら再開未定の休止にした。

そして身体を休めつつ小説の続きを書くつもりだった。小説は数年前、突然書きあげてしまった22万文字の恋愛長編小説の続編にあたるものだ。番外編は11万文字で書き終えた。今度は5万文字くらいの日常ミステリー風味にする。構想はすでにできていて、現在三万文字まで書いている。(ああ、自分で作った世界観が好きで好きでたまらない!作家ならわかってもらえるだろうこの気持ち)

本編(赤)と番外編(青)。たった一冊だけ作ってみた文庫サイズの印刷本。表紙イラストから帯やロゴや中表紙、組み版のデザイン、あらゆるものが自前。見た目に拘りが強い上デザインも得意なので誰にも依頼しなかった。主人公は共感覚者。私だけの宝物。


また、その小説を書き上げたら一旦執筆は休んで次にサイト制作にかかろうと思っていた。これは同人作家向けに特化した、小説の文章をうまく書くコツを伝授する(本来電子出版する予定だった)原稿を元に記事を書いて作るお役立ち的なサイトになる予定。描写に使える表現などの類語辞典みたいなのもくっつけるつもり。これも私的には壮大な計画なので、やり甲斐を感じている。

なのに……気がつくと今必死にnoteの記事を書いている。うん、これはこれで私らしい。いつもやりたいこと興味あることがあふれているせいで、いつ、どこで、どの方角に舵を切ることになるかわからないところがある。ずっと絵を描いたり音楽作ったりしてたのに突然小説を書いたのだって、HSP関連のブログ記事を書いてたとき『あれ? 私、ひょっとして小説が書けるかもしれない?』って思って、急遽方向転換して、フルタイム勤務しながら三ヶ月で長編を書き上げてしまった、という経緯がある。(因みに一年以上Kindleで販売もした。)

……こんな感じだから、いつも突然開けた道に向かって突き進み、そこで思わぬ成果を得てしまうことが多い。

今noteを書いているけれど、きっかけは創作の合間のちょっとした休止のつもりだった。お茶を飲むような気軽さで心理面から切り出す何かを書いてみるか、的に始めた。(正確にいえば、放置状態にしていたアカウントを再開した)

そしたら、書いているものの流れで自分の過去と向き合うことになってしまった……。過去と、自分の内面的特徴は、『忘れている』ことで日常を楽しくやれているという面がある。でもやっぱり自己理解について掘り下げていたら、自分探しみたいなところに行き着く。だから向き合ってしまう。

無関心と不理解に囲まれて

書いてきたように、私の身近にはいま(私の内面に、真の内面に)関心を持ってくれる人がいない。子供の頃の家族しかり、結婚後の家族しかり。

もちろん通常の人間らしい関心なら、生活上の出来事や興味の共有においてなら、今の家族(夫と息子)は昔の家族とはまったく違う。特に息子は私にとって太陽のような存在だ。(ちなみにMBTIでいうと典型的なENFPで、いつも笑える愛すべきキャラである。)
さらに、1年ほど前からHSPの友達もできて時々会ってお話しもできる。こんな存在がいることはどこか夢のようでもあり、奇跡でもあり、ありがたくて、日々幸せを噛み締めている。だって息子やHSPの友達がいなかったら、私は今どうなっていただろう……? 私を支えてくれる、本当に太陽と陽だまりのような存在だ。

……にもかかわらず、私は孤独だ。
家族を含め誰かとの交流では、いつも全開になれない自分を感じ、出せずに裏に潜めたおっきな内面世界の形や色や温度や奥行きなどを、語る機会が持てないからだ。語ることなんてできるわけない。空気を壊すことにもなるし、壊してまで語ったところで理解してもらえないことがよくわかる。私が感じているようには皆は感じていないことを、私の周りにいる人たちはいつも表情や言葉や態度ですでに伝えてくれている。

孤独には慣れている。でもさびしい。せめて人生のパートナーが、少しでも私の内なる世界に関心を持ってくれる人だったらここまでの思いにならずに済んだと思う。でもESTJくんは、私が何十回と自分の特徴として語ってきた言葉すら覚えてくれない。虚しい(笑)

こんなに、子供時代から何十年も、(真の私の姿への)無関心と不理解に囲まれて生きてきて……今後もさらに違和感や孤独感を持っていない人かのように振る舞って生き続けていくことに、意味はあるのだろうか? カフカの抱いていた、ある意味職人技的な凄みのあるハイクオリティー絶望感に美と安らぎを感じるほどだ。

