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小休止 #4

 固定的な風景というものはないのだということを、改めて思い知る瞬間がある。

 細胞、人並み、再開発、時間のスケールを伸縮すれば枚挙にいとまがない。
 僕たちは日々異なる自分を生きている。そのことに自覚的になれないのは、僕らの知覚がその流れのうえでのみ成立するからか、あるいはやはりスケールの問題か。

 僕が新宿駅をそれとして認識し始めたのは、高校生のころである。それより以前にももちろん新宿駅を訪れたことはあるが、それとして認識し始めたときにはその記憶は「あれはどうやら新宿駅らしい」という注記が付されていた。
 当時は南口の再開発が盛んで、まさにバスタ新宿が建設されている最中だった。

 いま、新宿駅西口の再開発が加速し始めている。見上げればそこにあったはずの高架が、ビルが、いつのまにか姿を消している。白い仮設の外壁が、その過程を僕ら通行人から隠し通そうとする。

 昔から東口の紀伊国屋書店が大好きで、いつも南口を出てぐるりと周ってそこを目指していた。ご存知のとおり、西口を周る経路は東口のそれより少し長い。そのことを忘れたまま右回りを始めて、回れ右をしないままに余分な時間をかけたことが多々ある。
 地下鉄駅からの乗り換えで、JRはすぐそこのはずなのになかなか改札口に辿り着けずに西口の地下広場を彷徨ったことが多々ある。
 地上に出れば進むべき方向がわかるはずだとたかをくくって、バス停という孤島にしか出れずに途方に暮れたことが多々ある。

 西口には、「良い思い出」がないのかもしれない。

 けれどその「良い思い出」ではない記憶も、失われるまでもなく「微笑ましい記憶」であることは疑うべくもない。

 変わっていく街並みを憂うほど、ひとつの街に固執したことはない。

 それでも東京に住み始めて数年、速度を増す西口の再開発は僕に「固定的な風景はないのだ」ということを改めて思い知らせる。

 いま煩わしさを感じるなにもかも、いずれ失われる、いずれ尊い過去に変える、そのつもりでいたい。そのつもりでいることそれ自体にはなんら意味はなくとも、そのつもりでいることそれ自体が「固定的な風景はないのだ」ということを諦念のように受け入れさせるのだとしても。

 いつもより空がよく見える新宿駅西口で感じた、あの不思議な思いがいつかまた僕に訪れることを願って。

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