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今回も少し前に行ったところですが、高貴寺(こうきじ)の様子を紹介しましょう。

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地図で位置関係を見ると南河内郡河南町の北側、平石と言いうところにあります。

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結構山奥にあるので、なかなか行く機会がないようなところ。

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メインの道からさらに、坂を上ります。

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坂の上まで行くとようやく入り口の門が見えてきました。

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門から入ると、左手にも建物がありますがここには入れないようになっていました。

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正面に本堂があります。6世紀末から7世紀の初頭に創建と言われており、役行者が開いたとか。高野山真言宗の寺院になっています。

また住吉三神のひとつ底筒男命(そこつつのおのみこと)が降臨した場所としての伝承が残っています。

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平安時代初期の弘仁年間(810~824)に、空海がここに来た時に高貴徳王菩薩を見たために高貴寺という名前が付きました。

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最後に高貴寺の説明版がありましたので、いつものように引用しましょう。

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昭和十八年八月二十三日、大阪府古文化記念物等保存顕彰規定により史跡指定 所在地 南河内郡河南町平石
伝えるところによれば文武天皇の御代役行者が法華経二十八品に配して葛城山の峯々に開いた二十八霊場の内、当寺は第二十五品の観音経普門品に配当されるものであった。
仏に供養する香花(コウゲ)が、四季絶えなかったので香花寺と名付けられたといわれているが、香花は神下とも書かれるから別個の意味を有しているかもわからない。
嵯峨天皇の弘仁年間には弘法大師が勅命を奉じて堂塔を建立し、そのあと当寺はその弟子の智衆大徳に譲与されたとされている。下りて
元弘年間、当寺の衆徒は南朝に属したが、笠置山陥落後関東方は寺の西方なる楠木の支城平石城に拠る平岩氏を攻めるに際して当寺の伽藍も灰燼(はいじん)に帰し、自後数百年に亘って法燈振るわなかった。安永年間に至って一世の大徳慈雲尊者が当寺に留錫(りゅうしゃく:他の寺院に一時滞在する)し、以来約三十年に及んだ。
かくして皇室の御帰依を蒙り、また徳川幕府から正法律高貴寺一派総本山たる許可を得るところとなった。尊者は伽藍を修築し、旧観復興したので、尊者をもって当寺中興第一世とせられている。その学は、和漢、梵に通じ梵学の造詣に至っては比肩するものはなく、梵学梁一千巻の大著述がある。また神通を究明して葛城神通を興し、十善の道を説いて、十善法語十巻を著している。桃園天皇の御生母開明門院、御桃園天皇の御帰依を受けまた郡山藩主柳澤保光公法弟子となり各宗の僧侶も来て教を仰ぐなど上下の学信が篤かった。
現在の寺堂としては、金堂、講堂、開山堂、奥の院の御影堂などがあり、それぞれ五大明王像、弁財天像、慈雲尊者像、弘法大師像などが安置せられている。御影堂側には、慈雲尊者の慕塔たる五輪塔があり、金堂の側後には、重要美術品の石造十三重塔、石造宝篋印塔などがあり、本堂前には応永二年(一三九五)罪名の石造燈篭がある。なお同地の磐船神社は、もと高貴寺の鎮守であったが、明治初年の神仏分離によって高貴寺から離れた。

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