見出し画像

共に幸せになる難しさ


去年の3月に脳内出血で入院し、6月に退院して以来、杖をついて歩いていると、度々見知らぬ方に呼び止められることがあります。入院前は場所やお店を尋ねられる事がよくあったので、またソレだろう……と思い立ち止まると、「もしよろしかったら、10分ほどお時間をいただけたら、自由に歩くことが出来るようにして差し上げられますヨ。」と、声をかけられます。「結構です!!」とスタコラ立ち去ろうとしたら、手をかざしながら(念を送るようにしながら)追いかけられたこともありました。「断りもなくされるのは嫌だけど、好意的に申し出てくださるのなら無礙に扱ってしまっては申し訳ないかもなぁ……」と思い始めていたので、先日、まだ学生さんくらいの若い男性に声をかけられた時には、こう返事をしました。「まぁ、お優しいのネ!大変ありがたいんですけれど、私はこの身体になってから、発見することも沢山あって、少しも不幸なわけではないんです。だから、大丈夫なんですヨ。他の方にして差し上げてくださいネ!本当にありがとうございます!!」……すると、その青年は、困惑したように呆然と立ち尽くしていました。
「……?」なぜ呆然としているのかしら?もしも本当に元の身体に戻ったとしても、元のように幸せになるとは限らないし、この身体で「不幸ではないのヨ」と本人がにこやかに言っているのに……と、不思議でなりませんでした。
あの青年は、「10分で治してみせたら、この人は涙を流して喜ぶはずなのに……」と、信じて疑ってもいない様子でした。
正直言って、確かに不自由なことも多いです。でも、意識していると、ふとしたことで、出来なかったことが出来るようになっていたり、何が大切か…に気づけることも多く、ワクワクすることも沢山あります。連れ合いの素敵さとありがたさも、こうならなかったら気づくこともなかったかもしれません。大変な割に毎日楽しく暮らしているのは本当なのです。「急に奇跡のように治ってしまったら、私は本当に幸せになるんだろうか‥…?」と考えると、何を大切にしたいか……で、全く違うような気がします。せっかく受け取ることの出来たギフトを今は大切にしたいのです。
「人を幸せにしたい!」と、志の高い方には、非暴力コミュニケーションの創始者である、マーシャル・ローゼンバーグ氏の言葉をお送りしたいと思います。
「他者の幸福に貢献することを心から楽しんでいる時ほど幸せな時はない」
これは、相手への思い遣りがないと、自分も幸せにはなれないことでしょうネ。
お互いに同じ「いのち」をもち、どこかで繋がっているからこそ出会えた相手と、共に「一緒に幸せになりたい!」と思うことが出来ることは、とっても大きな豊かさをもたらしてもらえます。人間は、生まれて生きているだけで、今ココに存在しているだけで素晴らしい「ギフト」なのかもしれません。それぞれに大切にしていることがあって、それをお互いに尊重し合い分かち合い認め合うことが出来たら戦争なんてなくなるだろうになぁ……と思う日々を送っております。
皆さんと、共に幸せになりたいものです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?