ちなみに「人間、誰だって最後はみんな孤独だから」なんて言う人には回れ右してお帰り願いたい。私とあなたには何の関わりもない。

最後に残る幸福はオキシトシンである

いくら世間の人と距離を置き、社会を傍観して生きてきても、結局は私も悲しいほどに社会性を持つ生き物にすぎないのだ。社会(共同体、特に家族や友達という小さな共同体)との関わりに意味や幸福を感じる哀れな微々たる生き物なのだ。

むろん幸福といっても種類がある。幸福の優先度は当然ちゃんと弁えている。哲学者がすでに答えを出してくれているし、知ってる人も多いと思う。

1・セロトニンの幸福(心身の健康)
2・オキシトシンの幸福(絆と触れ合い)
3・ドーパミンの幸福(知、遊び、獲得による興奮)


私なりの言葉でまとめた表現ではあるが、これだ。これを知らないばかりに困難や問題にぶち当たり、苦しみもがいている人間が世の中にどれだけいるだろう。優勢順位を知らない人たちであふれかえっている。なぜ先人の知恵の言葉に耳を貸さないのか不思議に思う。

日頃哲学的な思考に囚われがちで誰かとのお喋りもそんなものを欲してしまうけど、それは私の脳が、そういう類いのもので『3・ドーパミン的幸福』を求めるからである。脳の造りがそうなっているのだから仕方ない。哲学的な思考、創作への意欲が私の『3の幸福』の源である。
しかしもちろん心得ている。人生という長い旅の最後、目を閉じて振り返るとき瞼の裏に浮かぶのは、誰かと笑ったり遊んだり旅行したり楽しい時間を過ごした思い出であるに違いないことを。あるいは肌の温もりや優しい笑顔や温かな声などだ。

自分が常に思考してきた理論や観念や概念や、創作世界の物語なんかじゃない。実在する人間である誰かに実際に感じた愛情、誰かと共に過ごした時間への愛着だ。そりゃそうだ。死を迎えるときは、『1・セロトニンの幸福』が終了するときなのだから、瞬間一番になるのは『2・オキシトシンの幸福』という理屈である。
人は、『1・セロトニンの幸福』を守り抜き生を終えるとき、心にはオキシトシンの幸福が浮かびあがるのだ。この事実は覆しようがない。人間である限り。いや、まあ人生で誰とも絆や触れ合いを持たず生きていける人がいるとしたらその限りではないかもしれないが。

つまり愛とはオキシトシンのことである、と私は常に思う。なんだか身も蓋もない言い方だけど、事実そうなのだからどうしようもない。子育てを放棄したマウスにオキシトシンを注入すればとたんに甲斐甲斐しく子供の世話を始めるという。セロトニンの重要性(自己の心身の健康)は言うまでもないが、生き物にとって、ドーパミンの幸福(地位や名誉や金などの獲得、達成的興奮)なんかとは比較にならない価値を持つのである。それがオキシトシンの幸福=「愛情」だ。

孤独との対峙

つまり、だから何を言いたいのかというと、だからこそ私が今向き合っている状況は『孤独』となるのである。世界について考えていること、感じていること、心にあたためていることを全開にして語れる『生身の存在である相手』がほしい。切実に……。

今noteでそれをコツコツと、自分のために気持ちの整理整頓としてしたためている。もしかしたら同じような仲間に出会える場になるのかもしれない、なんて一瞬小さな閃きも起きたりする。でもそれは書く目的にまでは至らない。あくまでも目的は自分の気持ちの整理なのだな。(そりゃ読んでくれる人はありがたく嬉しい存在だけど。目的とは重ならない。)

自ずと過去と向き合うことになるから、自ずと心の部屋の一番下に敷かれた水っぽい絨毯を眺めることになるから、毎日どんよりしてきている。笑えないくらいつらい。……でも書く。やっぱりそれが(脳の造りに合っているという意味で)生きる意味でもあるし、息をする次に自然なことでもあるから。

そして道を曲がったとき意外にも開けた新たな風景の中に、ある大切なキーワードを見つけてしまった。それが『ギフテッド』という言葉だ。……これはひょっとして……??
私が子供の頃からずっと愛し尊敬してやまないある人物像がいる。その人たちは歴史のページの中から私の往くべき正しい道を照らし続けてくれた。それに関わるキーワードのように思えてならない。だから、書いて、書いて、ある程度まで納得できるところまで書けたら、最後に私はその愛してやまない『何か』にラブレターを書くつもりでいる。それが、道の先にふと見つけてしまった、宝になり得るかもしれないモノだ。この小さな目的が今後往く道に何らかの精神上の実を結んでくれるとしたら、セレンディピティが起きたといっても過言ではないだろうか。

そこへ辿り着くために、孤独と正面から向き合う。
今はひたすらこれに耐えるしかないらしい。

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